ふたりの世界 | ナノ
年末、私は実家に来ていた。実家で年を越し、年始は父の実家、親戚一同が集まる祖父母のへ行かなければならない。毎年億劫であるが、仕方のないことだと割り切れてはいる。
家族で昼食とりながら自分の適当な近況報告をして、彼らの会話を眺める。それらが一段落したところで、私は腹ごなしに散歩へ行くと父に伝え家を出た。

あてもなく歩く。自分がこういった理由のない、意味のない行動を、覚くんと再会してからするようになったと思う。それに嫌気など差さないが、感心にも似た呆れが白い息となって外へ溶け出た。
しかし無意識に、目的なく歩いていると思っていた道は、私が中学生の時から歩き馴染んだ道。そこで頭に浮かぶのは、どうしたって彼のことだ。どんなに隠しても、もしくは捨てても、消えることはない存在。彼と何度も歩いた道。彼と何度も一緒に、そう認識しているけれど、実際それは一握りの日々だ。その一握りの日々が私を支えていたのに、今では私を苦しめている。
私は意識的に歩き慣れない道へと足を進めた。なんとなく知ってはいるけれど、歩いたことがないと想定される道。そんな道を進んだ。

冬というのはよく音が響くはずなのに、とても静かな街並みだった。とても静かで、心地よいとさえ思える。空気の冷たさと、静けさが、思考を空っぽにする。このまま冬の空気に溶けてしまいたい。そうぼんやりとしたことが、頭の中に浮かぶ。
すーっと雪みたいに、音もなく消えていく。そういったことを考えた時、大きな破裂音が鼓膜を叩いた。あまりにも急なことだったので、飛び上がるようにして跳ねた身体。その拍子に手に握っていた鞄が地面へと転がる。何事かと辺りを見回すと、私の肩を叩くようにして、背後から再びワンと大きな鳴き声がした。恐る恐る振り返る。すると黒々とした丸い瞳が私を待ち構えていた。とても大きな犬だ。
あれ、以前にもこんなことがあったな。そういった感覚が私の脳を刺激する。すると頭の中へ記憶が飛び込んでくるようにして、情景が浮かび上がった。

「ここん家の犬、ちっこいくせにチョーでっかい声なんだよネ」

そう言って私が落としたクリーム色の上履き入れを拾い、こちらを覗き込んだ男の子の背中には黒いランドセル。

「走れば怖くないヨ!」

楽しそうに駆け出した彼の足元には、青色のスニーカー。頬に当たる風が冷たく、寒さのせいかまぶたがあまり開かない。けれどこっちこっちと弾み、踊るような足取りで嬉しそうに手招きをしている男の子の輪郭は、やけにはっきりと映っている。さらりと揺れる、赤い髪。赤く光るような瞳の色。覚くんだ。目の前の男の子は覚くんだ。

「この公園、毎朝近所のじいちゃんが懸垂してんの」

長い橙色の雲梯がある公園。
そうだ、覚くんのバレークラブの見学に行った日だ。着替えと準備があるから、覚くんの家に寄ってそれから体育館に行こうって。そう言われて一度だけ、覚くんの家の前まで行ったことがあった。
一歩一歩、慎重に。細い糸を手繰り寄せるようにして、記憶を辿る足取り。踏み出せば踏み出すほど、蘇る記憶。そうしていると、慎重だった足取りは次第に軽くなり、速度を早めた。
どんどん思い出せる、あの時の景色。景色だけじゃない。あの日の天気、冬の匂い、覚くんの声、初めて親に内緒で、学校帰りに寄り道をする罪悪感。それを上回る、冒険をしているような胸の高鳴り。そんな私の心情まで思い出せる。

緑色の文字で書かれた大きな看板のある書道教室。他より安いけど美味しいジュースがない、黄色い自動販売機。丸い窓のある、黒い屋根の白い壁の家。黒ずんだ紅色のポスト、そしてバラの門がある家。

「このバラだらけの家、魔女が住んでるんだヨ」
「魔女?」
「そー。いっつも紫色の日傘に紫色の服着て、紫色の長靴はいた女の人が庭弄ってるから」

その家を曲がって、四軒目。

「ここが俺んち!」

両手をいっぱいに広げて立ち止まった、覚くんの幼い笑顔。その先にある家は、記憶の中と目の前の外壁の色が一致していなかった。けれど表札には天童という文字が刻まれている。その文字を見ただけで、目の奥がジリジリと痺れた。
私の記憶違いという可能性は充分に有り得る。偶然同じ苗字の人が住む家に、たまたま辿り着いてしまったのかもしれない。それらの可能性を否定するだけの確信はないし、確認のしようがない。
そもそも確認したところで……。そこまで考えて思考を意識的に止める。そもそも私が勝手に思い出して、勝手に来てしまっただけだ。勝手に。そう勝手にだ。この行為を世間一般では、ストーカー行為と呼ぶ。そう思うと軽かった足取りが、凍りついたように重くなる。そして自分にぞっとした。現在の行動と、短くない付き合いなのに、覚くんの住む家すら知らなかった自分に、ぞっとした。

自分は何をしているのだろう。なんで、こんなことをしてしまったのだろう。
地にべったりと張り付いた足を、無理矢理に引き離して踵を返す。すると、見慣れた色の瞳と視線がぶつかった。久方ぶりに見る色。その色に見惚れていると、「こんにちは」と彼の面影を持った女性に声をかけられ、我に返った。

「……こんにちは」

初対面なのにじっと顔を見るなんて失礼であるし、不審に思われて当然で、明らかに自分に否がある。
すみません、そう呟きながら小さく頭を下げて立ち去ろうとすると「あの」と、女性に呼び止められた。

「もしかしてナマエちゃん?」

まさか自分の名前を呼ばれるなんて思わなくて、間の抜けた声で返事をしてしまった。そんな私の返事を聞いて、飛び上がるような笑顔を向けてくれた女性の、少し上擦った声と笑い方が、覚くんによく似ていた。


-----


よく写真見せてもらっててね。ほら、今のケータイの写真ってすごく綺麗じゃない? だから一目見てわかっちゃった。
聞けばいろいろ話してくれるのに、一度連れてきてって言ってもそのうちそのうちってそればっかりで。だから今日は来てくれて本当に嬉しいわ。それなのに当の本人はバレー部の集まりに行ってるんだもの。みんなが帰省してくるからーですって。こーんなに可愛い彼女放っておくなんて信じられないわね!
え? あら、約束してた訳じゃないの? あ! もしかしてケンカ? それなら謝ってくるまで許しちゃダメよ。
ん? なんで覚が悪いって思うのかって? そんなの男が先に謝らないと!
あっはは! まあ、ケンカなんてね、単なるコミュニケーション不足なんだから。あれこれ言い合ってたら解決しちゃうものよ。それでダメだったら、サヨウナラって。まだ若いんだから次よ次!
覚よりいい男なんてね、ゴマンといるわよ! ゴマンと! 知らないけど! あはは!

覚くんのお母さんは、とても楽しい人だった。とても優しい人だった。そして彼の家族なんだなと、当たり前のことを感じた。

「また来てね。 覚と別れても遊びに来ていいからね。今度ランチ行きましょ!」

まとう空気が、言葉の端々が、仕草の隅っこが、彼を思わずにはいられなくなる。

「ケーキ、ごちそうさまでした。ぜひ行きましょう」

覚くんのお父さんを駅まで迎えに行くからと、私を家の近所のまで送ってくれた。そんな些細な優しさは、陽だまりのように温かいものだった。そういうものに触れた時、その中で、その胸で泣いてしまいたいような気持ちになるのは、なぜだろう。そんな理由を知る必要はないと思うし、知りたくない。だって、なんだか怖いから。けれど受け取った、温かな気持ちだけは、大事に抱いて実家へ戻った。
忘れないように。大事に。そうやって抱いていたはずなのに、元自室でペンを走らせていると、いつの間にかあの時の、確かに受け取ったという感覚が消えていた。腕の中にあったはずなのに、よくよく確かめてみるとそこには何もない。どんな色形をしていたのだったか。そもそも、色も形もなかったか。……まあ、いいか。そういうものがあったということさえ、覚えていられれば。そうすれば、失なったことにはならないはずだから。
私は再びペンを走らせた。


----


深夜0時過ぎ。寝付くことができず、勉強するにも集中力が途切れ、水でも飲もうと思いキッチンへと向かった。ウォーターサーバーからコップへ水を注ぐ。ぼんやりとタンク内の揺れる水面の曲線を眺めていると、タンク容器の側面にぼうっとした黒い影が映った。それが人影だと理解するまで数秒。理解してから、その人影が誰であるか想像していると、「眠れないの」と声をかけられ、リビングの入口で佇んでいるのは母であることがわかった。

「……眠れないの?」

返事をしなかった私に、再び同じ言葉を投げ掛けられた。その母の声は掠れていて、とても小さな響きだった。それに対して私は、「うん」だとか「まあ」だとか。曖昧な返事をしてコップへ口を付ける。そして空になったコップをシンクへと置き、「おやすみ」と声をかけて元自室へ。そう、行動しようと思っていた。思っていたのに、なぜか昼間の覚くんのお母さんとの会話が脳の中で再生される。“単なるコミュニケーション不足”その言葉が、あれからずっと頭の中にある。

「あの」

そう発した自分の声は母同様、掠れていた。言葉を発するだけ、それだけのことが酷く、難しい。

「あのさ」

母はリビングの入口から、ゆっくりとこちらへ向かってくる。ペタペタとスリッパの音が響く室内。その音がやけに懐かしく感じた。懐かしくて、緊張からか胸が、心臓が、痛くて苦しい。

「どうかした?」

スリッパの音が隣で止まり、発せられた声色は柔らかいものだった。けれどそちらを向くのは、なんだか怖い。怖いから私は、シンクに映る自分の顔を眺めた。
怖い。怖いな。変化は、とても怖い。そう考えると覚くんを思い出し、ふふ、と息が漏れるような笑みがこぼれ、少しだけ身体が軽くなった。
私の世界には、私ひとりきり。だけど、それでもやっぱり、私の世界には覚くんがいるんだね。

「お母さん、……私ね。今付き合ってる人がいるんだ」

世界の中心に近い場所

prev | back | next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -