ふたりの世界 | ナノ
吐き出す息が白く色付き、痛いくらいにひりつく寒さに身体が強張る。覚くんから連絡がこないまま、季節がひとつ変わっていた。
街中は緑と赤、そして煌びやかな光で覆われている。それはいずれ訪れるクリスマスを待ち構えているようだった。去年は覚くんが私の受験を応援してくれたなと思い出す。それが酷く遠く、とても古い記憶に思えた。
なんだか覚くんが、遠い。うまく思い出せない程に、遠い。

「ナマエちゃん」

そう私を呼ぶ声を、ちゃんと思い出せる。笑い方も、触れ方も、キスの仕方さえ、思い出せる。けれどそれは完全に私の中の記憶であり、感覚的なものではなくなっている。消えていく、捏造されていく、失われる。そう思うと怖くなった。

夜、布団の中で私はスマホの中にある覚くんの姿を探した。けれどそこにあるのは、覚くん目線のものばかりだった。彼目線の、彼の世界。覚くんが撮って、私に送ってくれたもの。二人で映っているもの、私だけが映るもの。その中にあったムービーを開く。

「覚くんなら大丈夫だよ。ファイトファイト」

まっすぐにこちらを見据える自分が、淡々と述べた。そして「はっ」と、短く笑った覚くんの息遣いを最後にムービーが終わる。
何度もそのムービーを再生させた。何度も何度も、覚くんの息遣いを聞きたくて、再生させた。彼の呼吸の音に胸が締め付けられ、あまりに苦しく、切ない痛み。経験したことのない苦痛をひとり抱き締めて、目を閉じた。

「おやすみ」

そう言葉を送っても、声を発しても返事はない。ひとりだ。私は本当に今、ひとりきりなんだ。


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「俺が最初に内緒って言ったんだけどさ、ナマエちゃんは昔と変わらないよネ。自分にしか興味がない。俺の進路、そんなに気になってなかったでショ? 世界に二人、ナマエちゃんのいうソレってどんな所? ただナマエちゃんの気の向いたときに、二人がそばにいる。そんな世界?」

覚くんが話したくないことを、無理に聞きだしたいとは思わなかった。自分から話したい、そう思ってくれた時に知るのが一番いいと思っていた。
今までずっと、最優先事項は学業だった。そうやって生きてきたし、そのことに疑問なんて持ち合わせていない。
私が間違っているのだろうか。間違っていたのだろうか。内緒だと言われても、知りたいと強いればよかった? やるべきことを差し置いて、二人の時間を確保すればよかった?

「ナマエちゃんはさ、目の前のことしか見てない。それ以外見ようともしていない」

目に見えるものしか、見えないよ。目の前のことを見ていて、どうして駄目なのか。覚くんは何を見ているの? 何が見えているの?

「ゴメン。泣かせちゃったネ」

言葉は思い浮かんでも、私の口は動かなかった。ただ涙が止めどなく流れている。その涙をすくう覚くんの指使いに、更に視界が滲んだ。
自分の涙のわけも、覚くんの見ている世界も、何一つわからなかった。わからなくなってしまったのか、もともと、最初からわかっていなかったのか。それすらも判断がつかない。どこで間違えたのか、そういった思考自体が間違いなのか。
ただ一つ理解できたのは、最初から、私の世界には私ひとりしか存在していないということだった。


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朝目が覚めて、自分が泣いていたことに気付く。覚くんと会わなくなってから、度々同じ夢を見るようになった。「会うのはやめよう」私がそう言った日のことを、夢に見る。
そのせいで、あの日言われた言葉が現実のことなのか、私の夢が造り上げた虚妄なのか。どこまでが記憶で、どこまでが夢なのか。最近判断がつかなくなってきている。

“おはよう”
“今日はクリスマスだね”

今日も返事のない、一方的な文字を送ることから私の一日が始まる。身支度をして、毎日同じ時間に同じ朝食を作って食べる。食器を片付けながらコーヒーを淹れて、洗濯物を干し終わったところで一息。その後は机に向かう。正午に昼食をとり、また机へ。けれど今日は食材と日用品を買いに行かなければならないので、区切りをつけてコートへと袖を通した。
なんら変わりない日常。時々、ひどく泣いてしまいたくなることがあっても、その心とは裏腹に、私は普段通りの生活を送っている。変化があったとするならば、コーヒーを好んで飲むようになったこと。部屋にコーヒーの香りが漂う、楽しかった過去の日を思い出したくて淹れたコーヒー。その苦味は私の味覚に、心地のよい刺激をくれた。それがとても好きになった。

覚くんと会わなくなってから約三ヶ月。連絡が途絶えてから一ヶ月半。当たり前に時間は経過している。どこかで耳にした、「時が解決してくれる」という言葉。私はまだそれを実感できない場所にいた。
そもそも覚くんの受験が終わるまでという期日があるため、今の現状が「時が解決する」という定義に当てはまらないのかもしれない。
ならば、会うことができれば解決するのか。覚くんの受験が終われば、進路が決まれば解決するのか。きっと違う。私が、私の世界を変えなければ、今後彼と向き合えないのではないか。そう思う。けれど、今の状況に適応し始めている自分がいる。
このまま、一生このままでもきっと、私は変わらずに日々を過ごしている。覚くんと会わなくても、声を聞けなくても、待つ理由がある限り、私は立ち止まっていられる気がする。


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今年のクリスマスはプレゼントをなしにして、いつものカフェでケーキを食べよう。そう話したのは、もうずいぶんと前のこと。今となってはもう、叶うことのない話。

日用品と、少しの野菜と卵、魚を購入してマンションへ戻る。そしていつも帰宅時にしている作業、メールボックスの確認をして、手が止まった。ラッピングが施されたとても小さな袋。その下にはカードが入っている。不審に思いながらもカードを確認すると、そこには見覚えのある文字で「覚」と書かれていた。
心臓が止まるかと思うような衝撃が走る。私は考えるより早く駆け出していた。道路へ飛び出し、彼の姿を探す。そして自分が行き来した道とは反対の道を迷わず走った。握ったカードがよれてしまうことだとか、卵を買ったことだとか。それらに気をかける余裕はない。ただ必死に走っていた。

心臓の音、乱れた呼吸。頬が、鼻先が熱くて痛い。そこに触れる髪の毛が、やけに冷たく感じられた。足がもつれ、買い物袋がぶつかり、きっと不格好な走り方。それでも私は止まらない。
見えない背中を追いかけて、走って、走って、走って。速度が落ちても進むことを止めなかった。けれど、どんなに進んでも探し求めた姿はない。その光景が、私の世界から覚くんがいなくなってしまったように思えて、苦しいくらいに胸が軋んだ。そして止まってしまった足。
どこまでも走れる、追い付くまで走る、そう思って駆けていたのに、不思議と一度止まった足は、もう前には進めなくなっていた。

鼓動も、視界もぐちゃぐちゃだ。震える指先でよれたカードを開く。そこには青藍色が広がり、小さな宝石のような粒が角度を変えるときらりと控えめに光る。そんな夜空を切り取ったような場所を、サンタとトナカイが駆けていた。

“ナマエちゃんへ”
“メリクリ! 一緒に過ごせなくてゴメンネ。”

四角い文字で、それだけが書かれていた。ラッピングされた小さな袋の中身は、コーヒー豆。いつかのメッセージに最近コーヒーを飲むようになったことを綴った。返事はなくても、メッセージはちゃんと読んでいてくれたのか。
ふと、涙が頬をつたう。なんだ、私、全然平気じゃない。

覚くん。以前覚くんを臆病だねと言ったけれど、今ならわかるよ。変化するって、怖いね。怖い。すごく怖いよ。もう明日が来ることすら、怖い。


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“拝啓、寒気のきびしい日が続いていますが、お変わりありませんか。”

部屋に戻ると、私もクリスマスカードを書こうと机へ向かった。けれど書きかけた手紙は、いつまでも続く言葉が見つからない。何を伝えるべきか、何を伝えたいのか。

何時間も身動ぎもできず机と向かい合っていると、背後でガサガサとモノがぶつかるような小さな音が耳を掠めた。振り返り、音のした方向を見据える。その視線の先にあるのはクロゼットだ。
ああ、胸が詰まる。息が、苦しい。身に覚えのある感覚に目眩がする。

私は机を離れ、静かにクロゼットへ手を伸ばす。開けたくない。でも開けなければ。閉じ込めた世界を開けなければ、いつまでも、私はひとりだ。
ゆっくりとクロゼットの戸へ触れる。それを静かに動かすと、中のモノがこちらへ出ようとする力を感じた。そして小さな隙間からそれらは這い出る。音を立てて、を足元へ雪崩れ込む。その音は、私の世界が崩壊した音だった。


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大きなクマのぬいぐるみが、暗闇から真っ直ぐに私を見据えている。その視線を、十年経った今でも忘れることができない。

幼いころ、勉強の障害になるモノ。または私の不出来の戒めとして、さまざまなモノを捨てられた。そうならないように努力をしたけれど、そうなってしまってた時に備えて、モノを隠すようにもなった。それと同時に、自分から進んでモノを捨てられなくなった。
なにが必要で、なにが不要なのか。大事なのか、そうではないのか。不必要な気がしても、捨てるという行為に酷く罪悪感を感じてしまう。

捨てられないから、愛着を持ちたくない。なるだけ、捨てなくていい環境に身をおきたい。捨てるのならば、明確なルールが欲しい。モノに縦列をつけたくない。
クロゼットは捨てられないモノで溢れている。その奥、私の胸の奥底にはいつまでも母に捨てられたクマのぬいぐるみがいる。そのぬいぐるみを隠すように、自分の根底を隠すように、捨てられないもので埋めた過去。今でも私はそうやって全てを押し込む。それが私の世界。

私から離れていった人たちに、手を伸ばすのは怖い。また拒絶されたらと思うと、私自身を捨てられるのかと思うと、耐えることができない。
よくよく思い返すと、私の世界は昔から怖いことで溢れていた。人と関わるのが怖い。自分が傷つくのが怖い。

覚くんと別れるくらいなら、このままでいい。会えなくても、連絡が取れなくても、待っているだけでいいなら、苦しくてもその痛みが繋がりを実感できる。だから平気、そう思っていた。でも覚くんはこの世界に存在している。存在しているのに、私の世界にはいない。それを実感した途端に、耐え難くなった。

本当は私も考えたことがある。私と覚くんとのことに、自分の両親がどう思うか。今後、起こり得る物事、可能性。それらは自分が自立することで解決するものだと思っていた。でも覚くんは、そうは思っていなかった。
私と覚くんは、世界に二人なんかじゃなかった。そもそも同じ世界なんて、みてなかった。

二十五日の夜。私は覚くんにメッセージを送ることをやめた。スマホと、机の上にあった白いクマ。覚くんを思い出すすべてのモノをクロゼットの中へ押し込んだ。
この行為を“隠す”と呼ぶのか、“捨てる”と呼ぶのか。私にはわからない。

奪われてしまう前に

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