「ここって本当にナマエちゃんの家?」
長い前髪から覗く瞳。見透かされる。見透かされている。跳ねあがったはずの心臓から巡回する、全身の血液が冷たくなった。
「私は空巣?」
「あんまりにも生活感がさぁ、無いよネ」
「お手伝いさんが掃除したばっかりだから」
「ヒェー! お金持ち!」
落ち着かないと言い出した覚くんを自分の部屋へ案内した。案内してから自分の部屋へ入れるべきではなかったかと後悔。
「物無さすぎじゃない?」
「綺麗でしょ?」
勉強机と本棚。ベッド。コレだけ? と指差した覚くんに頷いて見せる。
「まあ、生活感はあるよネ」
本棚の前にしゃがみこみ、本のタイトルを読み上げる。
「卒アル見ていい?」
「いいよ」
私やバレー部員を見付けて喜ぶ覚くん。床に座って卒アルをめくりながらポツポツと質問をしてきた。
「ナマエちゃんはさ、柄物が嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ」
見慣れた自分の部屋。確かに柄の付いた物は何一つ無い。
「私物もこの部屋のものも服も無地の物ばーかっり。それにどれも特徴が無いよね。普通ワンポイトとかあってもいいのにさ。逆にそれがないのが不自然なくらい」
「そうかな」
あまり気にしていなかった。気にしないようにしていたことをどんどん指摘される。四歳の子供が住んでる家に見えない。まるで一人暮らしみたい。不自然な場所をあげるときりがないとまで。
「ナマエちゃんはさ、昔から思ってたんだけど執着心があんまり無いよネ。他人に興味が無いよネ」
覚くんは卒アルを閉じて、隣においでと私に手招きをした。
「言いたくなかったら言わなくていいヨ」
自分のことを話したいか、話したくないか。不要であるなら、話したくはない、と思う。知られたくは、ない。自分の弱さを見せるのが、恥ずかしい。自分の弱さを認めるのが、難しい。そもそも、それを弱さだと認識していたことに、少なからず私は傷ついた。
聞いても面白くないよと言っても、それでもいいからといつもより低い声で言った。それは必要性のあること、ということなのだろうか。
「お母さんが教育熱心で」
こういう話を誰かにするのは、初めてだった。
「成績が落ちると、一個ずつ物を捨てられたの。お気に入りの物から」
「いつから?」
「最初からかな。最初は勉強しないで玩具で遊んでいたから、それを捨てられた。酷くなったのは中学受験を始めたあたりかな」
誕生日に買って貰ったのぬいぐるみ。可愛い服。お気に入りの絵本。好きなキャラクターが描かれた文房具。愛着があるものはどんなに些細な物でも捨てられた。
覚くんは「そっか」と納得したように、私の部屋を再度ぐるりと視線だけで見回した。
「お父さんの家系は代々医者で、結構大きい病院を経営しているから、そういう所に嫁いだお母さんは大変だったみたいだよ。お母さんは普通のサラリーマン家庭だったし、学歴があったわけじゃないし」
「だーから教育熱心になっちゃったんだ」
「お母さんも自分に学歴があればって思ってたんだろうね。私が良い学校に入れるようにって必死だったんだと思う」
遠慮がちに「離婚したの?」と言った覚くんの言葉に、首を横に振った。
「弟が産まれてから、というか妊娠してから? 別居中。理由は……。……多分、弟が将来の跡取りだっていろいろあったの、かな」
「そっか」
「気づいたらお母さんとの関係が上手くいかなくなっちゃって。勉強を言い訳にして逃げた。勉強を理由にしたら皆、大体のことは見逃してくれるし」
私のことを酷い人間だと思っただろうか。冷たい人間だと。私を好きだと言う覚くんは、私に幻滅しただろうか。
「好きな物を部屋に置いたってもう誰も捨てたりしないんでしょ?」
「そうだね」
「何で空っぽのままにしておくの?」
なんでだろう。もうぬいぐるみや絵本、可愛い服を欲しいと思わない。今の自分に疑問なんて無い。世の中様々な家族がいて当たり前だし、皆が皆親のことを好きってわけじゃない。
「怖いの?」
そう問われてもよくわからなかった。怖い。こわい。何が。誰が。誰に、何を。
「失うのが怖い?」
「そう、なのかな」
好きな物が減っていく恐怖。その焦りを誤魔化すように机にかじりついた。けれどそれが無くなったのはいつだっただろうか。
捨てられて泣き喚いていた私に、こっそりお父さんが買ってきてくれた、大きくて柔らかいクマのぬいぐるみ。内緒だよって言われて、クローゼットに隠した。それを手にしたときに感じたのは、可愛いぬいぐるみへの愛情。父の優しさに満たされる感覚。今度こそはぬいぐるみ守らなければという使命感。また失うかもしれないという恐怖。
捨てられたときに感じたのは、悲しみと怒りと安堵。これでもう捨てられる物はないと安心した。解放された。
それから成績が急に上がった。今思うと、そのおかけで白鳥沢に合格できたのだと思う。確かに怖いのかもしれないし、そうでないのかもしれない。慣れてしまった感覚に初めて疑問を持った。
失うものがなくなったから、私は強くなれた。けれど大切なものができたとき、その時はどうなるんだろう。
「私も覚くんに質問していい?」
「お、ナニナニ?」
「何で私が好きなの?」
大きな目を何度か瞬かせ、前髪を触りながらゆっくりと口を開いた覚くん。
「小学生の時、俺と席が隣になったでしょ? その時さ、今まで他の人は絶対にイヤダナーって顔するのに、ナマエちゃんは俺のこと見えてるのって思うくらい無反応。それが気になったんだよネ」
私の方を横目で見ながら、言葉を続ける。
「俺って周りから嫌われてたし、友達もいなかったし。そんな俺に優しくしてくれるカワイー女の子が現れたら好きになるに決まってるじゃーんネ」
冗談のような、ふざけているような。そんな口調なのに、覚くんが私の後頭部に手を添えて顔と顔との距離を詰めて来たため、何も言えなくなってしまった。
「他人に興味ない、執着がない。それを許されてこなかったんだネ。でもそのおかげで、俺と仲良くなってくれたのかな」
覚くんの手が、後頭部から肩に移動する。そして私の肩に覚くんの額が乗せられた。頬を掠めた覚くんの髪の毛がくすぐったい。
「自分の世界しか見えていない。今俺が別れようって言ったら、ウンって言うんでしょ。でも、それでもいいヨ。今はね」
それからはお互いに、いろいろな話をした。小学生の時のこと。中学生の時のこと。本当にいろいろなこと。
「雨止んだネ」と言って帰ろうとした覚くんに「遅いし泊まっていけば」と言うと、呆れたため息をつかれて、おでこにキスをされた。
「もっと凄いコトしちゃいたくなるから、今日は帰るよ」
私はおでこを押さえながら手を振ることしか出来なかった。もし、覚くんを失うのが怖いくらいに好きなったら、私はどうなってしまうのだろう。不安。いや、それより好奇心の方が勝る。
ああ、ドキドキする。