そして閉店時間になり、お店の閉め作業をして、お疲れ様です帰りましょうと他の従業員たちと事務室へ。するとそこには二時間前に退勤の挨拶をした花巻さんが、だらしなく椅子に座ってスマホをいじっていた。とりあえず「お疲れ様です」と挨拶をして、私は花巻さんの返事を待たずに立ち止まることなく更衣室へ直行。
「なんでいんのー? いたなら手伝えよ!」
「忘れ物取りに来ただけだから」
そんな会話が聞こえた。わざわざ取りに来る忘れ物。財布、スマホ、鍵。まあ、私には関係ないか。
着替え終えて事務室へ戻ると花巻さんの姿はなく、私は静かに安堵した。けれどお店を出て、夏のぬるい風に乗って香った、知った煙の香りに足が止まる。
「お疲れー」
小さなオレンジの点。煙草の火だけが浮かび上がっていて、花巻さんの表情は伺えない。
「お疲れ様、です」
「送るよ」
どうしてかと聞こうとすれば「今日はいろいろあったわけだし」と、先回りして答えられた。正直走って帰ろうと思っていたところだし、ありがたい気持ち半分、手を払ってしまったこともあり、二人で帰りたくない気持ち半分。
「あと、少し話もしたいし」
そう付け足した花巻さん。いつも原付で通勤している花巻さんのバイクがいないことから、最初から私を送るつもりで待っていたことが想像できて、そこまで気づいてしまったら断りの言葉が思い付かない。
しばらく私を見据えて返答を待っていてくれていたが、煙草を携帯灰皿に押し付けながら「帰り道どっち」と聞かれて、時間切れのブザー。
「こっちです」
並んで真っ暗な道を歩く。話がしたいと言ったのになかなか口を開かない花巻さん。普段の饒舌さはどこへ行ったと盗み見た横顔はいつになく真剣な表情。そんな横顔が頼りない街灯に照らされて、現れてはすぐに、暗闇に潜り込み消える。見え隠れする顔が、なぜだか怖いと思った。
「今日、ごめんな」
唐突に破られた静寂。そんな謝罪から始まった会話。
「謝るのは私の方、だと思います。助けてもらったのに、」
そこまで言うと「いーのいーの」と言葉をかぶせてきて謝ることができなくなった。でも、と続けようとすると真剣な視線がもう喋るなって言っているみたいで。それに制された。ぐっと言葉を飲み込んで、花巻さんから目を逸らす。やっぱり怖い。
「俺、気づいてたんだよね、絡まれてるの」
あのテーブルにつくたびになかなか帰ってこなければ、誰でも気づくだろう。でも今日は雑談するような暇がないほどに忙しかったから、気づいていない人がいてもおかしくはない。意図が分からず「はあ」と曖昧な返事をすれば、構わずに花巻さんは続けた。
「他の子はそういうのがあるとすぐにさ、俺に代わってーってヘルプするのに、なんにも言わないからさ。そんなに俺のこと嫌いなのかよって。根を上げるまで見てよって、意地悪しちゃったんだよね」
確かに誰かに話したりしなかったなと、自分の行動を思い返し反省する。花巻さんは努めて明るく話してくれいるようだけど、やっぱりいつもの陽気さは感じられない。
「本当にごめん」
そう言って立ち止まって、申し訳なそうな顔した花巻さんは体を90度に曲げた。急に頭を下げられて、私は軽くパニック状態。頭を上げてくださいって何度訴えても、花巻さんの姿勢は変わらなかった。
「連れ込まれそうになれば泣いたって普通なのに、平気な顔してるからさ。平気なんだって思った。だから手、払われたときにさ、怯えた顔したナマエちゃん見て、怖くないわけないよなって。初めて気付いたんだわ」
頭を下げたままそう続けて「今も怖いんだろ、本当は」と、震えた声。図星をつかれてドキッとした。
「俺が気づいたときに声かけてればって、後悔した。せめてちゃんと謝りたくて。……自己満足かもしんないけど」
ごめんと、更に頭を下げた花巻さんの肩に触れて顔を上げてくださいと伝えれば、ゆっくりと視線が交わった。
「花巻さんが嫌いだからではなくて、私が誰も頼らなかったのが悪いんです。助けてもらって、本当に感謝してます。ありがとうございました」
苦悩の表情を浮かべた花巻さんに、もう一度ありがとうございましたと、頭を下げればやめてやめてと一歩私に近づいた気配がして顔を上げると、不自然に両手を上げたまま固まっていた。
「もう払ったりしませんよ」
「いやーでも、怖いでしょまだ」
そういえば恐怖心はいつのまにかなくなっていた。花巻さんの誠実さを見たからか、優しさに触れたらか、花巻さんがどんな人なのか理解できたからか。
「もう大丈夫です。慣れました」
なんだそれ、そう呟いて頭をかきながら「てか、俺のこと嫌いってのは否定しないのな」とぽつり。そう言われてはっとすると、そんな私を見てけらけらと笑った花巻さん。
「嫌いとかではなくて……」
あのときの聞いてしまった客と付き合った話だとか、行為の話を聞いて嫌悪感を抱いてしまったことだとかを正直に話せば、花巻さんは両手で顔を覆った。
「あー、そっか。そりゃー嫌にもなるよなぁ」
ぶつぶつとそっかー、あー、と繰返し言って、おもむろに「大学デビューなんだよね、俺」と信じがたい台詞を吐き出した。
「……またまた」
「本当だって、高校の時はきらきら王子さまが横にいてさ」
見る? といってスマホ画面を私に向ける。そっと覗き込めば今よりも短髪の花巻さんと男子数名。誰か言われなくてもすぐにわかった。きらきら王子さま。
「な? きらきら王子さまっしょ。コイツいたから高校の時全然モテなくてさぁ。大学いったら急にみんなチヤホヤしてくれるからさぁ、うん。調子のりました。すんません」
しょげた顔して、足元に視線を落とした姿がなんでか可笑しくて私は笑ってしまった。
「お、笑った」
「え?」
「営業スマイルじゃないの、初めて見たわ」
「それは花巻さんが下ネタしか言わないから」
「いやいやいや、そんなことないでしょ。てか、聞かれた俺もある意味被害者」
あっけからんと開き直った。
「それに女の子もさ、やれ早漏だやれ大きさがやれ下手くそだって話してるじゃん。あれはセクハラを超えた暴力だからね? もう言葉のナイフよ。ざっくざっくやられてるから」
「花巻さんの彼女もそういう事言うんですね。ならお互い様でいいかもしれないですけど、私にはセクハラですから」
「客の話な! 彼女じゃなくて! てか、今彼女いねーし」
そこから花巻さんがフラれた話を聞いて、普通の友達みたいに話が弾んだ。そしてここでいいですと足を止めて、送ってもらったお礼を言えば「夢で会おうな」とふざけたことを言われたため、「セクハラです」と言って手を振ってみた。花巻さんは目を細めて手を挙げて、なんでかその顔が布団に入ってもなかなか忘れられなくて。本当に夢に出てくるつもりなのかと一人、布団の中で笑った。