「ナマエちゃんも休憩ー?」
外の喫煙スペースで夏の太陽から逃げるように日陰に縮こまり、ひとり煙草をふかしていると、火の付いていない煙草を咥えた花巻さんが現れて、緩やかに笑う。その笑顔に私の表情は固くなった。
「あー、はい」
「そろそろ禁煙したら?」
「気になるなら花巻さんがやめたらいいんじゃないですか」
「うわー、辛辣」
喫煙場所で会うたび、挨拶のようにして「煙草やめれば」と口にする花巻さん。ただの会話の取っ掛かりで、深い意味はないように思う。けれどやめればと言われるのが、私にはストレスだ。
花巻さんの第一印象はすごく良かった。一つ年上の花巻さんは初出勤の日、年下の私にも「よろしくお願いします」とハッキリとした声で挨拶をして、深々と頭を下げてくれたのが好印象だったから。それから印象が悪くなったのは花巻さんが入って、一ヶ月を過ぎた頃。
会社の方針だとかで休憩室で煙草を吸えなくて、休憩室のすぐ裏手にある喫煙スペースでの事。そろそろ夏だなと思いながら煙草に火を着けたとき。同じ休憩時間であろう数名が休憩室で会話していた。窓が開いていたせいでその会話は丸聞こえ。
「花巻この前の客と付き合ったの? あのボインちゃん」
「付き合ったよ」
「まじか! やっぱ乳!?」
下ネタかよ。しかもお客さんと付き合ったのかよ。
それから下ネタはヒートアップして、行為のことをあけっぴろげに話す花巻さんに心底幻滅した。この会話の中、休憩室に戻る気持ちにはならなくて、会話が終わるまで待つことに。そうなると必然的に会話を全て聞いてしまったわけで。
「あれ? ナマエちゃんも休憩? てか煙草吸うんだ、意外だわ。でも女の子はやめた方いいんじゃね?」
そろそろ休憩室へ戻ろうと火を消すと、不意に現れた花巻さん。その時嫌な顔をしてしまったのは、言うまでもない。
私は花巻さんが嫌いだ。大して仲良くないのに名前で呼んでくるし、ヘラヘラしてるし、よく飲みに来た女子大生と連絡先交換してるし。なんかチャライ。お客さんと付き合ったって公言するし。うん、チャライ。彼女との行為をべらべら話す。最低だ。
「ナマエちゃんって俺に冷たくない?」
まあ、苦手。てか嫌いだしね。
「そうですか?」
「そうそう」
「仮にそうだとして、何か問題ありますか」
バイトと言えど、先輩は私。それでも年上に失礼だったなと少しだけ後悔をして花巻さんに視線を向ければ、可笑しそうに笑いながら煙草の煙を細く吐き出していた。
「なんてーの? 明らかに俺にだけ態度違うじゃん? そういうのって、かえって気になるもんしょ?」
「気のせいじゃないですか」
煙草を消して「お先です」と逃げるように店内へ急いだ。そんなに態度に出しているつもりはなかったのに。それにやっぱり、あんなことを言いながら余裕そうに笑った花巻さんを本当に嫌いだと思った。
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スタイルが良くて、人当たりが良くて、顔もいい花巻さんはバイト仲間からもお客さんからも人気がある。私は調理場だからホールの花巻さんをよく知らないけれど、軽々とジョッキ数個をまとめて持つ姿にバイト仲間が黄色い声を出しているのを何度か見た。
金曜日の夜。華金ってやつだからなのか店はいつもより混んでいた。そして風邪を引いたと欠勤が急にでて、ホールが手薄。店長にホールに行ってくれと言われて、渋々頷くことしかできない私。
よりによって花巻さんがいるときに久々のホール。心底嫌だ。
「え? ナマエちゃんホールできんの?」
「最初一年くらいはホールだったんで」
久々に着るコックコートじゃない制服が、堅苦しい。ああ、嫌だなって思ったのは最初だけで、忙しくてそれどころじゃなくなった。
「オネーさん連絡先教えてよ」
「仕事中なんで」
スーツを着た若そうなサラリーマンのテーブル。その一人がしつこい。テーブルにつくたびに声をかけられる。それを笑顔で適当にかわして、仕事を続ける。酔っぱらいの戯れ言に付き合ってられるほど今日は暇じゃない。これがあるから接客は嫌だ。
何度もそのサラリーマンの卓番が呼ばれ、嫌な絡みま方をされて、本当にうんざりしていたとき。トイレットペーパーがないんですけどと他のお客さんに呼ばれて、その補充を終えてトイレを出るとあのサラリーマンに出くわしてしまった。
「オネーさん、まじでタイプなんだ!」
薄っぺらい言葉。所詮酔っぱらいの戯れ言。お決まりのごとく適当にかわしても、それは続いて終いには左腕を掴まれてちょっとやばい。
「本当に困りますからっ」
今までこんなにしつこく絡まれた経験がなくて、頭が働かなくなる。私の動きが止まったせいか、腕を強く引かれてトイレへ連れ込まれそうになった。大声を出さなきゃいけないのに、怖くて声が出ない。初めて知る男の人の力。びくともしない。
なんとかしなきゃ。そう思って息を一杯に吸い込んで声を上げようとしたとき、掴まれた腕より強い力で反対側の腕を引かれた。そして、サラリーマンの腕が無理矢理引き剥がされた。その証拠に左腕に痛みが走る。
「お客様困りますよー」
頭の上から聞こえた花巻さんの声。いつもより少し低い声に、口元は笑っているのに真剣な瞳。怒気を含んだ眼光に肩が震えた。
「ミョウジさん店長が呼んでたよ」
恐怖に混乱して、動けずただ固まる私に「早く行きな」と背中を押されて急いで店長を呼びに行った。
それからあの客は帰ったと言うか、帰されたようで、出禁を告げたと店長に言われた。安心したものの、まだ恐怖は残っている。帰ってもいいと言われたが、一人になるのも何だか不安でとりあえず休憩をもらって喫煙スペースへ向かった。
「大丈夫?」
休憩中らしい花巻さんが煙草を片手に、心配そうな顔をしていた。
「あ、はい。あの、さっきはありがとうございました」
頭を下げてお礼を言えば、いいのいいのといつもと同じ調子で花巻さんは続ける。
「ああいうときは早めに大声ださなきゃ」
そう言って伸びてきた花巻さんの手。あの客の顔、掴まれた腕。そして花巻さんのあの時の眼光を思い出して思わずその手を払ってしまった。
そんなことをしてしまった自分に驚いて、謝ろうと顔を上げると、たぶん私以上に驚いた顔をした花巻さんと目があった。その表情に、どうしていいか分からず「すみません」とひと言口にするが精一杯で、思わずそこから逃げ出した。