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- ナノ -



陶然の水曜日


 生暖かい風に乗って、香ばしいソースの匂いが漂ってくる。それから、肉の焼ける香り。素直なわたしの体は、ぐう、と呻き声をあげる。隣のレノを窺うと、宝石のような瞳をきらきらと輝かせながら、立ち並ぶ屋台を見つめていた。地元の夏祭りはそれほど大きくはないものの、道沿いにずらっと露店が並ぶ様子は圧巻の一言だ。頭上の提灯に照らされて、色とりどりのテントが風に揺れている。射的、金魚すくい、くじびき、宝石つかみ。子どもに人気のそれらはもちろん、たこ焼き、焼きそば、わたがし、牛串、イカ焼きなど、大人にとっても魅力的な食べ物屋も数多く並んでいる。お腹を空かせたレノが、クンクンと鼻をひくつかせてから、悪戯っぽい笑顔でわたしを見上げた。

「夕飯はお預けって言うから、てっきり餓死させるつもりかと思ってたぞ、と」
「いつもお腹いっぱい食べさせてあげてるでしょ。やっぱりお祭りなら出店のを食べなきゃ」

 先ほどまで腹が減ったとゴネていたとは思えないような表情に、わたしまでわくわくする。早く行こうぜ、と歩き出すレノを、笑いながら追いかけた。屋台をひとつひとつ覗きながら「なあ、これはなんだ?」を繰り返すレノは、心の底からこの夏祭りを楽しんでいるようだった。まずは、腹ごしらえ。焼きそばとたこ焼きと、大食いのレノのためにお好み焼きも購入する。それから、レノには瓶のラムネ。もちろんわたしはビールなので、レノにじろりと睨まれた。どうやらレノの世界では、レノくらいの歳になれば平然と酒を飲めるらしい。話を聞いている限り、文明にそれほど差はないみたいだけれど、結構なところで食い違いがあって面白い。当然、わたしは一口たりともレノにアルコールを飲ませるつもりはなかった。郷に入っては郷に従え。未成年は酒もタバコもNGだ。

「これは?」
「お好み焼きだよ。あー、箸使える? フォーク持ってくればよかったかな」
「舐めんな。…………うめェ」
「はんぶんこしよ。こっちは焼きそばで、これがたこ焼きね」
「丸いのか? 変な形してんな、と」
「あ、それ、気を付けないと、」
「っ?! あ、ちィ!」

 たこ焼きを口に放り込んだレノが、目を白黒させながら叫んだ。はふはふ、と口の中を冷ます様子に、思わずあははと笑ってしまう。ぱしりと肩を叩かれたけど、人の忠告を聞き入れる前に食べた君が悪いからね。たぶん、文句を言いたいのだろうけど、口の中がそれどころではないらしい。くるくる変わるレノの表情が面白くて、わたしはずっと笑いっぱなしだ。明日はきっと、顔中が筋肉痛に違いない。瓶ラムネでたこ焼きを流し込んだレノが、はあ、と息を吐いてからわたしを睨みつける。気づかないふりをして、手元の焼きそばを口に入れた。大通りから少し離れた駐車場。車止めの縁石に腰掛けて、年下の男の子とこんなことをしているなんて、本当、一週間前のわたしに言っても絶対信じないだろうな。ごくん、ビールの苦味が心地いい。たこ焼きが気に入ったのか、レノはふーふーと息を吹きかけたあと、ぱくりと口に入れた。お互いにお腹を満たしながら、取り留めのない話をする。

「そういえば、黒髪が多いな。流行ってんのか?」
「この島国の人は生まれた時から黒い髪の人が多いね。染めてる人も多いけど」
「ふーん。オレも染めてぇな」
「何色?」
「赤」
「へぇ、似合いそう」
「……あの服は?」
「あれは、浴衣って言って……まあ、民族衣装みたいなものかな」
「へー」

 ぱくり。最後のひとつも、レノが食べてしまった。あ、貰おうと思ってたのに。恨みがましくレノを見つめると、わたしを見つめ返したレノがにっこりと笑った。わざとらしい笑顔。さてはこいつ、確信犯だな? わたしが何か言う前に、レノの手がするりと指先に絡まって、そのまま焼きそばのパックを奪い去っていった。大口を開けて、ばく、ばく、と口の中に消えるわたしの焼きそば。おいおいおい、ずいぶん図々しい野良猫ですこと。あっという間に完食し、にやにやしながら唇を舐めたレノが、持っていたビニール袋にゴミを纏めて立ち上がった。

「うまかった。行こうぜ。オレ肉食いてぇ」
「返してよ、わたしの焼きそば」
「また買えばいいだろ。こっちも一口、」
「それはだめ!」

 奪われそうになった缶ビールを死守する。ちぇ、という不貞腐れた声。まったく、油断も隙もありゃしない。



***



 それは、突然のことだった。りんご飴の出店に並んでいたら、どん、という衝撃。誰かがぶつかって、離れていく気配。混雑していたから、仕方のないことだと思ったのだけれど。

「おい、テメェ、待てよ」

 それは、背筋がすっと冷えるような、低い低い声だった。――レノ、の、声、だ。今まで聞いたことのない、ドスの効いた声。おそるおそる、振り返る。わたしのすぐ後ろに立っていたレノは、一人の男の腕を掴んでいた。知らない男だ。歳はわたしより少し上くらいか。ひょろ長くて、おどおどしている。どうしたのかと声をかけようとして、ハッと気づく。男の手に握られた、見覚えのある財布。……わたしの、だ。そこでやっと、気がついた。スられた。その犯人を、レノが、捕まえてくれたのだった。

「あ、な、なんだよ、ガキが、」
「それ、返せよ」
「痛っ、離せよクソガキ!!」

 男が腕を振り払おうとしたけれど、レノはそれを許さなかった。男を睨みつけたまま、ギリギリと掴んだ腕を締め付ける様子は、どこにそんな力があるのかと思うほどで。逆上した男の顔が赤く染まる。それを冷静に見つめるレノの、開きかけた瞳孔が、なんだか怖くて。わたしの、知らない人のような気がして、咄嗟にレノの腕を掴んだ。視線だけをわたしに寄越して、レノは眉間に皺を寄せる。

「れ、レノ、もういいから、」
「は?」
「も、いいから、ね?」
「よくねーだろ、こいつ、おまえの財布を、」
「離せ、ガキ!!」

 どん、と男に押されたレノが、その場でたたらを踏む。レノはなんとか踏ん張ったれど、わたしは勢いよく尻餅をついてしまった。おしりが、じんと鈍く痛む。一瞬の隙をついて、男がレノの手を振り払い、持っていた財布をレノへと投げつける。顔に飛んできたそれを、レノが腕で弾いた。「い、たぁ、」「名前!」わたしの名前を叫んだレノが、目を見開いてわたしを見下ろす。心配そうな表情は、一瞬で鬼のような形相に変わった。それは、見たことのない、顔だった。だから、走り出した男を追いかけようと、前方を睨み付けるレノの、その細い腕をぐっと掴んだのだ。振り返ったレノが、反射的に口を開いたけれど。わたしの表情を見て、言葉を飲み込んだ。わたしは、いったい今、どんな顔をしているのだろうか。自分のことなのに、わからなかった。わかるのは、今、レノを行かせてはいけないということだけだ。レノと目を合わせたまま、ゆっくりと首を振る。

「レノ、だいじょうぶ、だから」

 逃げ出した男の背中は、すぐ人混みに紛れて見えなくなってしまった。わたしたちのことを遠巻きに見ていた人々も、向こうの方から歩いてきた人の流れに乗って散らばっていく。ちらり、逃げた男の方を見遣ったレノが、はあ、と重いため息をついた。腕に入っていた力が抜けるのがわかって、密かに胸を撫で下ろした。レノの腕をゆっくりと離すと、レノがその手をぐいと引いてわたしを立たせてくれる。ありがとう。小さな声でお礼を言うと、レノはむすりとしたまま、男が投げた財布を拾いあげた。あ、やっぱりわたしのだ。受け取ろうと手を差し出すと、口をへの字に曲げたレノは、それを自分のポケットにしまい込む。え、あの、それ、わたしのお財布……。

「れ、レノ? あの、」
「仕方ないから、オレが持っててやるぞ、と」
「あ、ありがとう……?」

 へらり、と笑うと、レノは呆れたような、驚いたような、変な顔をした。それから俯いて、はー、と身体中の息を吐き出してしまうのではないかというくらい、大きなため息を溢す。ガシガシと左手で頭を掻いてから、半眼でわたしを見つめた。な、なにその顔。なんだかわたしのことを、すごくすごく、馬鹿にしている、気がする。

「な、なによ」
「もう、おまえ、本当、隙ありすぎ」
「え、う、ぎゃあ、っ!」

 ぬっと伸びてきたレノの指先が、わたしのおでこをピン、と弾く。素早いそれはかなり痛くて、呻き声を上げながらおでこを手のひらで押さえた。う、痛い……! 一体どれだけ強力なデコピンを持っているのだ。一瞬目の前を星が飛んだんだけど。じくじくと痛むおでこに、反射的にレノを睨みつけたけれど。レノの顔を見た瞬間、湧き上がっていた反発心は夜空の彼方へと飛んでいってしまった。笑っている。レノが。いつもの人を食ったようなにやり笑いでも、仮面のように整った偽りの笑いでもなく、くしゃりと顔を歪ませて、はは、と息を吐き出すように、笑っていた。年相応のその飾らない笑顔に、思わず見入ってしまう。ぽかんとしているわたしに気づかずに、レノはくく、と笑いを噛み殺した。なににそんなに笑っているのだろうか。わたし? でも、そんなこと、どうでもいい気がした。財布を盗まれそうになったことも、尻餅をついた場所が痛むことも、もう、どうだっていい、気がした。

「ぎゃあって、なんだよ、おまえ」

 ひいひい言いながら、レノが涙を拭う。そうか、わたしの悲鳴でそんなに笑っていたのか。拍子抜けすると同時に、なんだかおかしくなってきて、わたしまで吹き出してしまった。わたし、そんなに変な声、出してた? ていうか、レノの笑い方、ちょっと変じゃない? わたしまで笑いが止まらなくなっちゃうんだけど。二人して、道の真ん中でくすくすと笑っている。往来の人々が、何事かとこちらをチラチラ見ては通り過ぎていく様子すらおかしくて、とうとうふたりでお腹を抱えてしまった。

「おまえ、ほんと、変なやつ」
「もう、うるさいな!」
「そんな隙だらけじゃ、オレの世界じゃ生きていけねえぞ、と」
「じゃあ、レノが護ってよ」

 わたしを。目を細めてそう言ったら、レノが息を飲んでわたしを見つめた。それから、すぐ、ふいと視線をそらしてしまったけれど。暗がりでもわかるくらい、その小さな耳が真っ赤に染まっていて。あまりにも意外な反応に、やっぱり笑いが込み上げて、必死で笑い声を押し殺した。肩が震えていたかもしれないけれど、それくらいは許してほしい。レノが左手の甲で口元を隠す。ごもごと呟かれた言葉は、喧騒に紛れて聞き逃してしまった。

「ごめん、聞こえなかった。なに?」
「なんでもねえ」
「いや、今何か言ったでしょ? なんて言ったの?」
「っ、だから! ……仕方ねえから、護ってやるよ」
「ふふ、ありがと」
「じゃ、行くぞ、と」
「え、あ、レノ?!」

 再度伸びてきたレノの指先は、今度はわたしの手首を掴んだ。わたしよりも温かくて、骨張ったそれが、するりと手のひらを握り込む。まるで子ども同士の触れ合いのような、ぎこちない握り方だった。そのまま、ぐいと手を引かれ、夜道を歩き出す。早足で歩くレノが、わざとらしい口調で「あー、腹へったぞ、と」なんて言うものだから。笑いを必死で噛み殺しながら、その隣に並んだ。



***



 人がまばらになった街道を、レノと並んで家まで歩く。レノの右手には唐揚げとじゃがバターにフランクフルト、それから本日二つ目のたこ焼きが袋に入ってぶら下がっていた。あれだけ食べたのに、お土産として持って帰って家でも食べるらしい。さすが育ち盛り。そんなわたしの左手にも、袋に入ったわたがし、りんご飴、イカ焼きがぶら下がっている。もちろん、帰宅してから一杯やるためのお供だった。そして、わたしとレノの利き手は、姉弟のようにしっかりと握られている。お互いの手首にぶら下げたピンクと青のヨーヨーが、歩くたびにぺちぺちとぶつかった。最後にしたヨーヨー釣りは引き分けだったので、戦績は1勝1敗1引き分けのドローだった。楽しかった。金魚すくいは開始早々にレノがポイを破いてしまったので笑ったし、射的では2発試し打ちをした後のレノの無双で完全勝利を奪われた。チョコバナナに目を輝かせたり、かき氷で染まった舌を見せ合って爆笑したり、とにかくたくさんたくさん笑った夏祭りだった。こんなに笑ったのは、子どもの時以来かもしれない。家に帰るのが惜しいくらいだ。

「それで、どうしたの?」
「あ? もちろん、こっちから乗り込んでボコボコにしてやったぞ、と」
「うわあ、レノ、ひっどい!」

 けらけらと笑うと、レノは満足そうに唇を釣り上げた。得意げなその様子がおかしくて、やっぱり笑いがこみ上げてしまう。ひいひい言っていると、鞄の中でスマホが着信を知らせる。短い音はメッセージだ。後で見てもよかったけれど、レノが顎で鞄を差したので確認することにした。道の端に寄って、繋いだ手を離す。さすがに職場からじゃないだろうけど、誰だろう。鞄から取り出したスマホの、画面に表示された名前に、ひゅう、と息を飲んだ。どうして、どうして、いまさら。

「なんで、」

 彼が。元彼の名前が、画面の中央に並んでいる。その下に、届いたメッセージも表示されていた。「いま時間ある?」「話がしたい」「電話できるか?」「名前」「ごめん」「俺たち、やり直せないかな」ぽん、ぽん、と表示されるメッセージが震えていた。ちがう、震えているのはわたしの指先だ。話? 話すことなんてもうない。電話? できないよ。ごめんってなに? やり直すって、やり直すって、どういう。

「名前?」

 レノがわたしを呼んだので、スマホから目を上げて彼を見つめる。不思議そうな表情は、画面を覗き込んだ瞬間にサッと変わった。「……元カレ?」すこし硬くなった言葉に、こくんと頷く。レノにはもう、話してあった。ベランダで花火を見たあの日、酔っ払ったわたしはつい、つい愚痴のようにこぼしてしまったのだ。彼氏に振られてしまったこと、彼はもうわたしよりも若くて可愛い女の子と付き合っているだろうこと。今頃きっと、その子と旅行に行っているだろうことまで。ただの笑い話のはずだった。だって、もう終わった関係だから。そのはずだったのに、どうしていまさら。

「……返事、しねえの」
「ど、う、しよう、」

 返事、と言われても、なんて返事をしたらいいのか、わたしにはわからなかった。話がしたいと言われても、わたしが話すことがまだあるだろうか。一週間前までならあった。もしかしたら、三日前も、あったのかもしれない。でも、今は? ぐちゃぐちゃになった脳味噌で考えても、すぐに答えは出なかった。「俺たち、やり直せないかな」その言葉だけが、温度を持ってわたしの脳内をぐるぐると回る。だって、振ったのはあなたで、あなたにはもう新しい子がいて、わたしは捨てられて、それで、

「名前、」
「あ、」

 優しくわたしの名前を呼んだレノが、するりとスマホを抜き去った。そのまま電源を落として、自分のポケットへと入れてしまう。流れるような動作に静止することすら出来なくて、ぽかんと一連のそれを眺めてしまった。わたしを見つめたレノがむすりと唇を尖らせる。ゆっくりと開かれる唇。街灯の下、歯並びがいいことに、いまさら気がついた。

「今日は忘れろよ、と。せっかくの飯が不味くなる」
「……まだ食べるつもりなの?」
「当たり前だろ。ほら、帰るぞ」

 差し出された手は、わたしの手とそれほど変わらない大きさだ。それでも、その手が骨張っていることを、わたしは知っている。その手が、わたしを守ってくれたことを、わたしは知っている。その手が、いろんなものを背負ってきた手だと、わたしは知ってしまった。ゆっくりとその手を取ると、すこし強引にぐい、と引っ張られた。その指先が、するりと絡まってきて、心臓がどくりと音を立てた。わたしの指の間に、レノの細い指が潜り込む。手の甲を撫でる爪先に、言葉を失ってしまった。だって、これは、違う、さっきまでの、それとは、全然違う、触れ方だった。

「れ、の、」

 返事はない。立ち止まったわたしたちの横を、大学生くらいのカップルが通り過ぎていく。それを目で追ったレノが、ぽつりと呟いた。

「あんたの浴衣も、見てみたかったな」

 それは、どういう。わたしの言葉を遮ったのは、指先に落ちてきた大粒の滴だった。ぽつ、ぽつ、と音を立てたそれは、街灯に照らされたアスファルトを少しずつ黒く染めていく。雨が、降り出した。


200901


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