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予兆の火曜日


「本日の最高気温は35度を超えるところも多いので、熱中症には十分に注意してください」

 ガラスのコップが汗をかいている。手にとって麦茶を口に含むと、ひんやりとして気持ちいい。ごくり、飲み込んで窓の外を見遣る。太陽がベランダをこれでもかというくらい照らしており、目を凝らせば陽炎まで見えてしまいそうだった。ニュースをBGMに、手にした麦茶を飲み干す。室内はクーラーが効いていて、十分快適ではあるけれども。いつも感じるそよ風が、今は何かに遮られている。何か、というか、誰か、だった。犯人は一人しかいない。半眼になって睨みつけたけれど、本人はどこ吹く風で扇風機を占領している。こら、首振りを停止するんじゃない。

「レノ、そこに居られると暑いんだけど」
「オレだって暑いぞ、と」

 こちらを見もせずにそう言ってのけたレノが、わたしの家に来て早三日。初日にかぶっていた可愛らしい猫ちゃんの面影は微塵もなく、今はふてぶてしい態度で人の家の扇風機を独り占めしている。おい、そこに鎮座されると冷たい空気が部屋中に行き渡らないでしょ。わたしの正論は、レノの「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」という声に上書きされた。宇宙人ごっことは、大人ぶっててもガキはガキ、なようだ。そうだ、相手はガキンチョだから、大人のわたしがぐっと飲み込むしかない。ぴくり、引き攣るこめかみを落ち着けるように息を吐き出す。仕方ない。冷え性のわたしにはちょっと寒いくらいだけど、エアコンの設定温度を一つ下げた。あとで靴下でも履こう。それから、扇風機の前に陣取っているレノの首根っこを引っ掴んでスペースを開ける。よし、これで空気が攪拌されて部屋中が涼しくなるはずだ。レノを見下ろしたのと、手がパシリと弾かれたのとは同時だった。不機嫌そうな顔。

「なにすんだよ」
「だから、扇風機で部屋の空気を循環させた方が、涼しくなるの。設定温度下げたからいいでしょ」
「へーへー」

 不満そうに返事をして、レノがソファへどかりと座る。腕を頭の後ろで組んだので、オーバーサイズの襟ぐりから頼りない鎖骨が見えた。服、やっぱりかわいそうだよなあ。大は小を兼ねる、とは言うけれど、ずるずると落ちるのを何度も見ているので流石に申し訳なくなる。レノ自身は気にしていないのか、遠慮しているのか、なにも言っては来ないけど。新しい服、買いに行く? という言葉を紡ごうとして開いた口から、「あ」という意味のない音が零れ落ちた。

「なんだよ」
「レノ、その、鎖骨の、刺青」
「ん? ああ」

 これな、とレノが襟ぐりを指で引っ掛けてぐいと下ろす。あらわになった白い肌、鎖骨にくっきりと刻まれているのは「VI」の文字。ローマ数字の、6だった。でも、ちょっと待って、昨日はそれ、「VII」じゃなかったっけ? あれ、わたしの見間違い?

「これ、こっちの世界に来てから現れたヤツ」
「え、自分で彫ったんじゃないの?」
「ちげーよ。昨日から、ひとつ減ってる」
「じゃあ、それ……」
「たぶん、カウントダウンだろ」

 元の世界へ戻るまでの。レノが淡々と述べる。では、昨日がVIIで、今日がVIということは。レノがこの世界に居られるのは、今日を含めてあと6日ということだ。レノ曰く「気づいたらこの世界に居た」ということなので、もしかしたら気づかないうちに元の世界に帰っている可能性はある。どうしてこの世界に来たのかも、どうやったら帰れるのかもわからないまま、よく平気で過ごしているなと思っていたけれど。どうやら帰るタイミングは把握していたらしい。というか、そういうことはお世話になっているわたしにも伝えるべきじゃないのかね。少なくとも衣食住全てを提供しているんですけれど。別に、見返りは求めてないけどさあ。考えが顔に出ていたのか、レノが気まずそうな顔をして唇を尖らせた。

「顔洗ってるときに気づいたんだけど……メシ食ったら忘れたぞ、と」
「あー、なるほどね」

 先ほど食べた遅い朝ごはんのことを思い出す。冷蔵庫に残っていた野菜と白米をフライパンに突っ込んで、ありあわせのケチャップチャーハンを作ったのだ。その上にとろとろの卵を乗せれば、オムライスのできあがり。どうやらレノはオムライスを食べたことがなく、そのお味を大変気に入ってくれたようだった。ちなみに、嫌がらせでハートマークを描いたのだけれど、それに突っ込まれないくらいにはお腹が減っていたらしい。なんか気にしてたわたしの方が恥ずかしかったな。

「オレがこの世界に居れるのもあと一週間もねえし、やってほしいことあったら言えよ」
「やってほしいこと、ねぇ」
「名前には世話になってるからな。オレにできることならなんでもするぞ、と」
「なんでも?」
「おう。エロいことでもオッケー」
「ばーか」
「いでっ!」

 にやにやしながらレノが自身のシャツを捲ったので、反射的に脳天チョップをお見舞いしてしまった。手加減を忘れていたので、レノが「いてえな!」と言いながら頭を押さえる。でも、わたしは悪くないぞ。おませな君が悪いんです。

「なんだよ、男いねえくせに。枯れてんのか?」
「男が居ようと居まいと、子どもとえっちなことはしません!」
「ガキ扱いすんなよ」
「ガキはガキでしょ」
「じゃ、試してみるか?」

 え。突然手首を掴まれて、ぐいと引かれるまま、ソファへと倒れるように座り込んだ。ぼふん、という衝撃に目を瞑った一瞬で、レノがわたしの太腿を跨いでのしかかる。レノの右手が、わたしを閉じ込めるようにソファの背もたれに乗せられて。驚いて目を見開くわたしを、レノは無言で見下ろした。沈黙。外で蝉が鳴いている。テレビから聞こえるキャスターの声に混じって、微かなバイブ音。テーブルの上のスマホがわたしを呼び出しているけれど、今はそれどころではなかった。冷房で冷えた脚、レノが触れている太腿の部分だけが、じんわりと温かい。掴まれている右手首なんて、熱いくらいなのに。レノの、湖のような瞳が、わたしを見下ろしている。冷たい色だと、思った。まただ。昨日見た色と、同じ瞳。試されて、いる。わたしの反応を冷静に観察するその瞳に、ぐらりと沸き起こったのは苛立ちだった。むかつく。その感情のまま、左手を伸ばし、レノの形の良い鼻を思い切り摘む。レノが、ふぎゃ、という踏まれた猫のような声を出したその隙に、ぐい、と身体を押し除けた。バランスを崩したレノは、そのままフローリングへと沈んでいく。ごちん、というまあまあ痛そうな音がしたけれど。天罰だ。ゆっくり身体を起こすと、後頭部を抱えたレノが悶絶しながら床を転がっていた。呻き声。息も絶え絶えに顔を上げて、わたしを睨んでくる。だから、天罰です、それ。

「名前、て、めぇ」
「自業自得。百年早いね。本気の恋をしてから出直してきな」
「はぁ?!」
「それか、わたしより背が高くなってからにして」
「な、」
「あと、いいかげん、わたしを試すの、やめて」

 むっとしたままそう告げると、レノは驚いたように目を見開いた。それから、罰が悪そうに視線を逸らす。やっぱり、確信犯か。しっかりと自覚を持って、わたしを値踏みしていたらしい。そりゃあ、今まで生きてきた世界では、必要なスキルだったのかもしれないけれど。そろそろ信用してくれても、いいんじゃないですかね。未だフローリングに寝転がったままのレノに、ゆっくりと手を伸ばす。指先が、薄茶色の髪に触れる。その瞬間に、レノがぴくりと動いたけれど、気づかなかったふりをして、ゆっくりと頭を撫でた。毛先がちくちくと手のひらに刺さって、くすぐったい。二回、三回と、その感触を楽しんでから、手を離す。相変わらずレノはそっぽを向いたままだが、髪の間から覗く耳がほんのりと赤く染まっていた。うわ、これはかわいい。言うならばあれだ、警戒して近づきもしなかった野良猫が、暴れることもなくわたしのナデナデを受け入れているような。……そのままか。本当はもっと撫でたかったけれど、諦めて立ち上がる。ポイントはしつこくしないことだ。決して「耳、赤いよ」などと指摘してはいけない。猫はいつ臍を曲げて、反撃してくるかわからないから。

「さて、レノ、買い物に行こう」
「……はあ? このクソ暑い中?」
「だって、冷蔵庫は空っぽだし、レノの服はぶかぶかだし」
「別にオレは、」
「なんでもしてくれるんでしょ? 荷物持ち、お願いね」

 言葉に詰まったレノに、にっこりと笑いかける。沈黙は肯定と受け取ることにした。「行くよ」と告げて差し出した左手を、レノが凝視する。ばちり、と合う視線。一瞬の沈黙のあと、諦めたようにため息を吐いたレノが、その手をぎゅっと握ったので。大変満足しながら、わたしは手を引いて彼を起こしたのだった。



***



「なあ、良かったのかよ」

 自動扉を抜けた先は地獄だった。蒸し蒸しとした熱気に、冷やされていた肌はすぐに汗をかき始める。それでも、夕方になって気温はだいぶ落ち着いてきた。少なくとも、家を出た直後のじりじりとした殺人的な日差しはなくなっている。大手衣料品店で購入した品を抱えたレノが、困ったように問うた。何度目かのそれに、唇を尖らせてしまう。

「だから、いいってば!」
「……金、もったいねえだろ、と」
「いいの、どうせ、使うつもりだったから」

 金ならあるのだ。使い道のなくなった金が、たんまりと。元彼と計画した旅行は3泊4日の予定だった。国内ではあるけれど、ちょっとリッチな宿を予約していたから。服も新調しようと、健気なわたしはちょっと前から節約して貯めていのだ。どうせなら、パーッと使ってしまった方がいい。できれば自分には使いたくなかった。特に、形に残るものは。使うたびにアイツのことを思い出しそうでぞっとする。

「あ、」
「ん? なに」
「ううん、なんでもない」

 そういえば、元彼から連絡が来ていたのだった。バタバタしていて忘れていた。バタバタと言うか、着信があったのは、レノに押し倒されていた時だった。タイミングがいいのか悪いのか。ちらりとレノを窺うと、「あぢー」と言いながら、服をぱたぱたしているところだった。おろしたてのシャツはなんだか眩しくて、わたしは目を細めてしまう。視線に気づいたレノが首を傾げたので、なんでもないと首を振った。ムッとした様子のレノが、口を開いたけれど、その視線はわたしの背後に縫い付けられた。なんだろう。振り返ると、掲示板に貼られた大きなポスターが2枚。1枚は、この街が力を入れているひまわり畑の写真だった。フォトスポットとして隠れた人気を誇っているらしく、毎年それなりの数の観光客が入るらしい。それから、夏祭りの告知ポスター。そういえば、毎年駅前から大通りまでの道に、屋台が出ていたような。大人になると、職場と自宅との往復ばかりで、こういった行事に疎くなってしまう。レノと一緒に立ち止まって、食い入るようにポスターを見つめた。ひまわり畑は8月いっぱいの開催、夏祭りは――明日だ。考えるよりも先に、言葉が飛び出していた。

「レノ、行こう」
「あ?」
「夏祭り、明日、行こう?」
「はあ? なにが、」
「ひまわり畑は明後日、ね?」
「ヒマワリ? この黄色い花? つか、急になんだよ、と」
「だって、レノ、一週間もこっちに居られないんでしょ?」

 一週間経ったら、レノは元の世界へ帰ってしまう。また、他人を試す日々に、逆戻りだ。それは、仕方のないことで、だからこそ、この世界にいるうちは、子どもらしくしていて欲しかった。素直に感情を出して欲しかった。もしかしたらそれは、ただのわたしのエゴなのかもしれないけれど。でも、もし、レノが元の世界に帰ったあと、こっちの世界を思い出すことがあるのなら、それは、きらきらと輝く夏の海のような、素敵な記憶であって欲しい。

「せっかく今、この世界にいるんだから、いろんなところに行って、いろんなことを見て欲しい」
「……オレが?」
「そう、レノが」
「あんたと?」

 レノの言葉に、目を見開く。横に立つレノを見つめたけれど、レノはポスターを見つめたまま、わたしを見ようとはしない。わたしと。わたしと、レノと。絶対にこっちを見ないレノに、なんだか笑いがこみ上げる。ふふ、堪えきれなくなったそれに気づいたレノが、やっとわたしの方を見た。見た、というか、睨み付けた。なんだかそれすらおかしくて、そして、愛おしかった。

「わたし、レノと行きたいよ。海も、川も、ひまわり畑も、夏祭りも」
「……仕方ねえな」

 付き合ってやるよ。ぶっきらぼうにそう言って、レノが早足で歩き出す。くすくすと笑いながら、慌ててそれを追いかけた。ふわり、どこかの夕飯だろうか、香ってくるカレーの匂いに鼻をひくつかせる。そうだ、夕飯はカレーにしよう。食べ盛りの少年にはきっとちょうどいいはずだ。おかわりもできるから、お腹いっぱいになるだろう。そのためにも、忘れずにスーパーに寄らないと。レノの隣に並んで、家までの道を歩く。「ねえ、レノ、カレー、食べたことある?」レノの返答に、また笑う。彼の隣は、確かに、心地よかった。


200829


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