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- ナノ -



雨音の木曜日


 ピピ、という電子音に、レノがもそもそと布団の中で動く。差し出された細長いそれを受け取って、小さな画面を確認した。38.6℃。掛け布団から目元だけ出したレノが、困ったようにわたしを見つめる。発熱のせいで目の縁は充血しているし、とろんとしたアクアマリンは焦点が合ってないみたいだった。なにか話そうと息を吸い込んだけれど、言葉の代わりに飛び出したのはゴホゴホという苦しそうな咳だった。額に当てた濡れタオルは、今はまだ冷たいけれど、すぐにぬるくなってしまうに違いない。一人暮らしの部屋には冷えピタも氷枕もない。やっぱり薬局まで買い物に行かなきゃだめだな。ふわり、とやさしく頭を撫でると、レノが気持ちよさそうに目を閉じた。

「なにか欲しいもの、ある?」
「ん……へーき」

 真っ赤な頬は触れると熱い。わたしの手が冷たくて気持ちいいのか、猫のように擦り寄る姿はすごくかわいいけれど。襲ってくるのは罪悪感だった。昨日のことを思い出して、自然と眉間に力が入る。帰り道、ぽつぽつ降り出した雨は一瞬で土砂降りになり、家に着く頃にはわたしもレノも濡れ鼠になっていた。どちらが先に風呂に入るかで揉めたのだが、レノが頑として譲らず、仕方なくわたしが先にシャワーを浴びたのだ。夏場とはいえ、長時間濡れていたのがよくなかったらしい。……いや、たぶん、それだけではない。今までの疲れがどっと出たのだろう。異世界に来て4日。今日まで体調を崩さなかったのは、気を張っていたからだ。もしかしたら、こちらの世界に来てから睡眠を十分に取れていなかったのかもしれない。やっぱりソファで寝かせていたのはよくなかったかな。ぐるぐると後悔が渦巻いたけれど、レノがゆっくりと瞼をあげたので無理やり思考を切り替えた。勘のいいレノのことだ、わたしがうだうだ考えていることにきっと気がついてしまうし、そうなったら余計に気を遣わせてしまう。

「食欲はある? おかゆなら食べられそうかな」
「おかゆ……?」
「とりあず、薬のむ前に、なにか食べられるなら食べた方がいいから。ちょっと待っててね」

 眠いなら寝てていいよ、の言葉に、レノは小さく頷いた。それから、また瞼を下ろしてしまう。気丈に振る舞ってはいるものの、弱り切っているのは確かだった。本当は、医療機関にかかったほうがいいのだけれど、保険証がないので、市販薬に頼るしかない。まあ、たぶん疲れからくる風邪だろうから、あたたかくして、水分をとって、よく寝ることが一番だろう。寝室の扉を静かに閉めて、キッチンへと移動する。おかゆの材料を取り出すために冷蔵庫を開けた。せっかくだからたまご粥にしようかな。それから、野菜スープも作っておこう。おかゆが食べられなくても、スープなら飲めるかもしれない。ご飯を食べさせて、薬を飲ませたら、薬局に買い物に行って、足りないものを買ってこなければ。冷蔵庫から必要なものを取り出して、ぱたりと扉を閉める。シンクで野菜を洗いながら、ふとした違和感に気づいて水を止めた。カウンターキッチンからは、リビングが一望できる。静かな部屋は薄暗く、耳をすませば雨の音が聞こえてくる。テレビはついていない。そして、ソファにレノはいない。そうか、レノがいないのだ。レノがこの世界にやってきて、わたしの家に住み着いてから、料理の準備をしているときは必ずレノが側にいた。初日は興味深そうに、次の日からは楽しそうに、カウンター越しにわたしの手元を眺めていたのだ。昨日なんか、つまみ食いをしようとしたので、伸びてきた手をぱしんと叩いてしまった。手。レノの手。わたしより少し温かくて、骨張っていて、優しい手。昨日の夜、その手が、わたしの指先に絡まってきたのを思い出す。土砂降りの中、わたしの手を引いて走るそれが、力強かったのを、覚えている。そう、距離は少しずつ、でも確実に、近づいていた。近づきすぎて、しまっていた。こんなつもりではなかった。だって、レノはまだ子どもで、わたしは大人で、そして、彼は4日後に元の世界へと帰ってしまう。大人としてわたしができることは、彼の健康を願いながら、送り出すことだけだ。彼が元の世界でどのように暮らしていたかを、わたしは知らない。昨日ちょっとだけ、レノが話してくれたこと以上は、なにも。そして、彼が元の世界でどのように暮らしていくのかを、わたしが知ることはないだろう。それでいい。ただ、健康に、幸せに、生きてくれさえすれば、それで。

「あ、」

 つるり、手から滑り落ちた卵が、シンクの中で割れてしまう。欠けた殻の隙間から、透明な白身がどろりと溢れ、そのまま排水溝に流れていった。なにを、しているんだろう。わたしらしくない。ふるりと頭を振って、残った黄身ごと殻を捨てた。手を拭いて、新しい卵を冷蔵庫から出そうとして、ふと疑問が頭をよぎる。では、レノが居なくなったこの世界で、わたしはどのように暮らしていくのだろうか。冷蔵庫を開けたまま一瞬考え込んでしまい、それからため息をつくように一人で笑った。なにも変わらない。レノが来る前と、帰った後とでは、わたしの生活はなにも変わらない。卵を手に取って、冷蔵庫の扉を閉めた。なにも変わらない。そうでなくてはいけないと、言い聞かせる自分がいることには、気づかないふりをした。



***



「た、だい、ま」

 囁くようにそう呟いてから、玄関の扉を音を立てないようにして閉めた。がちゃりと鍵を掛ける音が、思いの外大きく響いて驚く。それでも、誰も玄関に姿を現さなかったので、ひとり胸を撫で下ろし、忍び足で廊下を進んだ。どうやらレノは一度も起きてきていないらしく、買い物に出る前と今とでリビングに変化はないようだった。しっかりと眠れているのだろうか。寝室の扉を横目に、家を出る前のことを思い出す。食欲はあるようで、おかゆもスープもぺろりと平らげたレノだが、相変わらず熱は高かったので横になっているように言いつけたのだった。頷いてベッドに入る様子があまりに従順で、少し拍子抜けしてしまうくらいだった。風邪を引くと気が弱くなるのは、どこの世界の人間でも同じらしい。買い物袋から、ドラッグストアで購入したものをひとつひとつ取り出してローテーブルに並べた。解熱剤、冷えピタ、氷枕にエネルギーゼリー各種。スポーツ飲料と、それから、ヘアカラーリング剤。真っ赤なそれは、店内を物色していたらつい目に入ってしまったものだった。少し迷ってから、それも買い物かごに入れたのだ。そんなに高いものじゃないから、使わなければ使わないで構わない。パッケージをまじまじと見てから、テーブルへと戻す。とりあえず、ゼリー系は冷蔵庫に入れておこう。氷枕は……どうしようかな。レノが寝ているなら、起こしてまで使う必要はない気がするけれど、少しでも早く熱を下げるには使ったほうがいいしなあ。取り止めのないことを考えながら、何の気なしにスマホを開いて、――息が、止まった。不在着信、1件。マサルだ。どくり、と心臓が変な音を立てた。昨日のメッセージには、まだ返事をしていなかった。レノに電源を切られてしまったし、帰宅してからはバタバタしていて、今日は朝からレノの看病。……いや、全部、言い訳に過ぎなかった。連絡をしようと思えば、いつだってできたのだ。それを、しなかった。昨日見たときに既読マークはついてしまっただろうから、無視をしたわたしに彼が業を煮やして電話を掛けてきたに違いない。掛け直すべきか、いや、メッセージを送るべきか。でも、なんて? なんて送ればいいのだろうか。アプリを起動すると飛び込んできた「俺たち、やり直せないかな」が脳内をぐるぐると回る。画面の下、メッセージ欄を、震える指先でタップした瞬間だった。

「……名前、?」
「っ、レノ!」

 咄嗟に、そう、反射的に、スマホをローテーブルの下に伏せて置いた。なんだか隠したみたいになってしまったが、寝起きだろうレノは全く気がついていないようだった。目を擦りながら「どっか出かけてたのか?」と言う様子は子どものそれで。無防備なその姿に、なぜかほっと胸を撫で下ろしてしまう。まだ熱っぽい顔をしているが、その表情は朝よりもだいぶ明るかった。ただ、全身汗だくの身体はひどく不快そうだ。レノの視線がローテーブルの上へと向けられる。

「買い物に行ってきたの。冷えピタと氷枕、買ってきたよ。あと薬も」
「うげ……もう熱は下がっただろ」
「朝よりはね。夜になると上がってくるかもしれないから、ちゃんと休んでなきゃだめだよ」

 へーへー、という生意気な返事とともに、ごほ、という辛そうな咳。本調子じゃないくせに、ソファに座ってテレビを見ようとするものだから、すぐさまリモコンを取り上げた。少し赤くなった眼が、恨みがましくわたしを見上げたけれど、そんな視線には屈しません。寝室を顎でしゃくれば、仕方ない、とため息を吐いたレノが立ち上がった。そうです。居候は家主の言うことに従わなければなりません。机の上のゼリー飲料をひとつ、レノへと手渡す。

「それ飲んでベッドで待ってて。着替えと氷枕持ってくから」
「かーちゃんかよ」
「文句言わないの」

 不満そうに揺れる茶髪が寝室へと消える。それを見届けてから、氷枕に冷凍庫の氷をぶち込んだ。それから、濡れタオルをラップに包んでレンジでチン。汗を拭くなら蒸しタオルの方が気持ちいいだろう。そうして、着替えと冷えピタも持って、寝室の扉をノックした。僅かに掠れた、おう、という声。扉を開けると、少しだけ篭った匂いにどきりとする。おとこのひと、の、匂いだ。締め切った部屋、ベッド横の窓はカーテンが閉められ、クーラーの音に混じって雨音が微かに聞こえてくる。さっき買い物に行った時は少し小降りだったが、今はまた大粒の雨が降り出しているらしい。ベッドに腰掛けたレノが、口に咥えたゼリーをじゅう、と吸った。

「着替え持ってきたよ。タオルもあるから、汗しっかり拭きなね」
「ん、サンキュ」

 電気がついていないとはいえ、レノが戸惑いなくTシャツを脱いだので、慌てて視線を逸らした。なんだっけ、ああそうだ、氷枕も持ってきたんだった。床に膝をついて、ベッドの枕と氷枕を取り替えて、ついでに汗を吸った枕カバーも外す。この様子じゃシーツもびっしょりだろうけど、今変えたところでまた汗かくだろうしなあ。バスタオルでも敷いておこうかな。どっちの方がいいだろう。レノに訊こうと思って顔を上げると、暗がりの中、綺麗なアクアマリンがわたしを見下ろしていたので、ひゅう、と喉の奥から変な音がした。

「え、な、なに……?」
「……いや、なんでも」

 ふっとレノは視線を外して、これ、ありがとな。と蒸しタオルを手に取った。むわりと篭った熱気を冷まして、レノがそれで顔を拭く。それから、ぐるりと首を拭いて、右腕、左腕、鎖骨、胸、腹と順繰りに上半身を拭いていく。タオルを握った左手が、ぴたりと止まって、どうしたのかと視線を上げたら、困ったようなレノと目があった。

「そんな見つめられると、やりづれぇんだけど」
「え? あ、ごめ、」
「背中、拭いてくれよ、と」

 無意識のうちに、レノの手元を観察するように凝視していたことに気づいて、顔がかあっと熱くなる。そんなわたしに気付いていないのか、レノは左手に持った蒸しタオルをわたしに手渡した。突き返す間もなく、くるりと後ろを向かれては仕方ない。もう冷めてしまったタオルで、レノの背中をゆっくりと拭いた。思ったよりも大きな背中は、やっぱり骨っぽくて、そして、傷だらけだ。ごつごつと浮き出た背骨をなぞるように、上から丁寧に拭いていく。脇腹のあたり、一際大きな傷痕を見つけて、思わず手が止まってしまった。気付いたのだろうレノが、小さな声で呟く。

「それ、初めてスリで捕まった時のやつ」
「え……?」
「財布盗もうとしたけど、捕まって、抵抗したけど、ナイフで脅されて、そん時の」

 言葉が、出なかった。なんとなく、想像はしていたことだったけれど。レノの口から、彼の言葉で、飛び出しただけで、それは考えられないくらいの重さと鋭さを持って、わたしを貫いていった。レノはスラム出身だと言った。わたしは、生まれたときから今まで、スラムという場所に行ったことがない。日本に生まれて、両親の元、安全に、健康に、今まで生きてきた。飢えに苦しんだことも、命の危険を感じたことも、一度だってない。それを、この少年は、日常的に感じているというのか。そんな中で、生きてきたというのか。そんな彼に、なんの苦労もしてないわたしが、施しを与えているだなんて、住む場所を提供して、服を着させて、食事を与えて満足しているだなんて、そんなの、とんだ偽善だ。

「んなこと、ねぇよ」

 声に出していなかった、はずなのに。冷たくなったわたしの指先を包む、あたたかい手のひら。振り向いたレノが、わたしの手からタオルをとりあげて、そうして、ぎゅうと包み込むように握ってくれる。その指先が、あまりにも、優しくて。どうしてか、目頭が熱くなった。

「オレはあんたに助けられてる。あんたがいなきゃ、確実に飢え死にだ」
「でも、」
「それに、名前といると……楽しい」

 わたしを包んだ手のひらは、なんの未練もなくするりと去っていく。ごほ、とひとつ咳をして、レノは新しいシャツを手に取った。肌が隠される直前、見えた数字は「IV」。わたしがなにか言う前に、レノは自分から布団へと潜り込む。おー、つめてぇ、と言いながら氷枕を堪能する様子に、ああ、とポケットに入れていたものを取り出した。

「冷えピタもあるよ。前髪上げて」
「ん? う、お、つめてー」

 ぎゅ、と目を瞑る様子が可愛くて、唇が綻んだ。ぱちりと上がる瞼、きらきらとしたアクアマリンがわたしを見つめたと思ったら、眉が悲しそうに下げられたので変にどきりとしてしまった。ごほ、とまた咳をしてから、レノが残念そうに呟く。

「ひまわり祭り、行けなかったな、と」

 ああ、そうだ、今日はそれに行こうと約束をしていたのだったな。朝からバタバタしていたせいで、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。でも、レノがそんなに楽しみにしていてくれたとは、思ってもみなかった。そういえば、レノの住むミッドガルにはほとんど花は咲かないんだっけ。一面の花畑は、さぞ見応えがあるだろう。連れて行ってあげたかったな。きっと驚くに違いなかった。レノと行くと、どんな場所でも輝いて見えるようだった。きっと、山も、川も、――ああ、そうだ。

「レノ、元気になったら、海に行こうか」
「海? 海ってあの、大きな水溜まりか? しょっぱいやつ?」
「うん、ちょっと遠いけど、電車に乗れば行けるから」
「行く!」

 興奮したレノが身体を起こそうとしたので、肩を押してベッドに戻す。本当か? 絶対だからな、約束しろよ。矢継ぎ早にそう言ったレノが、また咳をする。病み上がりだから海に入ることはできないけれど、波打ち際を散歩くらいはできるだろう。遊泳禁止の場所ならば、観光客もそれほど多くないはずだ。わたしも数回訪れている、お気に入りの場所。きっと、レノも、気にいるはずだ。

「熱があったら行けないからね。ちゃんと寝て早く治さないと」
「ん、わかった」

 ブランケットを口元まで上げたレノが可愛くて、思わず頭を撫でてしまう。それから、冷えピタ越しに額に手を当てて、しっかりと貼れていることを確認する。早く熱が下がればいいんだけど。熱がないだけでも、少しは楽にはなるはずだ。手を退けると、じっとこちらを見るレノと目があった。その透き通るような瞳がぐらりと揺れたので、心臓がどくんと勝手に脈打った。レノが、乾燥した唇をゆっくりと開く。掠れ切った、小さな声だった。

「なあ……手、握っててくれないか、と」

 するり、と伸びてきた手に、一瞬固まってしまう。わたしを窺うようなレノの視線。ずるい、そんな顔をして、また、わたしを試すようなことを。強引に、握ってくれたら、そうしてくれたらよかったのにと考えて、気付く。そうか、ずるいのはわたしだな。手を繋ぐ理由を、全部レノのせいにしたがっている。ずるい大人だ。それでも、差し出されたそれを無視することなんてできるわけがなかった。レノは風邪をひいてるから、きっと心細いから、子どもだから、元の世界に、帰ってしまうから。たくさんの言い訳を並べて、そうして、その骨張った手をゆっくりと握った。レノの目が一瞬見開かれて、それから、幸せそうに細められる。ああ、その視線を、わたしは知っている。それは、わたしが向けられてはいけないものだ。わかっていながら、この手を拒絶することができないわたしは、弱くて、ずるい。

「あ、」

 リビングの方から微かに聞こえた電子音に、ドアへと視線を向ける。着信音は鳴り止まない。誰か、なんて、画面を見なくてもわかってしまった。彼だ。反射的に、立ち上がろうとしたわたしの手を、レノがぎゅっと握ったので、思わずそのかんばせを見つめてしまった。透き通るようなアクアマリンの瞳。一瞬の静寂、レノが口を開いた。

「行くなよ。……ここに、いてくれ。オレが、眠るまでで、いいから」

 そうして、レノは瞼を閉じる。手に力は入っていない。きっと、少しでも手を引けば、それはするりと解けてしまうだろう。でも、わたしは、それをしなかった。レノの呼吸は、すぐに深くなる。鳴り続けていた電子音は、そのうち、ふつりと切れてしまった。聞こえるのはレノの寝息と、雨の音。レノ。小さい声で名前を呼んだけれど、返事はない。

「レノ、わたしも、レノといると、楽しいよ」

 さっきは言えなかった言葉を、静かに零した。ぴくり、震える指先を、ぎゅっと握る。この手を離したくないと思っているわたしが、ここには確かに存在した。


200903


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