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異色の月曜日


 目の前の少年は、ガツガツとものすごい勢いでテーブル上の料理を平らげていく。あまりの食いっぷりに、「行儀悪いよ」の言葉すら呑み込んでしまった。冷蔵庫にあった余り物を電子レンジでチンしただけだというのに、少年は目を輝かせて溢れ出る唾液を拭った。人様に出すにはお粗末すぎるそれらを、まるで掃除機のように吸い込む唇が、昨夜わたしのそれと重なったなんて、本当に夢みたいだ。ひたすら目の前の食べ物を掻き込む少年の顔を眺めながら、昨晩のことを思い出す。衝撃的な一言が、今もわたしの耳にこびりついていた。

「オレ、この世界の人間じゃねえし」

 魔晄都市ミッドガル。そこが、少年――レノの故郷なのだという。魔法やモンスターが存在する、ファンタジーな世界。神羅カンパニーという電力会社がその都市を支配しているらしく、大地から吸い上げた魔晄エネルギーというものを使って人々は暮らしているそうだ。しかし、豊かな暮らしができるのは都市の“上”に住む人たちだけ。立場の弱い人々は、プレートの上から追い遣られ、地上へと降りてくることになる。ミッドガルの陰、スラム街。陽光の恵みすら届かないそこが、レノの暮らしている場所なのだそうだ。無法地帯にも等しいその場所で、レノは“オシゴト”をして食い繋いでいるらしい。家族は、いない。――だから、オレが居なくなって、心配する人間も、いない――ミッドガルについてはぺらぺらと喋っていたレノの口は、彼自身についてのことになると途端に重くなった。それまでなんとか相槌は打っていたけれど、彼の話があまりにも突拍子がなくて、なんて返事をしたらいいのか、分からない。魔法に、モンスター。嘘をついているようには見えないけれど、どうだろうか。昨日のあの、媚びるような笑みを思い出す。どうやらあれが、レノの“オシゴト”の表情のようだった。依頼されればなんでもする、というその“オシゴト”の内容を、詳しく聞くことは憚られた。たぶん、あのとろけるようなキスも、身体に残された無数の傷跡も、生きるために仕事を続けてきた結果、なのだろう。わたしより10歳以上も若いこの少年が、両親を失い、頼れる人も居ない中、たった一人で日々を生きている。想像すら、できない。同情するのはきっと間違っているけれど。彼の生い立ちを考えると、どうしても、胸が苦しくなってしまうのだった。甘ったるい世界に浸かりきったわたしに、できることはあるだろうか。

「……もっと食べる?」
「…………でも、オレ金ねえよ」

 昨日の残りのハンバーグにフォークを突き刺したまま、レノは上目遣いでわたしを見た。値踏みするようなその視線に、思わず眉間に力が入る。反射的に開いた口を、なんとか閉じた。生きている世界が違うのだ。彼にとって大人とは、保護してくれる対象ではない。対価を払えば物をくれる、ただの交渉相手。もっと酷く言えば、彼に危害を加えるもの。だから、彼が大人を試すのは仕方のないことだった。そう、試されている。金のない自分に対して、わたしがどのような対応をするのか、レノはその澄んだ瞳で冷静に観察しているのだった。はあ、と息を吐き出して、テーブルに頬杖をついた。じっとこちらの様子を窺う少年の頭を撫でようと、手を伸ばしたけれど。レノの肩がぴくりと震えたから、ハッとして手を下ろした。そうか、こういったスキンシップも、彼にとっては警戒の対象になるわけか。

「……いいよ」
「は?」
「お金なんて、いらないから」

 わたしを見つめるレノの瞳が、まんまるに見開かれる。その無防備な表情に、苦笑が漏れた。まるで、野良猫みたいだ。人に慣れてない、プライドの高いにゃんこ。警戒心が高くて、するりと寄ってきたかと思えば、手を伸ばす前に去ってしまう。気儘で気高い野良猫。だからこそ、ふと見せる気の抜けた顔が、可愛らしいのだ。

「子どもは、そんなこと、気にしなくていいの」
「…………餓鬼じゃねえし」
「はいはい」
「……昨日の続き、してやろうか?」

 ニヤリと笑ったレノが、べぇ、と舌を出した。昨日の続き? 首を傾げたわたしに、レノは見せつけるように自身の唇を舐める。蘇る記憶、柔らかい唇と、とろけるような舌遣い。カッと顔が熱くなって、反射的に立ち上がった。にやにやとわたしを見上げるレノの頭を、叩きたくなる衝動を必死で抑える。こんの、マセガキめ!!

「そんなこという人にあげるご飯はありません!」
「あ、おいっ!」

 冗談だぞ、と! お皿を下げようとしたわたしの手を、レノが慌てて掴む。じろりと睨みつけると、ぐ、と言葉に詰まった様子で、骨張った手を離した。「……おかわり、いるの」むすりとしたまま訊ねると、レノがバツの悪そうな顔をして頷く。うん、子どもは素直がよろしい。レノに待っているように伝え、冷蔵庫を覗き込む。一人暮らしにしてはそれなりにあった作り置きが、綺麗さっぱりなくなってしまった。仕方ない、冷凍パスタでも出そうかな。ついでに、コーヒーでも淹れよう。レノにはまだ早いだろうか。牛乳たっぷりなら飲めるのかな。わくわくしている自分に気がついて、ふふ、と笑いが溢れる。そういえば、家に人を呼んだのは久しぶりだった。

「ねえ、レノ」
「……なに」

 まだ臍を曲げているその顔に、堪えきれずにあははと笑う。なんだよ、という噛み付くような声。それがまたおかしくて、笑いすぎて、涙が出そうだった。わたしの言葉に、応えてくれる人が居るということが、こんなにも幸せなことだとは。冷凍パスタを電子レンジに入れて、戸棚から客用のカップを取り出す。その奥には、もう使う予定のないマグカップ。チクリと痛む胸には、気づかないふりをした。



***



 ほう、とため息をついて、手にしていた文庫本を閉じる。読み終えた満足感に、思わず瞼を下ろした。久々に面白い小説にあたってしまい、ついついのめり込んでしまった。和菓子屋で働く女の子の奮闘記。和菓子にまつわるストーリーが秀逸で、なにより作中に出てくる和菓子が美味しそうで、お腹がぐう、と鳴った。そうだ、夕飯作らなきゃ。ソファから立ち上がり、カーテンを開けてぎょっとする。もうとっぷりと日は暮れて、向かいのマンションの明かりがチカチカと輝いていた。嘘でしょ。どうりで、身体がカチコチに固まっているはずだ。肩を回すと、バキバキという音と少しの爽快感。さて、夕飯はなににしようかな。あんまり材料は残っていなかった気がするけれど。冷蔵庫に向かう途中で、ふと、寝室の扉が目に入る。閉ざされたその向こうにレノが消えたのは、もう何時間も前のことだった。食後、テーブルについたままうとうとし始めたレノを、寝かしつけるのには少々骨が折れた。昨日の夜はソファを貸したけれど、どうやら一睡もしなかったらしい。興奮か、不安か、……両方か。未だ警戒心剥き出しのレノを、「鍵がかかるから」「内側から扉を塞いでもいいから」となんとか説き伏せて、ベッドのある寝室に押し込んだのだ。せっかく寝ているのだから、声を掛けて起こす気はない。でも。ちらり、と時計を見上げる。もしかしたらもう、居なくなっているかもしれないな。元の世界に、戻っているかもしれない。それを少し寂しいと感じている自分に気がついて、ふふ、と笑いが漏れる。異世界から来た少年、なんて、そんな小説みたいなことを信じている自分が信じられなかった。確かに、「まてりあ」というものをつかった「魔法」を見せてもらったけど。小さくパチパチと爆ぜた火花は、魔法というよりは手品みたいだった。少し得意げな顔をしたレノを思い出して、胸のあたりがほんわりとあたたかくなる。レノが起きてきたら、レノの世界のことを聞いてみよう。どんな人が、どんな暮らしをしているのだろうか。レノのことも、少しずつ聞けたらいいと思う。なにもできないけれども、受け止めることくらいは、わたしにもできるはずだ。突然、部屋に響いたドォン、という音に、思考は遮られた。続いて聞こえた、ばちばちと弾ける音に、そういえば今日は花火大会だったな、なんてどうでもいいことを思い出す。開けっぱなしだったカーテンに近寄り、外を見るために窓ガラスも開ける。むわり、熱帯夜特有の湿った空気が頬を撫でた。ベランダには出ないで、真っ黒になった空を見遣る。向かいのマンションのその先、川のあるあたりから、ぴゅう、という音とともに火花が空へと昇っていく。煌々とした花が咲いて、少ししてから、どぉん、とお腹に響く音。ほう、と思わずため息をついたのと、寝室の扉が音を立てて開いたのは同時だった。

「名前ッ!?」

 目を見開いて、焦ったようにわたしの名前を呼ぶレノが寝室から飛び出してきたので、何事かと凝視してしまった。レノがわたしを見つめて、それからさっと周囲を確認するように見渡す。わたしの背後で、またひとつ花火が上がったのか、どぉん、という音が部屋にこだました。レノの肩がびくんと跳ねて、やっと気づく。

「レノ、えっとね、今日、花火大会なの」
「……ハナビ?」
「うん、ほら」

 レノに見えるように、窓ガラスの前から退くと、レノがおそるおそるこちらに近づいてくる。窓の外を一緒に覗き込むと、タイミングよくまた花火が上がった。今度はふたつ。どん、どぉん。

「……すっげ」
「ね、綺麗だね。……レノの世界には、花火、なかったの?」
「さあ……オレは、初めて見た」

 花火の光がレノの瞳に反射して、アクアマリンがきらきらと光っている。真っ直ぐに夜空を見つめる純粋なその目が、大人のわたしには少し眩しかった。柔らかく揺れる茶色の髪、左耳のピアス、浮き出た喉仏。元彼のシャツは少し大きかったのか、鎖骨から肩にかけての大部分が丸見えになっていた。鎖骨に掘られた「VII」の刺青と、うっすら残る無数の傷跡。袖から伸びる腕は、筋肉こそついているものの、やはり従兄弟に比べて細すぎた。ああ、そうだ、夕飯を作らなきゃ。育ち盛りだから、食べれるときにお腹いっぱい食べて欲しい。リクエストはあるだろうか。箸は上手に使えないようだったから、スプーンかフォークで食べられるものがいいかな。お肉も野菜もたっぷりで、お腹も満たされるもの。ああ、でも、今日は買い物に行ってないから、あまり選択肢はないかもしれない。とりあえず、冷蔵庫の中身を確認しなきゃ。ベランダの窓から、ぶわりと熱風が室内に入り込んでくる。そろそろ、窓、閉めたいな。ちらりとレノを見ると、やはりその視線は花火に釘付けだった。まあ、夕飯を作る間は暇なわけだし、ゆっくり一人で見ててもらおう。

「レノ、ベランダ出ていいよ」
「おう」

 ぺたり、レノが素足のまま、躊躇なくベランダに足を踏み出したのでちょっと驚いた。そのままぺたぺたと手すりまで歩いて行ってしまったので、サンダルを勧める暇がなかった。こういうとき、レノは本当にスラムで暮らしていたのではないか、と思ってしまう。夜風に髪を靡かせるその後ろ姿が、なんだかひどく小さく見えて。ぴゅるるる、どぉん、ばらららら。打ち上げられた花火が、とても綺麗だったから。ぎゅう、と胸が締め付けられた。ああ、違う、ご飯作らなきゃ。がらり、とガラス戸に手をかけると、レノがくるりと振り向いた。

「なあ、あんたは見ねえの?」
「え?」
「花火」

 わたしをまっすぐ見つめるその瞳から、目が離せない。何かを紡ごうとしたのか、レノの唇がふるりと震えた。なんだろう。答えはわからないまま、それはすっと閉じられる。なんだろう。この胸のざわめきは。わからない。わからないけれど、たぶん、きっと。

「……レノが誘ってくれるなら、見ようかな」
「は? 別に、誘ってねえぞ、と」
「あ、待って、ビール持ってくる」
「オレも飲む」
「子どもに飲ませるお酒はありません」
「チッ」

 一度ガラス戸を閉めて、キッチンへと向かう。冷蔵庫を開けたところで、自分の唇が笑みをかたどっていることに気がついた。なんだか、今日、笑ってばっかりだ。そう思ったら、さらに笑えてきて、ひとりでふふふと声をあげてしまう。わたし、怪しい人だな。それでも、わくわくしているのは確かだった。そういえば、こんなに笑うの、久々かもしれない。ここ最近は、全然笑ってなかった、気がする。冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールと、炭酸水を取り出して。そうだ、せっかくだから、レノの「魔法」とやらを、もう一度見せてもらおう。それから、わたしの世界の話をしよう。花火以外にも、もっとたくさん、きれいで、楽しいものが、この世界にはあふれているのだから。聞いただけで、笑ってしまうようなくらい、素敵なことを、一緒に分かち合いたい。そうして、未だ笑顔を見せたことのない少年の心を、少しでも溶かしてあげられたら。突然わたしの前に現れたレノが、ささやかな幸せをもたらしてくれたのは、確かなことだった。


200828


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