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しめやかな雨の夜


 雨の音が、する。浮上した意識、目蓋を上げる前にやってきたのは脳味噌を締め付けるような頭痛だった。頭の奥の方で痛むそれを和らげるように、右腕で顔を覆う。身体が怠い。酒のせいか、寝不足か。……両方か。今日はなにを食べよう。食欲は全くないけれど、食べなければまたツォンさんにどやされる。ルードも渋い顔を向けてくるに違いない。ああでも、気持ち悪ぃなァ。まだ回転の鈍い頭で、どうでもいいことを考える。左手が、無意識のうちに胸のシルバーを弄っていて、一層胸が重くなった。舌打ちすら出てこない。いつもそうだ。暗い部屋に帰って、一人酒を流し込み、重くなった身体を引きずってベッドに入る。朝など来なければいいと思いながら、泥のように眠る日々。それでも何度も目が覚めて、広すぎるダブルベットに絶望し、日が昇るまで微睡むのだ。まるで地獄だった。カレンが、オレの前から消えて、どれぐらいが経ったのか。つい昨日のことのような気もするし、酷く長い間、独りの夜を過ごしている気もする。わからない。時間の感覚が全くなかった。朝起きて、顔を洗って、出社して。デスクワーク、護衛任務、情報収集、敵情視察、拷問、脅迫、暗殺。代わり映えのない日々。あいつが居た頃と、何も変わっていないはずなのに。どうしてこんなにも、こんなにも、なにも残らないのだろうか。空っぽだ。何をしていても、何も感じない。どうして。シルバーをぐっと握りしめる。あいつの、柔らかい癖毛の感触を、思い出す。髪の匂いも。同じシャンプーを使っているはずなのに、どうしてあいつだけあんなにも甘ったるい匂いになるんだろう。オレを見透かすような、深いエメラルドの瞳。小さな唇は柔らかくて、甘くて、いつだってオレを夢中にさせた。その唇から漏れるオレの名前に、何度心臓を潰されそうになっただろう。「レノ」やさしくオレの名を呼ぶあの声も、オレは、いつか、忘れてしまうのだろうか。

「カレン、」

 熱いものが喉元まで迫り上がってきて、堪えきれずに名前を呼んだ。カレン、カレン。唇が震える。逢いたい、カレン。スン、と鼻を啜ると、香ばしい匂いが漂ってきた。なんだろう。懐かしい。そうだ、パンを焼いている匂いだ。パンなど、久しく食べていない。最近は、携帯食料や、ゼリー飲料など、適当なもので食事を済ませていたから。たまにルードが買ってくるものを食べたり、強引に連れて行かれた大衆食堂で出されたものを食べたり、そうやって食いつないできたような気がする。朝は、食べなくなった。カレンが居なくなってから。そうか、もしかしたら、あの日ぶりかもしれない。最後の朝食を共に摂った日。カレンの用意する朝食は決まってパンだった。焼いたトーストにバターを塗って、目玉焼きと、ごろごろ野菜の入ったスープ。自分もそれほど野菜が好きではないくせに、オレのため、とか言って、毎朝毎朝飽きもせず野菜スープを作っていたっけ。確か、お節介な同僚が「レノにはもっと野菜を食べさせたほうがいいわよ」なんて言ってたんだったな。そういえば味付けも薄味で、野菜の風味がよく出ていた。オレは元々濃い味が好きだったのに、なあ、カレン、あんたのせいで変わったよ。次に鼻をくすぐったのはコーヒーの香り。ああ、そうだ、おまえ、好きだもんな、コーヒー。おまえはブラックで、オレは砂糖二つ。面倒だから一人で淹れたときは砂糖なんか入れないのだけれど、そういうとこ、意外と気にするんだよな、おまえ。ああ、スープの匂いまでしてきた。カレンの、スープの、匂い? なんで、どうして。

「カレン……?」

 ゆっくりと目を開ける。うっすらと明るい室内。ブラインドの隙間から、朝日が差し込んでいた。寝室の扉が、ほんの少しだけ、空いている。そこから、香ばしいトーストの匂いと、コーヒーと、それから、それから、彼女の作るスープの香り。ゆっくりと身体を起こし、申し訳程度にかけられていたブランケットを床へと落とす。まさか、嘘だろ。うまく動かない身体に力を入れて、のそりと立ち上がり、リビングへと続く扉に手をかける。ドアノブを握る手が震えていた。押し開けた先のリビングは、カーテンが開いているのか、明るい日差しが差し込んでいた。窓も開いているようで、爽やかな風が吹いている。テレビはついていない。ラジオが、耳を澄まさなければ聞き取れないほど、微かな音で流れていた。リビングの向こう、カウンターキッチンの奥で、見慣れた背中が、コンロに向かっているのが見えた。嘘だろ、誰か、嘘だと言ってくれ。

「カレン……?」

 喉の奥から絞り出した声に、カレンはくるりと振り向いた。柔らかい癖毛と、エプロンの紐がふわりと揺れる。そうだ、そのエプロン。ルードが誕生日プレゼントに買ってやったやつだった。料理があまり得意じゃないおまえのために。それでもオレに料理を作ってくれる、おまえのために。くりくりとしたエメラルドの瞳がオレをとらえた。それが、すっと細められて、桜色の唇が、嬉しそうに開く。

「レノ、おはよ」

 言葉が出なかった。オレにまた背を向けて、カレンがコンロへと向き直る。手慣れた様子で火を止め、器を取り出してスープをよそった。彼女が動くたびに、ふわふわと髪が揺れる。「そろそろ、起こそうと思ってた。今日出張でしょ。遅刻すると主任に怒られるよ」両手に深皿を持って、カレンがカウンターをまわる。ダイニングテーブルの上には、焼きたてであろうトーストが、バスケットに入っている。その隣の、ジャムと、蜂蜜の瓶。それから、少し焦げた目玉焼きが、ひとつずつ。カレンが、深皿をその横に置いた。そうだ、奥がオレの席で、手前がおまえので、いつもの、いつもの、朝の風景、だった。

「レノ? どしたの?」

 立ち尽くすオレを不思議に思ったのか、カレンが近づいてきて、オレの顔を覗き込む。その深いエメラルドに見つめられて、息が詰まった。震える手を、ゆっくりと伸ばして、カレンの頬に触れる。何かを感じ取ったのか、少し困惑しながらも、カレンはされるがまま、オレを見つめていた。あたたかい。生きている。親指で目元を撫でてから、唇にそっと触れる。湿ったカレンの吐息を指先に感じて、胸が締め付けられた。何も言わないカレンを、そのまま、思い切り、抱き締める。やわらかくて、ちいさくて、あたたかい。肩に顔を埋めると、甘い香り。そうだ、同じものを使ってるのに、おまえからはいい匂いがするんだ。なんでだろうな。首筋にすり寄って、胸いっぱいにカレンの香りを吸い込んだ。ああ、そうだ、間違いない、カレンだ。

「ちょ、レノ、急に、な、なに?! い、痛いんですけど、」
「ん、」
「…………レノ、どしたの? へーき?」

 思い切り込めていた力を緩めると、カレンがオレの背に腕を回した。その小さな手が、オレを落ち着かせるように、ゆっくりと背中をさする。その感覚が、懐かしくて、涙が出そうだった。カレンの手が、ぽん、ぽんとやさしく、あやすように、オレの背をたたく。いつもだったらば、子ども扱いするなと、そう突っぱねるところだった。それでも、少しでもカレンを感じていたくて、なにも言わずにただただ彼女を抱き締める。心配そうな声色で、カレンが訊ねた。

「調子悪いの?」
「夢、」
「え?」
「夢を見たんだ」

 恐ろしい夢だったよ。おまえがいなくなっちまうんだ。どこを探しても、どれだけ待っても、おまえに逢えないんだ。声が聴けないんだ。なにもできなかったよ、オレは、おまえがいないと、なにも、できないんだ。胸が張り裂けそうだった。オレの心中など全く知らないカレンは「わかった、怖い夢だったんでしょ。モンスターにでも食べられた?」なんてくすくす笑いながら、オレをギュッと抱き締める。ああ、怖い夢だった。モンスターに食べられるよりも、もっと、もっと、怖い夢だったんだ。

「レノも怖がることあるんだ。ふっふ、かわいいねぇ」
「……うるせェ」
「よーしよーし、カレンさんが慰めてあげよう」
「黙れよ、と」

 締め殺すように腕に力を入れると、すぐ白旗をあげたカレンが「ギブ! ギブ!」とオレの背中をバシバシ叩く。スミマセンデシタ、の言葉が口から飛び出したので、仕方なく解放してやった。口を尖らせて文句を言うカレンに、自然と唇が吊り上がる。その頭に手を乗せて、くしゃりとかき混ぜるように撫でてやる。やわらかい髪。オレの手を払い除けたカレンがキャンキャン鳴いて、それにまた笑いが溢れてしまった。ああ、愛おしいよ、おまえが。

「もう! スープ冷めちゃう!」
「あー、確かに、腹減ったな」
「座ってて、コーヒー持ってくる」
「おう」

 手櫛で髪を整えながら、キッチンへ向かうカレンを見送って。自分の椅子を引いて、そこへと腰掛けた。トーストを手に取って、バターを塗る。そういえば、食欲が湧くのは久々な気がするな。「ねぇレノ、」カレンがオレを呼んだ。コーヒーが注がれるとぷとぷという音。「んー?」二枚目、カレン用のパンを手にしながら、オレは気の抜けた返事をする。

「本当は、どんな夢、見たの?」
「あ? 聞きたいのか?」
「うん、気になる」
「ああ。…………おまえが、」

 ゴトン。鈍い音に顔を上げる。同時に響いた水音は、きっとコーヒーだろう。カレンが、マグカップでも落としたか? でも、視界に、カレンは、映らない。開いた口から、声が出てこなかった。心臓が張り裂けそうなほど、どくどくと鳴っていた。口がカラカラに乾く。おい、なあ、どうした? ただ、コップを、落としただけ、だろ? なあ、どうして、何も、

「カレン、?」

 零れた声は情けないほど震えていた。返事は、ない。「カレン?」もう一度名前を呼んで、ゆっくりと席を立つ。椅子が床を擦る音が、不自然なほど部屋に響いた。カウンターから、キッチンを覗き込む。コーヒーメーカーの前に、水色のマグカップがひとつ。その横の、シュガーポットの蓋が開いている。オレのために、わざわざカレンが用意した角砂糖。床には、お揃いの緑のマグカップが落ちている。床に広がる、黒い液体。やっぱり落としたのか。違う。床、染みになっちまうな。違う。マグカップ、割れてなくてよかったな。違う。「カレン?」どこに行った? 自分の呼吸が浅くなるのがわかる。キッチンの隅から隅まで見渡しても、彼女の姿はない。どくどくと脈打つ心臓が、悲鳴を上げていた。なんで、どうして、どこに。転がるように駆け出して、壁にぶつかりながら廊下を進む。バスルーム、いない、玄関、いない、仕事部屋、いない、どこだ、リビング、違う、寝室か? 違う、いない、そうだ、カレンは、いない、嫌だ、そんなの、でも、もうずっと、ずっと前に、いなくなって、なあ、どこに行ったんだよ、おい、どこに、

「カレン!!」

 喉から飛び出した叫び声に、勢いよく身体を起こした。薄暗い部屋、静かなそこに、雨の音と、オレの呼吸音。心臓は張り裂けそうなほど脈打って、過呼吸になった肺が酷く痛んだ。シャツの胸元を強く握りしめて、喘ぐような呼吸を繰り返す。カラカラに乾いた口、無い唾を必死に飲み込んで、呼吸に専念する。脳裏にこびり付いた残像を振り払うように、ひたすら、吸って、吐いて、それで。

「は、はは、こっちが、現実か」

 乾いた笑いが漏れる。汗でぐっしょりと濡れたシャツが気持ち悪い。それでも、着替える気力など、湧いてくるはずもなかった。ああ、そうだよな、そうだった。どさりとまたベッドに倒れ込み、左腕で顔を覆う。目蓋を閉じれば、先ほどの夢が、触れられそうなくらいはっきりと思い出されて。なあカレン、オレはまだ、おまえの瞳の色も、髪の感触も、香りも、声も、ちっとも、忘れちゃいなかったよ。それがこんなにも、切なくて、苦しい。いっそ大声で、泣けたら、よかったのに。胸元のシルバーが、小さく揺れた。雨はまだ、止みそうにない。





200622



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