×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

夢の亡骸


 なにか、大切なことを、忘れているような気がした。
 じんわりと右手の薬指に熱を感じて、視線を落とす。もう見慣れてしまったシルバー。あたしの指にぴったりとはまっている、傷だらけの指輪。模様のない、シンプルなデザインのそれは、あたしの一部になってしまったかのように、静かに、鈍い光を放っていた。それを左手で摘んで、ぐ、と力を込める。くるくると回しながら、なんとか指から抜き取った。小さなそれを光にかざして、その裏側を覗き込む。from Rと、それから、透き通った湖の底のような色。きらめくアクアマリン。その色を見ているだけで、きゅう、と胸が苦しくなった。どうしてだろう。あたし、この感覚を、ずっと、知っていた気がする。教会で目覚めた、あの日よりも、ずっとずっと、前から。締め付けられるように痛む胸。指輪を包み込むようにして、胸の前で強く握った。まぶたを閉じる。そうだ、あたしは、知っていた。たとえば、大きな背中が、あたしを護ってくれたことを。たとえば、骨張った手のひらが、あたしの頭を撫でてくれたことを。たとえば、抱きしめられた腕の温かさと、ふわりと香ったシトラスを。たとえば、厚い唇が、あたしの唇を優しく食んでくれたことを。たとえば、甘い声が、あたしの、名前を、呼んでくれた、ことを。

「カレン!」

 悲痛な叫び声に、振り返る。赤い髪が、黒い服が、見えたと思った瞬間にはもう、痛いくらいに抱きしめられていた。頬に当たる胸板。すこし汗ばんだそこから香るシトラスにはっと息を飲んだ。背中に回った手が、離さないとでもいうように、あたしを掻き抱いて。触れている胸の、その奥で、彼の心臓が、どくどくと、脈打っている。懐かしい、音だった。涙が出てしまいそうなほど、安心する、音だった。呼吸が上手にできないほどに、胸が痛んで。ああ、あたし、知ってる。あたしを支えてくれる、この大きい手のひらを知っている。あたしを包み込んでくれる、この香りを知っている。あたしの耳をくすぐる、優しい声を知っている。そして、そして、あたしを愛おしそうに見つめてくれる、その瞳を、

「……レノ、」

 小さく名前を呼ぶと、レノは腕の力を少し弱めた。ゆっくりと顔を上げると、あたしを見つめる、透き通るようなアクアマリン。困ったように下がった眉と、スッと通った鼻筋、きゅっと結ばれた口。上唇は薄いのに、下唇はふっくらと厚くて、ああ、いつもキスをするたびに、ふわふわと、優しくあたしを包み込んでくれる彼の唇、だった。それが、ふるりと開かれて、隙間から、白い歯が見えた。それから、赤い舌も。瞳を揺らがせたレノの唇は、しかし迷うように震えて、それから、何も発することなく、閉じられる。レノの目が、苦しそうに、切なそうに、すっと細められて。震えるレノの左手が、あたしの頬に触れた。おそるおそる、まるであたしが消えてしまうことに怯えているかのように、頬を撫でる指先。存在を確かめるように、親指が、目元をするりと撫でた。頬を包み込む手のひら。グローブ越しに感じる体温が、心地良くて。思わず瞼を閉じてしまいそうになる。腰に回されていた腕が、ぎゅう、とあたしを抱きしめて。レノが小さくあたしの名前を呼んだ。

「カレン」

 それだけで、胸が、またきゅうきゅうと締め付けられたみたいに痛んだ。腰を抱いたまま、レノがぐっと顔を近づけてくる。頬に添えられた手に、力が入ったのがわかった。瞼を下ろすと、ふわりと唇に触れる、熱。ただくっついただけのそれは、でも、あたしの心臓を走らせるには十分だった。ちゅ、という可愛らしい音を立てて、唇が離れていく。そしてまた、二回、三回。ちゅ、ちゅ、と啄むように口付けられて、それだけで身体がぞわぞわと落ち着かない。去っていく熱。目を開けると、泣き出しそうなレノの瞳があたしを見つめていた。震える手を伸ばして、レノの頬に触れる。「レノ、」見開かれた瞳が、次の瞬間には熱を孕んで。レノの右腕が痛いほどあたしを抱きしめたと思ったら、勢いよく唇に噛み付かれた。

「んっ、う、ふ、」
「んん……ん、はぁ、カレン、カレン、」
「レノ、んぅ、ぁ、ん」
「逢いたかった、カレン、」

 レノの舌がぬるりとあたしの口内に侵入してきて、上顎をくすぐるように舐めていく。あっという間に舌が捕まって、唾液を擦り付けるように絡めとられて、ぞくぞくとした快感が背中を突き上げる。腕を、レノの首に回して、引き寄せるように抱きついた。呼吸が苦しくて、でもやめたくなくて、自分からもぬるぬると舌を絡めた。もっと、もっと深く、キスをしたい。ずっと繋がっていたい。離れたくない。もっとレノでいっぱいにしてほしい、あたしを、捕まえて、離さないで、いて欲しい。お願い。もう、ひとりぼっちは、嫌だよ。

「ん、は、レノ、レノ、」

 ぽろぽろと零れた涙を、レノが舌で掬ってくれる。頬に、瞼に、レノの唇が降ってくる。そのひとつひとつが、愛おしくて、切なくて、また涙が零れた。いつの間にかあたしの後頭部を支えていた左手が、ゆっくりとあたしの髪を撫でてくれる。その手が優しくて、あたたかくて、眠ってしまいそうだった。レノの背中に腕を回して、胸板に顔を埋める。レノの匂い、優しい声、心臓の音。ずっとずっと、こうしていたかった。なにも考えず、すべてを忘れて、レノと、こうやって、ずっと。

「レノ、」
「ん?」
「ずっと、はなさないでね、あたしを、」
「…………ごめんな」

 哀しげなレノの声に、息を飲んだ。心臓が凍り付いてしまったかのに、全身の末端が震える。胸板からゆっくりと顔を離して、レノを見上げる。鎮痛な表情で、レノがあたしを見下ろしていた。アクアマリンの瞳が、苦しそうに細められて。震えたあたしの唇から、掠れた声が漏れた。どうして。レノが、目を伏せる。整ったかんばせ、長い睫毛が、物憂げにふるりと震えた。レノの唇が、ゆるりと開かれて、そして、声が、

「だってほら、指輪がねえよ」

 目の前、レノの胸板を見つめる。黒いスーツはタークスの制服だ。白いワイシャツも。レノは、いつもそれをだらしなく着崩していた。相棒のルードとは正反対。ああ、そうだ、それで、いつもツォンさんに小言を言われていたのだ。制服くらいしっかりと着たらどうだ。そうして、そのいくつも開いた胸のボタンを閉めるのが、あたしの役目だった。そうだ、呆れたため息を吐いて、ボタンを閉めようと伸ばした指の先に、いつだってあったのだ。鈍く光るシルバーが。それが。どんなときも外されなかったそれが、今、目の前にはなくて。どうして。声にならない声。いやだ、うそ、どうして。ハッと、自分の右手を持ち上げる。ない。薬指にいつも光っていた、それが、跡形もなく。薬指の付け根だけ、細くなったあたしの指。そこに、絶対に、あったのに、そうだ、さっき外したんだった、そして、そうして、どうして、あたし、

「おまえは、忘れちまったんだろ」

 悲痛な声に、顔をあげたけれど。どうしてか、そこに顔があるはずなのに、その顔が、あたしには、見えなかった。彼が、こちらを辛そうに見ていることも、その瞳から、今にも涙が零れそうなことも、嗚咽をこらえるように、結ばれた唇が震えていることも、わかるのに、どうして、見えないの、顔が、あなたの顔が、

「オレはこんなにも、覚えているのに」
「や、あたし、あたし、」
「おまえの瞳の色も、髪の感触も、香りも、声も、ちっとも、忘れられないのに、」

 苦しそうな声は、急激に遠ざかっていく。待って、という声は、暗闇に吸われて消えた。まって、行かないで。あたしをひとりにしないで。あなたをひとりにしたくない。あたし、わすれたくない。わすれたくないよ、わすれたく、ないのに。引き止めたくて、離れたくなくて、そばにいたくて、あなたの名前を、さけびたいのに、その名前を、おもいだせないまま、あたしは、

「――っ、」

 瞼の裏に光を感じる。まぶしい。それから逃れるように、右手を額に当てる。ゆっくりと目を開けると、白い天井が目に入った。知らない天井。知らない? 知らない、そうか、知らない天井。全身が気怠く、身体を起こすのさえ億劫だった。コンコン、扉がノックされる音。それから、窓の外でさえずる小鳥の声。さんさんと日のはいる室内は、広くはないが木の温もりを感じる、暖かい空間だった。ここはどこだろう。再度、扉がノックされる音。それから、やさしく「カレン、」と名前を呼ぶ声。カレン、カレン、あたしの、名前。

「寝てるのか? 入るぞ」

 がちゃりと扉が開いて、きらきらとした金色が視界に入ってきた。魔晄の瞳があたしを見つめる。起きてたのか。無愛想にそう言って、彼はベッドへと近づいてきた。集合時間はとっくに過ぎてるぞ。お前以外は集合している。時間くらい守れバカ。彼の言葉が、確かにあたしの鼓膜を揺すっているのに、全く理解できないまま反対側から抜けていった。頭が働かない。なにも考えられない。「カレン?」反応の薄いあたしに、彼が心配そうにあたしを覗き込んだ。魔晄の瞳。ああ、彼の名前は、そう――、

「クラウド、」
「なんだ、体調が悪いのか?」
「あ、たし、」
「っ、おい、カレン、」

 ぽろ、ぽろ、ぽろ。目尻から、生暖かいしずくが零れて、こめかみをつたって、落ちていった。あたしの涙に気づいたクラウドが、狼狽しながら枕元に蹲み込んだ。体調が悪いのか? 優しい声に、首を振る。どこか痛いのか? 否定する。怖い夢でも見たのか? 怖い、夢。夢。夢を、見たのだろうか。思い出そうとするのに、なにも、これっぽっちも、情景も、色も、音も、匂いも、なにも、思い出せない。残っているのは、心臓が締め付けられるほどの、哀しさと、苦さ、だけだった。わからない。なにも、わからない、知らない、あたし、なにも、

「っふ」

 心にぽっかりと穴があいたみたいだった。あたしのなかの、大切ななにかが、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。わすれたくない、わすれたくないよ、わすれたく、なかったのに。両手で顔を覆ったけれど、流れ出した涙は止まらなくて。クラウドの大きな手が、ぎこちなく髪を撫でてくれた。あたたかい。あたたかくて、やさしくて、知らない手だった。ゆっくりとまぶたを開ける。差し込む朝日。薬指のシルバーが、鈍く光っていた。





200717



[ 50/59 ]