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04


「……おーい、姉さぁん」


 平時の自分では絶対に出さないであろう猫撫で声で呼んでみるも、目の前の彼女は返事ひとつしなかった。昼過ぎだというのに、部屋は薄暗い。今にも泣き出してしまいそうなほど、どんよりと重たい空が広がっていた。リヴィングに据えられた液晶画面の中で、名前も知らない女性キャスターが微笑んでいる。「今日から、全国的に天気は下り坂でしょう」ずっと付いていたのであろうテレビは、音量こそ小さかったが、煩わしくなったのですぐに消した。静寂に満ちた部屋には、時計の音と、名前がわずかに漏らす寝息しか聞こえなくなる。それが、居心地が良いような、悪いような、妙な感覚を俺にもたらした。「姉さん、」少し息が苦しくなって、助けを呼ぶように小さく呟いたけれども、やはり返事はなかった。


「ちぇ、」


 餓鬼みたいな拗ねかただと自分でも思ったが、どうせ聞いている人間などいないのだからと思いなおす。聞かれていたとしても、名前ならば問題ない。むしろ、名前が聞いていないことが問題だった。なんで寝てるんだよ。知らず知らずのうちに、眉間に皺が寄る。せっかく、二人きり、なのに。母さんは朝から出かけていた。なんでも、近所のママさん達とショッピングに出かけたらしい。走り書きのメモと一緒に、ベーコンと目玉焼きが置いてあった。そういう予定は早く言ってくれ。前もって把握していれば、貴重な休日に、わざわざ惰眠を貪ったりもしなかったのに。そう、さっさと起きて、名前と、


「って、姉さんが寝てたら意味ねぇだろ……」


 独り言にしては大きな声も、妙に響いてからすぐに消えた。目の前の名前は、安心しきっているのか深い眠りについている。それが、唐突に俺を苛立たせた。無防備、すぎる。顔にかかっていた前髪を、耳にかけてやった。露わになる貌。薄く開けられた唇が、誘っているようで、それと同時に拒絶しているようで、心臓がじくりと締め付けられた。警戒心が全くないというのは、意識されていないと同義語だ。


「姉さん、風邪、ひくよ、」


 耳に吐息をぶつける様に、囁いた。ぴくりと動いた名前はしかし、目覚める気配すら見せない。それが、また、じわりと心臓を侵していく。至近距離、名前の吐息が唇で感じ取れるほど、近づいて、じっと彼女を見つめる。流れるようなススキ色の髪は、その長さを除けば俺と瓜二つだった。色どころか髪質まで同じそれが、ぎりぎりと俺の心臓を締め付ける。真実を、突き付けられるかのようだった。唯一、異なっている瞳は、今は瞼に隠れてしまっていた。黒茶に近い俺とは違って名前は明るいカフェオレ色の瞳をしている。名前の、柔らかいその瞳が好きだった。できる事ならずっと見つめていたかった。瞼の下に隠れてしまったそれを、この距離で見たいという願望が、鎌首を擡げる。キスをすれば、童話のように、彼女は目覚めるのだろうか。


「……名前、」


 ぎしり。覆いかぶさるようにソファに体重を預けると、ちいさくソファが軋んだ。それでも名前は目を覚まさない。このまま、このちいさな唇に齧り付いたら、彼女はどうするだろうか。狼狽するのか、落涙するのか、拒絶するのか。望むのは、たった一つなのに。それが手に入らないから、こんなにも、苦しい。


「名前、」好きだ


 囁くそれは最早声になど出ていなかったのかもしれない。閉じられた瞼、左眼にそっと唇を寄せる。触れるだけのキスは、そのまま耳へと移った。流れる髪をひと房すくい取り、それにも口付ける。髪をかきわけて、首筋へと口唇を滑らせた。一度舌先で撫でてから、また触れる様に口付けた。躰を起こして、再度名前の顔を覗き込む。その寝顔に、自嘲的な笑みが零れ落ちた。くくく、と喉の奥で笑ってから、ソファに背を預ける様にして床に座り込む。声は掠れていた。


「首筋は執着、か」


 キスの場所には意味があるとは、どこの本で読んだのだったか。髪は思慕、瞼は憧憬、耳は誘惑。フローリングに座り込んだまま、俺は名前の寝顔を見つめる。規則正しく華奢な肩が上下する。伏せられた瞳も、呼吸に合わせて震える睫毛も、わずかに開いた唇も、全てを独占したいと思う俺は可笑しいのだろうか。名前の胸元の腕を引き寄せて、手首に吸いつくように口付けた。そのまま、てのひらに唇を這わせる。手首は欲望、てのひらは懇願。ぎゅ、と指を絡ませる。やんわりと襲ってきた睡魔、それに逆らうことなく、俺はちいさな欠伸を一つこぼした。ソファにうつぶせる様に腕を組みながら、しかし名前の指は離さない。ちらりと上目で名前を窺う。ぴくり、と、唇が震えた、気がした。遮断するように俺は瞼を閉じる。


「おやすみ、名前」


 思考が拡散する中で、名前の指先だけが暖かかった。俺は必死で、まるで壊れものを扱うかのようにその指先を握りしめる。唇は、愛情。触れることなど、できるはずもなかった。本当に言いたいことなんて、ひとつも言葉に出来やしない。











120217  下西 ただす






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