第三話
今日はついてない日だった。
信号は全て、タイミング悪く赤。電車のホームへ上がる階段では転ぶ。その時に、足をぶつけた。痛い。落ちなかっただけマシだ。極め付けは、何時ものコンビニで運悪くお弁当が完売。仕方なしに、おにぎりとカップのお味噌汁を買った。
ついてない。驚く程、ついていない。何なのだ今日は。
憂鬱になりながら家へ帰宅した。唯一の幸運は、定時で上がれたことだけだ。
いつもの様に鏡を二回ノック。少し荒々しくなったのは許してほしい。
布が退かされた。
「お帰り…ってどうした?なんだか不機嫌そうだな。」
「ただいま…それがね、聞いてよれいさん。」
今日、あった事を話した。いかに、ついていなかったのかを。
一通り話を聞いてくれた。
「成る程、だから今日は弁当じゃなくておにぎりなのか。」
「うんそうなの。」
「災難だったな…だが、転んだんだろ?大丈夫か?」
「ちょっと青痣になったけど大丈夫。」
「傷になってるじゃないか…ちゃんと湿布を貼るんだぞ?」
大丈夫かと心配してくれるれいさん。とても優しい。私の癒しは彼だけだ。
言われた通りに湿布を貼る。まだ、残っていて良かった。前に、何かで怪我をした時の残り。こうやって、定期的に怪我をするから備蓄がない時もある。
「貼ったよ。」
「よし、偉いな。」
「そうやって子供扱いする!あんまり年齢変わらないでしょーよ。」
「ん?そうか?」
きょとりとする彼。どう見たって同い年くらいだ。探偵という職業を踏まえても、一つか二つ上くらいだろう。
「そうだよ。」
「なら、君も29歳くらいなのか?」
今、なんと言った。この人は何と言ったのだろう。聞き間違いなのか?今、29歳と言ったか。
そんな馬鹿な事、あるわけない。この顔で29歳なんてそんな事。
「えっ」
「?同い年くらいなんだろ?」
「待って、もしかして…れいさん29歳なの?」
「あぁ」
誰か、嘘だと言ってほしい。こんな、ティーンと言われても違和感のない顔で29歳。もうすぐ30歳。信じられない。信じられるわけがなかった。この世は地獄です。
逆年齢詐称もいいところだ。
「…大分上じゃん。」
「えっそうなのか?同い年くらいだって言うからてっきり…。」
「私まだ、20代前半だよ。」
「あぁ、何となくわかる。」
「私は、れいさんが29歳なのわからない…深夜とか出歩いてて補導されない?」
そう聞けば、れいさんは沈黙した。そして、視線を泳がせた。
この反応からして、補導された事あるな。確信した。しかし、これは補導されるのも無理ないだろう。
探偵やっている、なんて聞かなければ私だってそう思った。まぁ、良くて大学生という所か。
「その反応、補導された事…あるんだね?」
「…ない事もない。だが、最近はないぞ。」
「最近は、ねぇ…ふぅん。」
「な、何だその目は…本当にないからな。」
わかったわかった、と言えば不服そうな顔をした。それでも、それ以上は何も言わない。
しかしまぁ、れいさんは結構年上だったか。なんだか、お兄ちゃんみたいだ。
お兄ちゃんだね、と言えば少し複雑そうな顔をした。そんなに私が、妹なのが嫌なのか。私だって、傷つく事を主張したい。
「まぁ、確かに目が離せない、という点では妹みたいではあるな。」
「どういう事だよ。」
「そういう事だ。」
きっと、鏡越しではなくて、実際に目の前に居たら頭を撫でられて居た事だろう。そんな雰囲気を察知した。
「おっと、もうこんな時間か。」
「あ、本当だ。」
「明日も早い、もう寝ろ。」
「はーい。」
「おし、じゃあお休み。」
「お休みなさい!」
布を被せて、お開き。食べたおにぎりのゴミを片付けて、布団に入る。
せめて明日は運が良くなりますように。
***
何時もの様に、れいさんと夕飯を食べていた。相変わらず、れいさんと私の夕飯の差が激しい。今日のれいさんのご飯は、豚肉の生姜焼きとポテトサラダ。ごはんと野菜スープ。見ただけでも美味しそうなのが分かる。
ちなみに、今日の私の夕飯は親子丼である。美味しい。
ふと、れいさんが言った。
「前から思っていたが…君の部屋の間取りと俺の部屋の間取り似てないか?」
「え?そう?」
れいさんは簡単な家の見取り図を描いて見せてくれた。確かに、少し似ている気がする。
私も、書けないなりに見取り図を作成した。そして、それをれいさんに見せる。
「あー、やっぱり。似てるな…いや、似てるというかほぼ一緒だな。」
汚い私の見取り図を見てれいさんはそう言った。見取り図が残念な出来になっているのを突っ込まないあたり優しい。
私の書いたものとれいさんが書いたものを見比べた。れいさんの言葉通り、確かにこれはそうだ。殆ど一緒。家具や私物を有りと考えてもこれは凄い。
もしかして、同じマンションにでも住んでいる様に錯覚する。お隣さん、みたいな。しかし、残念な事にお互いに世界が違う。そんな事あるわけない。
それが、少し悲しくなってふざけて言った。
「もしかして、同じマンションの可能性あるんじゃない?」
「ここまで似ていると…そうだなぁ…。」
「うち、MAISON MOKUBAって言うんだけどさ!れいさんのとこは?」
笑っていたれいさんの表情が固まった。何か変な事を言っただろうか。
嘘だろ、と小さく呟いたれいさん。それを聞いて、私はまさかと思った。
「俺の、所も…MAISON MOKUBAと言うんだ。」
嘘だと思った。向こうとこっちで同じ建物があるのはわかる。しかしなんだ。まさか、同じマンションに住んでいたなんて。誰が思っただろう。
さらに聞けば、部屋の番号まで一緒ではないか。同じ部屋。どうりで間取りが同じ訳だ。納得はしたが理解が追いつかない。
それは、向こうも同じ様だった。珍しく焦った表情をしている。
「まさか…部屋まで一緒だとはな…。」
「ですね…でも、これでもう同居人確定ですね。」
「鏡越しでしかやりとりは出来ないがな。」
「でも、話し相手には困らないよ。」
「そうだな、飯を食べる時も寂しくは無くなったしな。」
確かに、と言えばれいさんは笑った。私も笑った。
***
たまには、鏡の掃除をしよう。れいさんと唯一の連絡手段だ。こんな奇妙なこと何時まで、続くのかは分からない。だからこそ、少しでも長く続けられるように。大切に、大切に扱おう。
存外、私はこの生活を気に入っているようだ。
一人暮らしを選んだのは自分。それでも、帰ってきて独りだというのは、少し寂しいものだ。悲しいことに、私には恋人はいないのだから。
そういえば、れいさんはどうなんだろう。いるのだろうか。今度聞いてみよう。
寂しかったが、今はれいさんがいる。帰ってきて、鏡を叩けばお帰り、と言ってくれる。そんな存在がいる。それだけで、嬉しいのだ。
掃除をするために、鏡を持ち上げた。よく見れば、少し埃が溜まっている。
軽くティッシュで乾拭きをして、埃を取った。ある程度は、取れただろう。次に、除菌シートで細かいところまで拭いた。
ふと、鏡の裏に文字を見つけた。四隅の内の、右下に小さく書いてある。なんだろう。
目を凝らしてよく見てみると文字はどうやら数字。書いてあったのは"-50"。
何だこれは。買った時にこんなもの、書いてあっただろうか。
記憶を遡ってみたが分からない。分からないということはきっとあったのだろう。
特に気にも留めず、元の場所に鏡を戻した。改めて見て大分、綺麗になった気がする。
「うわ、びっくりした。」
鏡の向こうから声がした。映っていたのは、驚いた顔をしたれいさん。何時もは、布を被せてあるから真っ黒。それなのに、今日は何も無しに私の顔が映ってるのに驚いたのだろう。申し訳ない。
「ごめん…。」
「それはいいんだが…今日はどうした?もしかして、ノックしたか?」
気がつかなくてすまない、と申し訳なさそうに言った。
「あ、ごめん…違うの。偶には手入れしようと思ってね。」
「あぁ、成る程。」
「そういえばさ。」
「ん?」
「掃除してて気がついたんだけど…鏡の裏側にね、"-50"って書いてあったんだよね。」
そう私が言えば、れいさんはどれ、と裏側を見た様だ。一瞬暗くなった鏡。ガタガタと音が鳴った。直ぐにそれもれいさんの顔になる。
「俺の方にも書いてあったぞ。」
なんと。れいさんの方にも書いてあったか。不思議だ。ここまで一緒なのか。
「何だろうね。」
「うーん…製造番号とかか?」
「マイナスなのに?」
「…多分。」
結局、分からなかった。
特に気にする様なものでもないだろう、とれいさんは言う。気にはなったが、れいさんがそう言うのだ。ならきっと、気にするようなものではないだろう。
***
約束の時間まで、あと1時間。今日は、少し遅くなると言われた。だから、いつもより1時間ほど遅い。
この時間は何をしようか。折角なら、テレビでも観ていようか。
テレビをつければ丁度、海外のゾンビ映画がやっていた。昔にやったやつだが。再放送だ。
他に観るものもない。なら、これでいいか。
どうやら、前に観た事がある様だ。懐かしい。
内容も終盤に差し掛かったところ。一番の盛り上がり。私は、こんな内容だったか、とぼぉっとした頭で観ていた。
その時、鏡からノック音。れいさんだ。
いそいそと鏡を用意する。布を外せば、スーツ姿のれいさんが映っていた。帰ってきたばかりなのだろう。いつもは、もう少しラフな格好をしていた。
「お帰り、お疲れ様。」
「あぁ、ただいま。君もお疲れ。」
「あ、ちょっと待ってね。」
れいさんに断りを入れてテレビに向かった。もういいだろう。元々はれいさんが帰ってくるまでの暇つぶしだ。消そう。
消そうとして、間違えた。音量を上げるボタンを押してしまった。一気に上がる音量。
タイミングがいいのか悪いのか。丁度、女性の悲鳴が上がったところだった。その次に、発砲音。なんというデスハーモニー。
部屋には、甲高い悲鳴と発砲音が鳴り響いた。
近所迷惑になる。早く消そう。
今度こそ、間違えないように電源ボタンを押した。危ない。
ブツリ、と音を立ててテレビの画面が消えた。今は、何も映さない。ただただ、真っ黒な画面。その中に、自分が映る。
静かになった部屋の中に、別の声が響いた。どこからだろう。そんなもの一つしかない。鏡だ。
もしかして、さっきの音を聞いてれいさんが驚いたのかもしれない。悪いことをした。
直ぐに、鏡の前に戻った。
「おい!大丈夫か!返事をしろ!おい!」
「え、あ、大丈夫、だけど…。」
驚いた。鏡に映っているれいさんの表情が、今まで見たことがなかったから。
切羽詰まった様な、焦っている様な。眉間にしわを寄せていた。
どうしたのだろう。まさか、さっきのテレビの音でそこまで、れいさんは焦っているのか。
「本当か?!今、悲鳴と銃声がしただろ!本当に何もないか!?」
まさか、だった。
「あ、うん…本当に大丈夫。」
「ならさっきのは何だ!外か?まず、警察に連絡をして君は絶対に外に出るな!」
「ま、待って待って!ストップ!」
「非常事態だ!待っていられるか!」
困った。きっと心配してくれているのだ。それは、純粋に嬉しい。しかし、反面申し訳なさが募る。
だって、あれは事件でも何でもない。ただのテレビ。
「あぁ、くそ!直接、干渉出来ないのが腹立たしいな…!」
「本当に待って!違う!違うんだって!」
「何が違うって言うんだ!あんな悲鳴と銃声がしたんだぞ!」
本当に待ってほしい。この人、意外と熱くなって人の話を聞かないタイプなのか。
「だからね、あれは、テレビ!」
「近くにまだ…………え?テレビ?」
焦った顔から一転。驚いた顔になった。震える声で本当に?と聞かれる。それに対して高速で首を縦に振った。
するとどうだろう。れいさんは、その場にへたり込んだ。
「そう、か…テレビ…何だ…そうだったのか…。」
消えそうな声で、良かったと安堵の息を吐いた。そんなに、心配してくれたのだろうか。心が痛い。
私の不手際のせいだ。確かに、ちょっと待ってて、と席を外したタイミングであれは間違える。
「ご、ごめんなさい…。」
「いや、いい…君が無事なら……俺こそ、早とちりをして悪かった。」
「そんな、あんなタイミングで悲鳴と銃声が聞こえたら…誰だって…。」
「…俺は少しそう言ったものに敏感になっていた。冷静に考えれば分かることだ。」
力無く笑う。何でそんな顔で笑うのか。私のせいだ。もう一度、ごめんなさいと言えば大丈夫だからと言ってくれた。
「でも、あの、不謹慎かもしれないけど…れいさんが心配してくれて嬉しかった。心配してくれてありがとう。」
お礼を言えば、少しだけ目を丸くにさせた。すぐに当たり前だろう、と返される。
「他でもない、君の事だ。心配しないわけ無いだろう。」
これは妹としてなのか、同居人としてなのか。分からないけどとても嬉しい。
「私だって、同じ様にれいさんがそうなったら心配だよ。」
「そうか…?ありがとう。」
「そうだよ!」
最後に、絞り出す様にれいさんは本当に良かった、と呟いた。それは、まるで縋る様な、切ない様な、心の底から言っているのだと分かる。
私は心に決めた。二度とこんな事はしない。れいさんとの約束の時は観ない様にしよう。それか、先に断っておこう。