第二話


 事の発端は1ヶ月前。壊れてしまった鏡の代わりに買ったのがこの鏡。普通の100円ショップで買ったもの。
 何の変哲も無いただの鏡だった。

 深夜に差し掛かるであろう時間に帰宅。身体は疲れ切っていた。ご飯とお風呂は明日でいいか。どうせ明日は休みだ。
 とりあえずはメイクさえ落とせば後は明日。そう思って新調した鏡を出した。
 鏡の前に座った。そこでメイク落としシートが離れた所にあるのを見つける。億劫だったが仕方ない。取りに行こう。

 一瞬。ほんの一瞬。数秒だけ離れて、また座る。
 溜息をついて、鏡を見た。しかし、そこに自分は映っていなかった。
 目の前に置いてある鏡の中に広がるのは私では無い。更に言えば、私の部屋ではなかった。
 疲れ過ぎて幻覚を見たのだろうか。どうせ落とすのだからいいか、と目を擦る。それでも、風景は変わらない。何度、目を擦っても、瞬きをしても、変わらない。
 一気に血の気が引いた。

 こんな所で、ホラーに遭遇なんて。やめてくれ。しかも、自分の部屋でなんて。今日から寝れないじゃないか。
 固まっていると、鏡の中でガチャリ、と音がした。

 何故、鏡から音が聞こえる?

 とすとす、と音を立ててこちらに近づいて来た。何が何だか分からなくて涙が出そうだ。すんでのところで保っているが。
 鏡の前を、スーツの男が過ぎる。もうそれだけで涙が溢れそうだ。
 運が悪いというのか何というか。持っていたメイク落としシートを袋ごと落としてしまった。この時ばかりは、自分を恨んだ。
 その音に、気が付いたのか警戒したように近づいてくる足音。不審者だったらどうしよう。
 私だって女だ。知らない男の人なんて怖い。

「誰だ。」

 低い声だった。冷たくて怖い声。凄みがある。それだけでもう私の涙腺は限界を迎えた。
 1番怖いのは、その男が持っていた物。テレビや漫画で見た事のあるそれ。銀色の鉛。まさにそれは、拳銃。
 銃口を向けられていた。

 そして、私は泣いた。

 鏡を覗き込んだ男はとても綺麗な顔をしていた。そして、何処と無く若い。
頭では恐怖が優っているのに、何処か冷静に男を見れた。一周回って、というやつだ。

 男は私の顔を見て驚いている様。それはそうだろう。鏡の中で見知らぬ女が泣いているのだ。私だって驚いている。

「き、みは…?」

 泣いていて答えられない。色々なものが重なってパンクした。
 目の前の男は泣いてばかりで何も答えられない私に呆れたのだろう。スッと拳銃を下ろしてくれた。そして、ある程度は落ち着くまで待ってくれたのだ。
 不審者なのに優しい人。

 私が泣き止んで落ち着いた頃。男はさて、と切り出した。

「君は誰だ?」

 何となく、私は自己紹介をした。名前と年齢。それだけ。

「どうやって、こんな物を?」
そんなの知らない。知るはずがない。むしろ、私が教えてほしい。
ただの、何の変哲も無い鏡だった。鏡だったのに。
「わか、りません…私、この鏡は…ついこの間、100円ショップで買って…。」
「…。」
「なん、で…こんな…。」

 そうか、と少し悩んでいる様だ。顎に手を当てている。その姿も様になっているのはどうなんだろうか。
 その男を見て、急に不安になった。流れで自己紹介をしてしまったが大丈夫なんだろうか。拳銃を持っていたし、危ない人ではないだろうか。
 頭から冷水を被ったかの様に血の気が引いた。どうしよう。

 徐に、目の前の男が動いた。手に持つのは先ほどの拳銃。今度こそ、殺される。そう思った。

 逃げなきゃ。頭では分かっているのに身体が動かない。動いて。動いてよ。動け!

 男はグリップを握って思い切り振り下ろした。部屋には金属のぶつかる音が響く。向こうは鏡ではなくて鉄だとでもいうのか。
 振り下ろした男の顔は驚愕していた。何故割れない、そう言っている様だ。

「…成る程、これは割れないみたいだ。」

 見てたので分かります。

「そうなると…鏡ではなく…別の…。」
「…貴方のところのは鉄ですか。」
「いいや、普通の鏡だ。」

 普通の鏡は拳銃で殴られたら割れる。割れるはず。

「でも、割れてな…。」
「そうだな。つまりこれは普通の鏡ではない。」
「なら、何…。」
「さぁ、分からない。」

 お手上げだと肩を竦めた。そんな姿も絵になる。これが、こんな不思議な状況でなければ眼福だと喜べるのに。今は全くもって喜べない。むしろ、怖い。

「壊すのは無理、か…見た感じだとこれを切れるスイッチの様な物はない…何なんだこれは。」
「なん、何ですかね…?」
「心当たりは本当にないのか?」
「ない、です…今、帰ってきて…メイク落としシートを取りに行って…ほんの数秒です…戻ったらこう、なっていて…。」

 男は、そうか、とだけ呟いた。
 これが何なのかも、どうして繋がったのか理由もわからない。
 割れない鏡。何処とも知らない場所が映る鏡。それだけでホラーだ。色々な意味で。

「…とりあえず、原因は調べてみよう。」
「私も…何か調べてみます。」
「あぁ。」


***



 それから数日。何の進展もない。何も分からないままだ。
 相変わらず、あの鏡の中にはあの男がいる。普段はお互いのプライバシーがあるので布を被せていた。何かあれば鏡をノックする。そう決めた。
 居れば、直ぐに反応できる。反応が無ければ、居ない。そういう判断。
 もう一つ、決めた事がある。定例の報告会。ある程度の時間を決めた。その時間に何かわかった事がないかの報告をする。まるで、会社の会議みたいだと思った。
 今日ももうそんな時間。数回、鏡をノックする。数秒開けて、画面が揺れた。
 向こうが被せている布。バサリ、と音を立てた。布が取られたのだろう。

「お疲れ様です。」
「あぁ、お疲れ様。」

 なんだか、上司を相手にしている様だ。分からないが、この人はきっと管理職に着いている気がする。聞いていないから分からないが。
 聞いたところできっと、答えてはくれないだろう。

「何かわかったか?」
「いいえ…。」
「そうか。こちらも特にはないな。」
「そうですか…。」

 そんなに直ぐに分からないとは思っていた。しかし、何の情報がないというのは些か辛いものがある。
 お互いにこのままでは駄目だろう。早く何とかしたいものだ。

 気まずい空気が流れた。

「そ、それじゃあ…あの、お夕飯もあるだろうし…。」
「そうだな…それじゃあ…。」

 お開きになり、布を被せようと近付く。その時に、先ほど買った夕飯を蹴り飛ばしてしまった。ガサリ、と音を立てたそれ。中身は面倒臭くて、コンビニ弁当だ。

「…大丈夫か?」
「まぁ、なんとか…どうせコンビニ弁当ですし…崩れても味は変わりませんから。」
「コンビニ弁当…?」

 ぴくりと、目の前の男の顔が引きつった。

「あ、はい。楽ですよねコンビニ弁当。」

 何時も、業務的な話しかしない彼が初めてそれ以外の話をした。世間話程度に返したが、何か問題があったのだろうか。
 コンビニ弁当。一人暮らしの人間からしたら楽だろう。美味しいし。
 さっと濯いでゴミ箱へ捨てればそれだけで済む。

「…何時もそうなのか?」
「えぇ、まぁ…。」
「コンビニ弁当だけだと身体に悪いだろう。」

 驚いた。まさかそんな事を言われるなんて。誰が思っただろう。

「え、まぁ…でも最近のコンビニ弁当はお野菜入ってますし…。」
「それでも偏っている事には変わりないだろ?仕事は身体が資本なんだ。しっかり30品目食べろ!」

 いきなり母親みたいな事を言う。もしかして、この人。とても健康に気を使う人なのか。
 初めて、業務的な会話以外の会話がこれとは。なんとも言えない気持ちになった。しかし、少しだけこの人の事を知れた気がする。

「えっと、でも一人暮らしってこんなもんじゃ…もしかして貴方は…毎回作って…?」
「当たり前だろう。」

 なんてこった。一人暮らしで、それも男の人が料理をする?それも毎回?知らない世界だ。
 女でさえ面倒なのに。全ての人がそうではないが。

 否、女だから、男だからなんて偏見はいけない。それでも、驚くものは驚く。

「全く…。」

 どうしようもないな、と溜息をついた。失礼だな。

「…いや、すまない。他人の事に口を出すべきじゃないな。忘れてくれ。」

 何時もの業務的な口調に戻った。今度こそじゃあ、また、と言ってお開きになった。


***


 今日は休日だ。折角だ。ご飯を作ろう。決してこの間、あの人に言われたからではない。違う。
 食材を買い、キッチンに立つ。普段から料理なんてものはしないから勝手がわからない。コンロに火をつけるくらいならできる。
 ざくり、と食材を切る。少し歪だが、及第点だろう。やっているだけマシだ。
 しばらく日持ちのするカレーを選ぶ。

 材料を放り込んで、煮る。そして、ある程度煮たらルーを入れる。完璧だ。

 …そう思っていた時期もありました。

 少しうたた寝をしたのがいけなかった。気が付いた時にはカレーが焦げていた。ボヤ騒ぎにならなかったのが幸いだ。そういう問題ではないのは理解している。
 結局、何時ものコンビニ弁当にお世話になった。

 今日の定例会。休日ということもあって何時ものよりは早い時間。
 恒例の鏡を数回ノック。バタバタと足音が近づいて来るのが聞こえた。そんなに慌てなくてもいいのに。
 バサリ、と布を取られてもう見慣れた光景が広がる。

「お疲れ様。」
「お疲れ様です。」

 仕事ではないのだが、なんとなく癖になってしまっている挨拶。今日は、休日だしこんばんはの方が良かっただろうか。
 相変わらず私は足元にコンビニ弁当を置いている。勿論、鏡に映らない位置に、だ。

「あれから、分かったことがある。」
「本当ですか。」
「あぁ…そこで、だ。君にいくつか聞きたいことがある。」
「?何でしょう。」

 そう言えば、自己紹介位しかしていなかった。いや、待てよ。私は、この人に自己紹介されていない。名前すらも知らない。
 あれからもう結構経つのに。そして何度も、話をしているのに。おかしいぞ。
 殆ど、会話をしない顔もよく知らない会社の上司ですら、名前くらいは知っている。それなのに目の前のこの男の名前は知らない。よっぽど、その上司よりも顔を合わせて会話をしているというのに。

「まずは…。」
「待って、下さい。」
「何だ?」
「あの、私、貴方の名前、知らないです。」
「…。」
「私だけ、自己紹介したのに…貴方のは聞いてないです。」

 確かに、お互いに怪しいと思っている。しかし、このよくわからない現象に遭遇した仲間なのだ。仲間、というほどでもない気がするが。
 もう、知らない他人ではない。名前位、聞いたっていいだろう。

「だからその…。」

 目の前の男は、黙ったままだ。何かを考えているようだ。
前も、思った。この人は、とても慎重なんだと。反面、私は軽率だったと思う。知らない人に自己紹介。なんとも言えない。

「…れい、だ。」
「え?」
「だから、俺はれい、だ。」
「れい、さん。」
「そうだ。」

 れい。れいさん。名前しか答えてくれなかったけど、それだけで少し近くなった気がする。
本名かはわからないけど。それでも、知らないよりはいい。

「そっか…。」
「それで、聞いてもいいか?」
「あ、はい。」
「…まず、君の務めている会社は何処だ?」

 何故、そんな事を聞くのだろうか。やはり、危ない人か?

「理由を聞いても…?」
「…君の名前を調べた。」

 何という爆弾発言。今、私の名前を、調べた、と言ったのか。
 どうやって、調べたのだろう。

 私が、怪訝に思っているのが、伝わったみたいだ。れいさんが口を開いた。

「…俺は探偵なんだ。だから、すぐに調べられた。」
「あ、そうなんだ。」

 この人、探偵だったのか。でも、何となくわかる。頭良さそうだし仕事できそうだし。ぴったりだと思う。

「それで、気なることがあってな。だから、教えてほしい。」

 それならば、まぁ。仕方ない。
 私は、勤めている会社の前を言った。割と有名な所だし知っているだろう。大御所だ。CMもやってる様な大きな所、聞いたことある?と聞いた。

 しかし、返ってきたのは予想と違っていた。

「…すまない、そんな会社は聞いたことが無い。」
「え」
「それに、今調べてみたんだが…ネットにもない。」

 そんな。そんな、馬鹿なことは。あるはずがない。名前を聞いた事がないのは分かる。しかし、ネットにない?そんな事はない。
 自分の端末で検索をかけた。あった。やはりある。何時もの見慣れた弊社のサイト。
 れいさんに見せて、もう一度検索してもらった。しかし、何度も試しても見つからない。何で。どうして。
 そんな馬鹿な事、あるはずない。

「…やはりか。」

 混乱する私とは対照的に、どこか納得した風だった。

「え?」
「君の名前を調べたと、言ったな。」
「…はい。」
「君の名前は、無かった。役所にも何処にも。そして、君自体はこの世に存在していない。」
「どういう…。」
「そこはわからない。しかし、今君の働いている会社は聞いたな?その上で、お互いに端末で調べた。だが、俺の端末にはそんな会社は出てこなかった。そして、君の端末では出てきた。」

 何を、何を言っているのだろう。

「…もう一つ、いいか?」
「…はい。」

 喉が乾く。カラカラの喉から絞り出した。
 何だ。何なのだ。

「米花町、って分かるか?」

 米花町。米花町…何度、反復しても分からない。何処だ。聞いたこともない地名だ。

 私は、地理に明るくはない。もしかしたら、別の県なのだろうか。それならば私は、知らない。それに、何故そんな事を聞くのだろうか。何か、関係でもあるのだろうか。
 嫌な予感がしている。私の中の、警報が鳴り響く。

「君の見せてくれた、会社のサイトがあっただろう。こちらで住所を調べた。」
「…それで。」
「残念ながら、君の勤めている会社の住所には、別の建物が立っていた。それも、場所の名前も違う。君のところは、●区の○だったな。同じ経度で示したここは、●区の米花町だ。」
「そん、な…。」
「信じられないのも分かる。俺も信じられない。だが、こうして証拠がある。現実だ。」

 呆然とした。何が何だかわからない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 あり得ない。あり得ないこんな事。私の名前がない?行ってる会社がない?こんなの現実ではない。
 信じたくない。信じられない。しかし、現実。目の前で見てしまった。これは現実なんだ。

「もしかしたら、この鏡は…別世界に繋がった様だな。」

 1人納得しているれいさん。私はまだ納得していない。
 何だってこんな。
 確かに、オカルト方面では聞いた事があった。鏡の中には、もう一つ世界がある。似て異なる世界。少しずつ違う。異世界。
 そんなもの、物語の中だけだと思っていた。今この時までは。現実、私の目の前には異世界が映る。そして、異世界の人間が映る。

 なんて事だ。

 不思議体験ではないか。これが、世にも奇妙ななんちゃらなのか。

「混乱、しているよな。俺もだ。」
「…。」
「こんな非現実的な事、直ぐに受け入れるのは難しいだろう。だが、こうなってしまったんだ。勿論、解決方法はこれからも探す。だから、もう暫くはよろしく、頼む。」

 向こうだって混乱しているのだ。私だけじゃない。そう思ったらすっと頭が冷えた。そうだ。私1人だけじゃない。れいさんもいる。きっと、解決出来るだろう。
 それまでは、同居人が増えたと思えばいい。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

 そう言えば、一瞬きょとりとした後に力強く笑うれいさん。その笑顔がとても親しみやすかった。

 話にひと段落が着いた。ふぅ、と息を吐く。夕飯には少し遅い時間だった。
 折角だ、と一緒に夕飯を食べないかと誘ってみる。一瞬だけ目を丸くした後にそうだな、と頷いた。
 用意して来る、と席を立った。私も、用意をしなければ。まぁ、何時もの通りコンビニ弁当だけど。電子レンジで数分温めれば直ぐに出来る。

 電子レンジに放り込んで数分。温まり完了の音がなる。少し温め過ぎた様だ。何時もより熱い。
 それを持ってテーブルに移動。ビニールを剥がして、テーブルに置く。箸やらを用意して鏡を目の前に設置した。これでいいだろう。
 向こうも丁度良く、用意が終わったみたいだ。
 ふっくらほくほく、湯気の立つご飯。焼き鮭。その横には、大根おろし。そして、小鉢には切り干し大根。極め付けは、これも温かいことが分かるお味噌汁。
 目の前のご飯との差に打ちひしがれた。そして、真っ先に思った。女子力が高い。
 そんな彼が、私のテーブルに乗るお弁当を見て溜息をついた。心に刺さるのでやめて頂きたい。

「また君は…。」

 言い訳をさせてほしい。

「私だって、今日は頑張ったんですよ?」
「ホォー…?」
「頑張って、カレーを…ですね。」
「それで?」
「あの…焦がし、まして…失敗…しました。」
「カレーで、失敗…?」

 驚いた顔をしていた。それはそうだろう。カレーだ。子供でも作れる方のカレーだ。市販のルーを使うタイプの。
 目を合わせられなくて視線を外した。
 すると、向こうから大きな笑い声が聞こえる。

「あっはっは!君、カレーで失敗したのか?!」

 初めて見た。無邪気に、子供の様に笑う。今まで、見たこのない表情。目を奪われた。私、この笑顔好きかもしれない。
 しかし、カレーを失敗しただけでこんなに笑わなくてもいいじゃないか。

「うるさいですよ。」
「ごめんごめん、じゃあ食べようか。」

 これが、初めて彼と一緒に食べた夕飯だった。
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