第五話
最悪だ。突然、雨が降ってきて頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れだ。丁度、数日前に折り畳み傘が壊れてしまった所。まだ、買えていないというのに。なんとタイミングの悪い事か。
ぴったりと顔に張り付く髪の毛も、体に張り付く衣服も気持ちが悪い。濡れたことによって体温が下がった。とても寒い。
早くお風呂に入ろう。ゆっくり湯船に浸かって温まりたい。
脱衣所で濡れてしまった衣服を脱ぐ。そのまま、洗濯機に投げ入れた。水分を吸って重くなった衣服は、洗濯機の底についた時にべしゃり、と音がした。その音からも、かなり濡れていたことが分かる。
そのまま、洗剤を入れて洗濯機のふたを閉める。どうせ明日、洗濯するつもりだったのだ。今してしまってもいいだろう。
パネルで操作をして、洗濯機を動かす。ごうんごうん、と音が鳴り動き始める。
風呂場に入って、頭と体を洗っているうちに浴槽に湯を貯める。洗い切った頃には丁度いい位置まで湯がたまっていた。
つま先からゆっくり湯に浸かる。
冷えた身体が一気に温まった。つま先や指先なんて氷の様に冷えていたのだ。湯に入った瞬間に温かいというよりも熱いと感じる。
じんわりと体の芯からぽかぽかとしてきた。気持ちがいい。
「あ"ー染み渡るー。」と、おおよそ女子と思えない声が出た。仕方ないだろう。本当に気持ちがいいのだから。今なら歌える気がする。
少し長風呂をしてしまったかもしれない。しかし、身体はほかほかと温まった。これで風邪は引かないだろう。
火照った身体を冷ますためにバスタオルを巻いて風呂場を出た。自宅とはいえ裸族になるつもりはない。
そのまま、冷蔵庫から冷たい緑茶を氷を入れたグラスに注ぐ。注ぎ入れる度にカラリ、と綺麗な音色が聞こえた。
緑茶を注がれたグラスを握る。そして、それを一気に飲み干した。まるでビールを飲んだ後の様な声が出る。
こんこん。鏡がノックされた音が聞こえる。れいさんが呼んでいるのか。今日の約束していた時間よりも少し早い。
鏡の前に行き、布を取る。
「お疲れ様ー。」
「あぁ、君もお疲れ…って、何て格好をしているんだ!」
ぎょっとした顔をしているれいさん。何をそんなに驚いているのか。
「え?」
「っだから!何で服を着ていないんだ!」
そういえばバスタオル一枚だった。うっかり。しかし、重要なところは隠れているのだから問題ないだろう。マッパではないのだし。
「え?お風呂入ったら熱くなっちゃって…。」
「だからって、男の前にそんな恰好で出てくるな!」
男。確かにれいさんは男だ。でもれいさんだぞ。こんな女に何かを思うわけでもない。それに、前に妹の様だと言っていた。そんなれいさんが不純な思いを持つわけがない。確信。
第一、れいさんが本当に目の前に居るわけでもない。実際に居たら私だって多分こんな格好で出てこない。もしも、れいさんが私に不純な思いを抱いたとしても鏡越しだ。どうせ手は出せない。残念だったな。
「でもれいさんだしなー…。」
「…俺だって男だぞ。」
「まぁ…女の子には見えないし。確かに可愛い顔してるけど。」
「おい…。」
可愛い顔だと言えばれいさんは青筋を浮かべた様だ。起こったか。地を這うような声を出す。ぶっちゃけ怖い。
「…あのなぁ…こうやって鏡越しで俺が手を出せないからいいものを…もし、目の前に居たら手を出さない保証なんてないんだぞ。」
「あれ?もしかしてそういう目で見てるの?」
「茶化すんじゃない。」
「ごめんなさい。」
「幾ら俺だからといって油断をしすぎるな!警戒心を持て!」
腰に当てて大変ご立腹のれいさん。長く長く注意という名の説教をされている。
私も段々と叱られた子供の様に縮こまった。自然とその場に正座をする。私の口からは「はい…すみません…。」しかでてこない。
れいさんはずっと「襲われてからじゃ遅いんだぞ。」「そうやって油断してると足元をすくわれるぞ。」「そういう目で見られるという事はだな…。」と、マシンガントークだ。
いやもう本当に勘弁してください。
心配してくれているのは分かる。分かるが、そろそろ寒い。完全に湯冷めをしてしまった。風邪を引いたらどうしてくれようか。
責任を取って看病しろとも言えない。
小さくへぷちっとくしゃみが出た。ずびずびと鼻をすする。
それを見たれいさんは勘弁してくれたようだ。
「…まずは先に服を着てこい。」
「はーい。」
慣れない正座をした事で、足が痺れた。立ち上がると、足にびりびりと不快感がする。そのせいでよろめいた。
「いっ!」
「大丈夫か?!」
咄嗟に家具にしがみついた。そのおかげて倒れはしなかった。セーフ。
ほっと息を吐く。
「大丈夫!」
れいさんに大丈夫だという事を示すために親指を立てた。その瞬間、無残にも巻いていたバスタオルが緩んでしまった。
ばさり。そのままバスタオルが落ちる。
「「え。」」
れいさんの目の前に、私の裸体が晒される。
お互いに何が起こったのか分からなった。数秒間、私もれいさんも固まってしまう。今の状況を把握し始めると段々と顔に熱が集中するのが分かる。
「き…。」
私の叫びが先か、れいさんが顔を覆ったのが先か。
「きゃああああああああああああああああああああああ!」
「す、すまない!何も見ていない!」
その日、部屋に私の絶叫が響いた。その声に驚いた管理人さんが、部屋に突撃ししてきたのだ。まさか、不審者でも出たのかと思ったらしい。しかし、居るのは不審者ではなく、れいさん。
管理人さんには大きな虫が出てきて驚いた、と誤魔化した。正直に零さんの事を話したとしても信じないだろうし。信じたとしてもれいさんを、不審者として通報するだろう。
どうせ、通報したところで逮捕は出来ない。しかし探偵であるれいさんに異世界を跨いだ職質させるわけにはいかないのだ。
全身全霊をかけて誤魔化した。
「いや…その…すまなかった…。」
「あ、いえ…あ、っと…その…お見苦しいものをお見せして…。」
その日、れいさんとちょっと気まずくなった。
***
2月14日。世間が浮かれる日。バレンタインデー。あるいは、聖バレンタインデー。つまりは恋人の日だ。
そんなもの私には関係ないけど。だって、恋人はいない。独り身だ。別に、寂しいとかはない。そう、寂しくはない。だが、雰囲気がダメだ。
あの、恋人同士の甘い雰囲気。見つめあう二人。まるで二人だけの世界。事実、当人達からしたら、本当にそうなのだろうけど。しかし、そんなもの家でやれ。
今日、何人見ただろうか。荒んだ心のまま、好きなパティスリーのチョコを買った。ここ数年はずっと買っている。美味しい。
その紙袋を手に提げて家に帰る。ちなみに、今日はデパートのお惣菜。少しリッチにしてみた。偶にはいいだろう。許してほしい。
家について、買ってきた総菜を並べた。お皿に出して盛り付ける。なんてことはしない。それすらも面倒くさい。女子力がないのは知っている。
何時もの様にテーブルに並べた。少し違うのは、食後のデザートがコンビニついーつではなくてデパートのチョコだということ。
さて、準備ができた。
鏡をノックしようと身を乗り出す。ノックをするために、布に手をかけた。丁度、そのタイミングでノック音が聞こえた。
聞こえて1秒で布をはがす。鏡の向こうで見えたれいさんの顔は少し驚いていた。
「うわ、びっくりした。」
それはそうだろう。いつもなら、ノックして数十秒くらいは経った頃に返事を返す。今日は、早かったから仕方ない。
「ごめんごめん。」
「いや、大丈夫だ。ノックしてから早かったな。」
「まぁね!丁度こっちも準備できたから呼ぼうと思ってたところだったから。」
「なんだ、そうだったのか。タイミングが良かったな。」
「ねっ!良すぎてびっくりした。」
「それは俺もだ。」
ふと、れいさんが私のテーブルの上を見た。何時ものコンビニ弁当チェックかな。最近では、私にコンビニ弁当をやめさせることを諦めた様だ。それが賢明だと思う。だって、絶対にやめないし。料理はお察しだし。カレーですら焦がしたし。
その代り、コンビニ弁当の中身に関してはチェックが入るようになったが。同じものを2日連続しただけで言われる。まぁ、体を心配してくれているわけだし。嫌ではない。口うるさいお母さんか、とは思うけど。
「今日は、コンビニ弁当じゃないのか?」
「あ、うんそう!デパートのお惣菜。」
「デパートの?君が…珍しいな。」
「ちょっと用事があったからね。」
れいさんは用事か、と考え込んだ。そして、数秒ほど考え込んだ。直ぐに閃いたようで手を叩いた。なるほど、と。
「バレンタインのチョコ、か?」
正解。大正解。頭の中で、正解は?越●製菓!ピンポン!のくだりが思い浮かんだ。
「え、すごい。よくわかったね!」
「…それは…ほら、俺の仕事は探偵だからな。」
「あ、そっか…そうだったね…。」
なるほど、そうか。そうだった。れいさんは探偵だった。こういう事、推理?するのは得意そうだ。まあ、勝手なイメージだけど。
「なんだ、会社に配る様か?大変だな…。」
「え?違うよ。」
「…え?」
「買ってきたのはこれ…配る様じゃなくて…個人的に、だね。」
ストレートに自分で食べる様だというのは何だか居た堪れない。なんだか、むなしいじゃないか。なんとなくだけど。
「ま、さか…君…。」
今だかつてないほど驚いている、そして、言葉が尻すぼみになっていった。最後の方は何と言ったのだろう。聞き取れなかった。
「?」
「いや、何でもない…。」
そして何故、少し落ち込んでいるのだろう。
「そう?ていうかさ、れいさんはどうなの?」
「え?何が…だ?」
「チョコ!貰ったんじゃないの?れいさん凄いかっこいいしモテるだろうなーって思ってさ。」
それで、どうなの?と畳みかければ少し顔を赤くした。もしかして、好きな人にでも貰ったか。れいさんが、好きに人に、チョコを。そう思い浮かんだ瞬間、胸が痛んだ。ズキリ、と何とも言えない痛みだ。なんだろう。この痛みは。
これも勝手なイメージだけど。この人は、イケメンだしモテそうだ。仕事もできる雰囲気がある。そうなったら、周りが放っておかないだろう。きっと、沢山もらったのではないか。
また、ズリキ。胸が痛くなった。
「俺か?あー…そうだな…少し、貰ったな。」
ほら。やはり、そうだ。れいさんが貰えない訳がない。むしろ、れいさんが貰えないなら、大半の男性は貰えないのではないだろうか。
「やっぱりね!れいさんが貰えない訳ないもん!」
「そ、そうか?」
「そうだよ!私だったら渡したいもん。」
何時もお世話になっているれいさんに。直接的に干渉はできない。それでも、私の寂しさは無くなった。一人暮らしというのも中々に寂しいものだ。
半同居人であり、兄の様なれいさんへ。直接、会えるなら渡せたのに。
もし、渡せたなら。私が毎年お世話になっているパティスリーのチョコがいい。何年も買い続けるくらいには私は好きだ。そして、美味しい。口に合うかは分からないが。それでも、喜んでくれたら嬉しい。
受け取ってくれるか。きっと、この人なら受け取ってはくれると思う。何せ、妹の様に思われているのだから。そうだ。妹からなら受け取ってくれるだろう。
妹。そう思った瞬間にまた、胸が痛んだ。
本当に何だ、この痛みは。
「え、あ、そう、か…俺に、渡したい、のか…。」
それはともあれ。何故この人は、少し嬉しそうなのだろう。やはり、妹からだから、なのか。
「勿論!だって、れいさんは半同居人。そして、私のお兄ちゃんみたいな人!渡したいよね!」
「お兄ちゃん…そうか、そうだよな。そうだった…あぁ、確かに妹からなら嬉しいな。」
今度は少し、悲しそうだ。どうした。今日のれいさんはどうした。情緒不安定過ぎる。
「あ、でもれいさんって好きな人いるの?その人から貰えた?」
「すっ!?」
「あれ、いないの?私てっきり、れいさんには恋人いるものだと思ってたけど。」
その反応はいないのか。まさか。この人ならよりみどりだろうに。
「い、や…いない、ことも…ない…。」
「え?!やっぱいるんじゃん!どんな人?!」
テーブルから乗り出した。
やはり、居るではないか。そんな反応だと勘違いする。しかし、この人の恋人っていうのはどんな女性なのだろうか。やはり、綺麗な人なのか。家庭的な人を選ぶイメージもある。
どちらも、私とは真反対だけど。
「人、というか…まぁ、そうだな。俺の恋人は…。」
ふわりと笑うれいさん。その顔は反則だ。優しい表情は愛おしい、と全てが言っている。そんな表情に出来る人ってどんな女性なんだろう。
あぁ、まただ。また、胸が痛い。少し、泣きそうになった。
聞きたいのに、聞きたくない。なんという矛盾。緊張する私にれいさんは言った。
「…この国だ。」
「…へぇ、古ノ国さんって言うんだ。」
変わった名前の人だ。でも、きっと素敵な人なんだろう。
「どんな人なの?えっと…古ノ国さん、って!素敵な人なんだろうね…。」
「…うん?」
「やっぱり家庭的な女性?個人的にはれいさんは思いっきり美人さんと付き合ってそうなイメージあったんだけど!」
「まてまてまて。」
「え?違う?まさか、女性じゃなくて…男性…?いや、私…そういうの偏見ない、から…。」
驚いた。まさか、男性だったとは。そっちの筋の人は歓喜するだろう。
言われてみれば、確かに。好かれそうな顔はしている。男性にしては可愛らしい顔立ち。ベビーフェイスというのだろうか。イケメンはイケメンだが。
「違う!」
1人頷いていると、れいさんはテーブルを叩いた。それもかなり力強く。
「え、違うの?」
「違う!むしろどうしてそうなった!」
「いやだって…微妙な反応してたから…。」
「あのな、俺が言ったのは…この国。日本だよ。」
斜め上すぎではないか。このくに、はこの国。つまり、日本。ジャパン。古ノ国さん、ではない。成る程。それはそれで心配になった。よっぽど恋人は男性ですって言われた方が腑に落ちる。
「にほ…ん…。」
「あぁ、そうだ…まさか、本気にするとはな…。」
「あの流れで言われたら本気にするでしょ。」
何故、私が呆れられているのだ。驚いた。
「あれだ、特に今は恋人はいない。」
「あ、何だいないん…え、ほんとに?」
「本当だ。」
そうか。居ないのか。そうか。安心した。
…安心?何故、安心する必要があるのだろう。本当に私は今日、どうしたのだというのだ。
「えーいないのか…じゃあ好きな人は?」
「今日はやけに食い気味に来るな…。」
「だって気になるし。」
「そうか…?あー…まぁ、その…好きなやつは、いる。」
居るんだ。やはり、好きな人はいるのだ。そうか。
何故こんなにショックを受けているのだろう。私は。意味がわからない。
「い、るんだ…その人に、チョコもらえた?」
「あーいや…貰えてはいない。」
意外だ。この人なら、アプローチかければ落とせると思うのに。もしかして、人妻とか?それはダメだ。不倫は良くない。むしろ、不倫を調べる立場にあるのに。それはいただけない。
まだ、人妻と決まったわけではないけど。
「…その人は、近くて遠い所にいるんだ…だから、欲しいって言っても貰えない。」
これでいいか、と少し照れくさそうに言うれいさん。遠く。遠距離恋愛か。切ない。
「そっか…でも、言うだけ言ってみたら?もしかしたら貰えるかもしれないよ?」
「そうか?いや、でもいい。いいんだ。俺は、話せるだけでそれでいい。」
健気。その一言に尽きる。そして、きゅんときた。可愛い。
もう30手前の男性に言うことでも思う事でもない。分かっている。しかし、でも、これは。
「ほら、もういいだろ?この話はお終いだ。」
そう言ったれいさんは、本当にもう話してくれなさそうな雰囲気。でも私は、それが聞けただけでも大収穫だ。
痛みと嬉しさを噛み締めている私には聞こえなかった。ぽそりと呟いたれいさんの言葉を。
「伝わらない、か…脈なしなのか…?」
「え?なんて?」
「いや、何でもない。すっかり夕飯が冷めてしまったな。ほら、そろそろ食べるぞ。」
「あ、そうだね。」
「じゃあ、ほら…。」
『頂きます!』
***
午後6時。定時。今日は残業は無し。漸く帰れる。
れいさんとの約束の時間は、珍しく早いのだ。定時で帰れて私が、間に合うか間に合わないか。ギリギリだった。しかし、幸運な事に残業は無かった。
心の中でガッツポーズをしながら帰る準備を進める。忘れ物はない。仕舞うものは仕舞った。何も、残すものはない。大丈夫だ。
仕事が終わって、雑談をしている同僚。世間話程度みたいだが。その同僚達を横目に、お先に失礼、と席を立った。
「なんだ、ここ最近は帰る早いな。」
私に気が付いた同僚が声をかけてくる。気さくでいい人だと思う。実際にこの人は、中々に周りから好かれている様だ。私も別に嫌いではない。そう、嫌いではない。ただ、今は声をかけてほしくなかっただけだ。
「えぇ…まぁ…。」
「何だ、彼氏でもできたのか?」
あっけらかんと言う同僚。悪気はないのであろう。分かる。ただ純粋にそう思っただけなのも分かる。
だがしかし、残念だったな。私には、彼氏はいない。いるのは、半同居人だけである。
半分同居人だとしてもその人は恋人ではない。しかし、親友というのにも違和感がある。家族。それが一番しっくりくる。そうだな。家族だ。
「彼氏…ではないですね。」
「違うのか?」
「えぇ、違います。彼氏…ではないですよ。」
じゃあ、なんだ。そう顔に書いてある。
「えぇっと…家族、です。」
同僚は更に分からない、という表情をしていた。分からなければそれでいい。自分でさえあの人ととの関係は分からないのだ。半分同居人、なんて言ってもお互いに知らないことの方が多いのだから。
時計を見ればれいさんとの約束の時間までもうわずか。まずい。焦った私は、全力で走った。遅刻しそうなときでさえ走らない私が。れいさんとの約束に間に合わないから走る。れいさんとの約束だから。
待たせるのも悪いと思う。でもそれよりも、私は早くれいさんの顔を見たい。話をしたい。そして、癒されたい。
だから、がんばれ。頑張ってくれ。私の足。
最寄り駅について改札を出た。その瞬間、走った。全速力で走った。脱げそうなパンプスが腹立たしい。
今日は、コンビニに寄るのは諦めた。夕飯は抜き。でも多分、家に何かあるだろう。例えば、お菓子とか。夕飯にはならないが、腹の足しにはなる。
明日の朝に何か買って食べよう。そうしよう。だって、今は時間がない。1分1秒がもったいない。
走り初めて5分。漸く家に着いた。ギリギリ間に合った。中々に頑張ってと思う。褒めてほしいものだな。
運動不足がたたって息切れが激しい。息が整わない。はっきり言おう。辛い。そのまま、息切れのままれいさんを呼んだ。
「れ、いさ…げほ…ただい…ま…おえ…っ。」
「おかえり…って、どうした?!そんなに息切れして…もしかして走って帰ってきたのか?」
「げっほ…う…ん…ぜぇ…ぜぇ…げほっ。」
駄目だ。息が整う気配がない。これが虫の息ってか。息だけに。うるさいわ。
「…大丈夫か?」
「だい、じょ…ぶ…げほっ。」
生ぬるい視線を感じる。でも、その中に優しさが見えた。心配はしてくれているんだろう。
段々落ち着いてきた。息も整ってきた。一度、大きく深呼吸する。よし。
「落ち着いたようだな。」
「うん!もう大丈夫!ありがとう。」
「ならよかった。」
最近ずっと運動してなかったからな、と笑う。そうすれば、れいさんがため息をついた。なんだ。言いたいことは何だ。何を言われても、私は傷つかない。
「…なんですか。」
「体力づくりをしたらいいんじゃないか。」
身体を鍛えないからだ。筋トレはいいぞ。と勧められる。聞けばれいさんは筋トレを常にしているようだ。すごい。
思えば前にれいさんの裸体を見た時に、綺麗な筋肉だった。不慮の事故で観てしまっただけ。別に、のぞき見をしたわけじゃない。断じて違う。
そして、私は遠回しに断った。
「いやぁ…筋トレは…時間が…。」
驚く程、残念な顔をされてたが。無理なものは無理だ。すまない。しかし、この人。筋トレをする時間があるというのか。仕事は忙しいだろうに。同じ人間なのか。それとも、この人に流れる時間は違うのか。精神と時の部屋を持っているのか。1日48時間だと思う。
どれにしろ、凄いと思う。
「時間は作るものだぞ。」
社会人の基本。それは分かる。しかし、とは言えな。
「私は、寝る時間が欲しいです。」
「まぁ、睡眠は大切だからな。」
うんうんとれいさんは頷いた。その後は、特に何も言われない。おきらめてくれたのだろう。私に言っても、無駄だと思ったのか。
それがいい。それでいい。私は、やりたくないと思ったらやりたくない。だから、勧められてもやらない。
「…まぁ、睡眠を削ってまでやる事ではないしな。」
「そうそう!」
嬉々として頷けば、れいさんにジト目で見られた。何も見てない。知らない。気が付かない。そういう事にしておいてほしい。
誤魔化す様に口笛を吹く。れいさんは重い重い溜息を吐いた。
「そういえばさ。」
話題を切り替えるように話した。
「なんだ?」
「さっき、同僚に言われて気になったんだけどね。」
「ん?あぁ。」
「私とれいさん関係って何?」
半同居人。勝手に家族みたいなものだと思っている。でも、れいさんはどう思っているのだろうか。私だけ、勝手に家族の様に思っているだけかもしれない。そうだったらどうしよう。とても悲しい。
「俺と、君の…関係…か…。」
顎に手を当てて考え込む。そんな姿も映える。こういう時、イケメンって何しても様になるのだなと実感する。
ふむ、と一度頷いた。
「そうだな…家族…みたいなもの、か…?」
家族。
れいさんもそう思ってくれていたのか。それだけで私は嬉しい。
「家族、というものはよくわからないが…もし、家族というものがいたらこういう感じなのかな、と…そう思う。」
少し照れたように笑うれいさん。家族というものが分からない。どういう事なんだろうか。れいさんにだって家族はいるのではないのか。両親。たとえ離れていたとしても、居ないわけがない。
でも私には、それを聞く勇気は無かった。もしも、それが地雷だったらどうしよう。聞きたくない事の1つや2つあるものだし。私はそれに触れることをやめた。
「そう、なんだ…。」
君は?どう思う。そう聞き返された。そんなもの決まっている。
「私も…れいさんの事…家族の様に思ってるよ…知り合って間もないし…出会い方もこの状況も非現実的なことだけど…でも、毎日顔合わせて…お帰り、ただいま…それを言い合えるなら、それはもう家族だと思う。」
そう返せば、少し嬉しそうに顔を緩ませた。私の顔もきっと緩んでいるだろう。ゆるゆると口角が上がっているのが分かる。
嬉しい。ただその一言に尽きる。
「そうか…俺もな…毎日、君とこうやって何気ない話を交わして…お帰り、ただいまを言う…そうだな…確かに家族だ。」
今度こそ嬉しそうに笑った。この表情は好きかもしれない。優しくて慈愛に満ちている。
私も嬉しくて笑った。
食生活に関して口うるさいのは優しさ。心配してくれているから。私の身体を第一に思っていてくれるからこその言葉。嬉しくないわけがない。
だからと言って、食生活を改める事はしないが。
「俺は、君の事は結構好きだしな。」
急な爆弾発言はやめて頂きたい。心臓に悪い。
「え、な…え?!」
家族としてなのは分かる。親愛の意味で言っているのも分かる。理解はしているが心臓に悪すぎた。
ストレートな好意に弱い。それに、そんな優しい顔で言われたら余計に。親愛だと知っていても勘違いしそうになるじゃないか。
「私…だって…れいさんのことは結構好きだよ。」
「そうか…ありがとう。」
今日はなんなのだ。恥ずかしい。話題を振ったのはじぶんだが。それでも、だ。
こんな、告白大会。本当の家族にですらこんなにストレートに言葉にしたことはない。それにされたこともない。慣れていない。やめてほしい。
何度も言うが、話題を振ったのは私なのだが。
家族の様だと言われて心から嬉しいと思った。私もそう思っていた。でも、何で家族の様に好きだと思う度に、言葉にする度に、違和感を覚えるのだそう。そして何故、れいさんにそう言われたら胸が締め付けられるのだろう。
もしかして、走ることに慣れてないからなのだろうか。きっと、この胸の締め付けはさっき走ったからだ。多分、きっと、そうなのだろう。そうでなければ一体何なのだろうか。
***
昼休み。珍しく、同僚と昼食を食べに来ている。
このお店は、この同僚のおすすめらしい。流石だ。安くておいしい。
数あるメニューの中で、選んだのはチキン南蛮定食。この間、れいさんが夕飯に唐揚げを食べていたのを思い出して選んだ。別物ではあるがどちらも揚げ物。鶏肉を油で揚げたもの。だから、ほぼ同じ。
ちなみに、選ぶ時に同僚にそう言った。勿論、この間知り合いが食べていたから、と濁してはいる。正直に「鏡の中の同居人」なんて言ってみろ。真っ先に心配される。主に頭と精神状況を。ちなみに、ぼかして同じものと言えば、同僚からは「大雑把すぎて何言っているのか分からない」と言われた。解せない。
待って数分。目の前に運ばれてきたチキン南蛮定食。黄金色にかりっと揚げられた鶏肉。その上に、あまじょっぱい専用のタレ。そして、さらにその上にはタルタルソース。
チキン南蛮の下にはしゃっきりと瑞々しいキャベツの千切りがふんわりと盛られている。そのキャベツには和風のドレッシング。
ご飯は、少し固め。その横には、大根と菜の花のお新香。そして、わかめと豆腐の味噌汁。
一口食べて分かる。美味しい。ご飯が進む。
同僚と話を交えつつ箸は休めない。だって、こんなおいしいご飯は久しぶりだ。
最近はずっと、コンビニ弁当。れいさんには言っていないが実は、昼食もコンビニ弁当だ。別に、コンビニ弁当の回し者でもない。さらに言うと、特別に好きという訳でもない。楽。ただそれだけだ。
「ねぇねぇ。そういえばさ。」
思い出した様に同僚が話し始める。
「深夜零時の合わせ鏡」
深夜零時の合わせ鏡。はて、何だろうか。聞いたことは無い。しかし、"鏡"という単語に身体が少し反応してしまった。
「…いや、知らないけど…なにそれ?」
「最近、ネットで話題になってるんだけど…深夜零時に合わせ鏡をすると不思議なことが起こるの。」
不思議なこと。合わせ鏡ではないが、同じ鏡という括りでは私も不思議なことを体験している。現在進行形で。
「それで?」
「その、不思議なことっていうのはね…結構、色んな証言があるみたいなんだよね。」
そう言って同僚は端末を手に取った。そして、どうやらその"深夜零時の合わせ鏡"について調べているみたいだ。何度か画面を操作した後、声を上げた。
「あった!えーっとね…まず、合わせ鏡の中に悪魔が見える。」
悪魔。に本なのに悪魔。そこは妖怪とかではないのか。せめて幽霊。
「後はそうだな…合わせ鏡をした後に鏡に映る自分に違和感を覚えるようになる。」
つらつらと話す同僚。もっとオカルト的な話になるかと思っていた。しかし、なんとも創作話みたいな内容ばかり。鏡で不思議なことが起こるというくらいなら、うちの鏡みたいに異世界とつながるくらいはしてほしいものだ。
「あとは…」
同僚が次に続けた言葉に私の箸は止まった。
「鏡の中に知らない人が映る。」
「…え?」
「それで、その中の人は消えないんだって!それから…。」
同僚の話だと、まとめるとこうだ。
午前零時の合わせ鏡をした時に起こる現象の1つ。知らない人間が映る。その人物は消えない。そして、何故か会話もできる。その日以降に今までなかった番号が鏡の裏に書かれている。最初は"-90"。そこから1日経つごとに数字が増えていく。カウントが"0"になった時に選ばなくてはならない。
だと言うのだ。
つまり、そのカウントは日数のカウント。思い返せば確かにそうかもしれない。前に見た時に書いてあったのは"-40"。そして、鏡にれいさんが映ったのは1ヵ月と少し前。日数的には50日間。なるほど。90日から50日を引けば確かに50日だ。
驚くほど、今の私たちの状況に似ている。しかし、合わせ鏡なんてした覚えはない。なんだ。何なんだ。
もし今、私達の間に起こっているのがこの現象なら。午前零時に合わせ鏡をしたことになる。
「あ、しかもね…この映っている相手っていうのは、別の空間に存在する人なんだって!」
そこまで一緒なのか。
「そう…なんだ…それで?カウントがもし、"0"になったらどうなるの?何を、選ばないといけないの?」
「えー?えっと…。」
同僚の言葉に衝撃を受けた。
"自分が消えるか、相手が消えるか"
なんだそれは。消えるというのはどういう事なんだ。消える?存在している人間が?そんなことある訳ない。ある訳がない。ないはずなのに。どうしてか信憑性がある。
だって、こんなにも似ている状況なのだから。
「選ばなかったらどうなるの?」
「どっちも消えるんだって。」
「え?」
「きれいさっぱりに消えるんだって。世間では行方不明になるらしいよ…書いてある内容だとね…どうも嘘くさいんだけど…SNSにリアルタイムでね?その消えちゃった人の友人が投稿してたみいなんだ。」
だから、嘘かもしれないし本当かもしれない。そう同僚は笑っていた。
私は笑えなかった。だって、全く同じ状況なのだから。これは、同僚の言っていた人にもきっと同じことが起こっていた。
そうか、消えるのか。私か、れいさん。その時になって選ぶのはどっちだろう。れいさんには消えてほしくはない。かといって、私が消えたいかと言われればそうでもない。どうしよう。
私一人の胸に留めておくには荷が重すぎた。
家に帰ってれいさんに話した。同僚に言われたこと、SNSに書いてあったこと。そのすべてを。
あの後、こっそりと同僚にその人のSNSを教えてもらった。そして、事の始まりから最後までを全て読んだ。それも含めて、れいさんに伝えたのだ。
「そうか…。」
れいさんは渋い顔をしていた。それはそうだろう。私だって混乱している。どうしようどうしよう。それだけがぐるぐると頭をめぐる。
「君か、俺か…どちらかを選ばないといけない…のか。」
「そうみたい…。」
「そうか…。」
消えた時の詳細は本人ではないから分からない。選ぶ、とはどうやるのだろう。鏡を壊すのか。でもそれは、最初にれいさんが割ろうとしてできなかった。どうすればいいのだろう。
分からないことだらけだ。もう少し、調べないといけない。
「これだけの情報が分かっただけでも大きな収穫だ。ありがとう。」
「そんな…私はただ…聞いただけで…それに、こんな…。」
こんなのってない。
「それでも、だ。君がその同僚から聞かないままずっと過ごしていたら俺と君もいずれば二人とも消えていたかもしれないんだ。結果的に言えば、君のおかげさ。」
「そう…かな…。」
「あぁ!それに…君も今は混乱しているだろう…俺だってこれでも混乱しているんだ。」
全くそうは見えない。とても落ち着いているように見える。
「混乱しているようには見えないんだけど…。」
「そうか?まぁ、仕事柄…あまりそういうのは表に出せないからな。」
そういうものなのか。探偵業というものは大変だ。
例えば、調べていた内容があまりにもあまりな内容だった、とか。それを、如何に冷静な顔で依頼主に伝えなければならない、だとか。そういう場面があるからなのかもしれない。よくわからないが。
「そうなんだ…。」
「あぁ…まぁ、今日は君も混乱しているだろうし…明日も仕事だろ?今日は早めに休むといい。一度、寝ればすっきりした頭で冷静に整理が出来るだろう?」
それは、確かに。一理ある。それならもう今日は寝てしまおう。こんな状態でれいさんと話が出来るわけがない。何時もの様に軽口を叩けない。
「そう…だね…寝る…よ。」
「あぁ。」
「今日は…おやすみさない…また、明日…ね。」
「…おやすみ。そうだな…また明日、な。」
混乱する頭のまま私はベッドに入った。結局、頭の中がぐるぐるして明け方まで寝付けなかった。