理性とか利潤とかそういうもの


 おいしいものを食べて、綺麗なものを見て、大きなお風呂に入って、ベッドに寝転がる。准くんがベッドの端に腰掛けて、わたしの手を握ったり放したりするのをどこか他人ごとのように理解する。ゆったりとした空気の中、わたしは落ち着いた状態で言葉を吐いた。

「准くん、別れよう」
「わかった。君がそれを望むなら」

 きてよかったな、と思った。いい思い出になって、そういう終わりになってよかった。

「君の安心した顔をみると、これでよかったんだと自分を納得させられる気がしてくる」
「准くん、前も同じこと言ってた」
「でも今回は、前の俺はきっと知らなかっただろうことを知ってるぞ」

 准くんが立ち上がって、正面からわたしの肩に手を伸ばす。反射的に突き返そうとするわたしの腕を無視して、准くんの両腕が背中にまわされた。
 心臓がうるさく騒ぐ。なんでこんなことで、こんな顔をこのひとに見せなくちゃいけないんだろうか。わたしの動揺に、これっぽっちの躊躇いも見せずに、准くんがわたしの背中を軽く叩く。

「心配ないよ」
「ごめん、はなして」
「君がつらそうな顔をしていても、俺は不思議と、嫌な気持ちにはならないみたいなんだ」

 自分でも気づいてなかったよ、といつも通りの准くんの声が自分の内側から響いてくる。なんのために、誰のために、准くんのことを嫌いになったのかわからなくなってくる。

「それは、もうわたしを好きじゃないから?」
「……そうだっていったら?」

 自分でも驚きというか、恥ずかしいと思うけれど、わたしは大変に傷ついたらしい。ひどく傷ついて、もう消えてしまいたいなとおもうと、呼吸もできなくなってしまった。

「うん、もういいんだ」
「なにがいいの?」
「しゃべらなくていいから、深呼吸して」

 肺にいっぱい空気をいれて、ゆっくり吐き出す。大きく吸って、大きく吐く。長いテンポで繰り返す。深呼吸は心を落ち着かせる効果があるから。やってみて。ほら今、やればわかる、もっとゆっくり、もっと長く、まだ吸って、まだ吸う、それから吐くんだ、もっと長く、長く、長く、長く、ずっと同じはやさで。
 深呼吸が苦手だと、むかし准くんに打ち明けたとき、彼は不思議そうな顔をしていた。わたしの説明はあんまり上手なものではなかったと思う。苦手なものは、自分が出来ない理屈を自分で理解できていないから苦手なのだし。准くんはわたしの不理解を理解してくれていたように見えていた。

「息吸って、大丈夫だから」

 准くんの声に脳が叩かれる。できない、無理だよ、本当に。わたしの言い訳に、准くんは同じ指導を返す。
 わたしを見下ろす男の真剣な瞳に、裏切られたと思った。

「准くんは無理しなくてもいいって」
「そう言ったかもしれないな」
「できなくてもいいって」
「ああ。でも、君はやってみるべきだ」

 深呼吸と呼ぶには不揃いな呼吸を繰り返しながら、途中で何度か涙が落ちていったのを准くんと一緒に見送って、そのまま疲れてふたりで眠る。
 そうしてまた、わたしたちの前に、懲りることもなく朝は来たようだった。

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