私にだって神さまはいた
少し荒れた道路の上を転がるスーツケースは時折抗議の声をあげつつも、ちゃんとわたしの後ろをついてきてくれていた。
用水路か川なのか区別がつかない、細々と流れる水に沿って、地図も見ずに散策する。
「なんかずっと朝だねえ」
「バスも予定より早めに着いたしな」
「朝ってこんなに長かったっけ」
目に届く光は眩しいけれど熱くはなくて、誰かの生活の気配はわずかな鳥の声にかき消され、思考することを辛いと感じない。
横を見ると、准くんが目を細め、わたしを見下ろしていた。今なら、今だったらたぶん、准くんのことが好きでいられると思った。
「このまま山まで行こうか」
「スーツケースあるよ」
「君の分も俺は持てるぞ」
「チェックインの時間は?」
「問題ない」
大丈夫だと准くんが言うのなら、そうなんだろうと思う。理由も手段も、目的も、准くんがとっくの昔に用意してくれている。
山に登って何があるとか、そういうことは、わたしは考えなくていいように出来ている。若い恋人たちには、今この瞬間より先の未来が見えないように出来ている。
「わたし、こういう山登るの初めてだよ」
「感想は?」
「とても坂道」
君のことも俺が担いであげようか、と准くんは愉快そうにわらった。冗談っぽい口ぶりだけど、わたしが頼めば本当にやってくれるんだろうなと思うと、馬鹿馬鹿しさに笑いがこぼれる。
スーツケースとボストンバッグを片腕で持ち上げ、もう一方の手でわたしの体を引いて歩く准くんは、息も切らさず、活力溢れる声で先導する。この先にある何かのため、わたしたちは何処かを目指していた。
准くんが振り向いて、理由もなく笑う。
「俺が言いたいのは、君が好きだってこと」
「つまり、ここが山のいちばん上?」
「ああ、地図上だとこのポイントだ」
気づかなかったなあ、とため息がこぼれた。いちばん上は特別だと勝手に思っていたけれど、百メートル前の山道と同じ景色がつづいている。
「俺が言うより先に気づいたじゃないか」
「准くんが脈略もなく好きって言ったから」
「関係ないだろうそれは流石に!」
「准くんはね、そういうやつなんですよ」
「知らない俺だな……」
道の終わり、旅の終わり、一日の終わり、恋の終わり、その瞬間の准くんはカッコいいと決まっているのだ。綺麗な景色を背負って、素敵な台詞を口にするはずだ。
格好いいなあ、准くんは。山の上はまだ朝がつづいているのか、わたしは今になってもこの人が好きみたいだった。
「そろそろ戻ろうよ、宿のひとも困っちゃうでしょ」
「もう少しだけ」
「准くん、どうしたの?」
お互いを見つめ合い、数度の瞬きの後、准くんは微笑みながら口を開く。
「君はさ、帰り道覚えてる?」
「いや、えっと、地図アプリあるよね?」
「そうか。じゃあ着いておいで」
准くんと手を繋いで、登っているのか降っているのかもわからない山道を歩く。どこに向かって歩いているのかの質問は、なんとなくできる雰囲気ではなかった。
勝手に口からこぼれた、わたしの甘ったれたセリフに、准くんは笑って頷いた。
「おんぶでいい?」
「……うん」
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