残った方をください


 いつから准くんのことを好きじゃなくなったのか、もう自分でも覚えていない。理由もわからない。わたしは目の前の男に、無意味な告白をする。反省もなく、理解もない言葉を音にする。
 何も覚えていないはずの嵐山准はわたしに、許すよ、と言った。

「明日からの話をしよう」
「……うん」

 わたしと准くんは、学生の自分たちにとってひどく長い時間を恋人として過ごしていた。そしてつい最近、誰に相談することもなく、その関係を終わらせていた。
 知らないはずの事実を、目の前の男は当然のように受け入れ、その場で打ち捨てた。

「俺と付き合ってほしい」
「わたしと?」

 貴方はもう覚えていないだろうけど、貴方はわたしのことを好きになって、ずっと一緒にいて、最後の最後にはわたしの全部を忘れたんだよ。わたしはそういう女だよ。

「なんだか話を聞いていると」
「うん」
「君はやっぱりすごい女の子なんだな」
「……あのさ」
「正直に言うと、ワクワクしてきた」

 こんなことってそうそうないだろ、と男は明るく笑う。
 そうだね、そうそうないだろうね。好きな女の子のために記憶喪失になってあげる男の子なんて、そうそういない。懲りずにもう一回好きになるのもいかれてる。

「次はわたし以外も忘れちゃうかもよ」
「そういう予定があるのか?」
「可能性のはなし」

 わたしのネガティブな言葉をひとつひとつ、笑顔で飲み込む男の、呑気にも見える軽やかな相槌がわたしの気持ちを逆立てる。

「明日からどうするつもりなの?」
「まずは君に相応しい男になるよ」

 これは明日じゃなくて今日からか、と意識の高すぎる揚げ足取りをする男に、わたしは自分が嵐山准と別れたかった理由を思い出しはじめていた。自分の惨めさを思い出しはじめていた。

「准くんの方がおかしいんだよ」
「というと?」
「ふつうは、彼女と別れたからって記憶喪失にはならない」

 貴方は特別な男の子なんだろう。恋人のためなら記憶を消してしまうくらいは、簡単に選択できるんだろう。
 でもわたしは、そういうことをされるとどうしていいかわかんないよハッキリいって。わたしはそれに釣り合うようなこと、ひとつもしてあげられないのに。

「君は別にどうもしなくていいだろう」
「どういう意味?」
「俺のため、君を好きな男のために、君がするべきことなんてひとつもないんだ。俺はそんなことは望んでない」

 どこか探るような目つきで、准くんはわたしの目の奥を覗き込む。
 わたしの身体の奥深く、隠されたなにかが潜んでいるかのように、慎重な手つきでわたしに触れるのはこの人だけだ。わたしを特別に扱うのも、わたしに特別を期待しているのも、いつだって准くんだけだ。

「好きな女の子は誰にとっても特別だよ」
「准くんの好きな女の子はもうやりたくない」
「もしかして、俺は重い男だって理由でフラれようとしてるのか?」

 わたしが肯定すると、准くんは改めてわたしの目を見つめ、楽しそうにわらう。

「明日からの話だけど」
「……なに」
「明日は毎日来るし、俺は明日も君が好きだ」
「ずっと好きなんてありえないんだよ」

 だって、准くん、わたしのこと忘れちゃったじゃん。覚えたままで好きでいるのは無理だったから忘れたんでしょ。

「これは俺の勝手な推測で、君の隠し事を俺はもう覚えていないけど」

 明日は毎日来る。そんなの知ってる。人間の人生は、いい子を続けるには長すぎる。この先ずっと一緒にいたら、わたしは必ず、いつかの未来で准くんからの期待を裏切るだろう。
 もっと悪ければ、准くんがわたしのために死んでしまうかもしれないよ。

「明日も君が俺を好きでいてくれるために、今の俺がいるんだろう?」

 ちがうよ、と否定する自分の声の弱々しさがいやだった。
 明日もずっとその先も、わたしは貴方のことが好きです。そんな口約束もできないふりをするから、このひとが割りを食う。


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