「生まれてきてよかった!」


 明るい顔は幸せを呼び寄せる。だから笑いなさい。機嫌よく、楽しく、笑顔で毎日を生きましょう。
 道徳の先生も、自己啓発セミナーの講師も、ビジネス書の筆者も、何百年前の哲学者も、同じことを言っている。
 それでもなんとなく信用できないのは、自分がそんなことで幸せになれるとは到底思えないからだ。

『俺と付き合ってほしい』
『わたしと?』

 嵐山准という男の子に告白されたとき、初めてわたしは、自分の未来にも幸せが存在する可能性を認められる気がした。ポジティブな習慣、受験勉強や自己投資、趣味の充実、そういうものに含まれる力なんて、これっぽっちも信用してはいなかったのに。
 世界のほかの何より誰より自分より、同い年の男の子ひとりが運んでくれる幸せの存在は信じられた。
 いま告白されたら、わたしは彼になんて答えるだろう。

「准くん、あのさ」
「ん、どうした?」
「どこからどこまで、覚えてないの?」

 准くんはしばらく思案する様子を見せる。口元に拳を置き、目でわたしの顔を見つめ、唐突に腰を上げる。椅子に座るわたしの正面に膝をつくと、わたしの足先に指で触れ、困ったように笑った。

「君のこと、俺はひとつもわからない」
「ほんとに?」
「俺がわからないって言ったときに、どうして君がそんな顔をするのか聞かないでいるってだけじゃ、君の不安は消せないのかな」

 わたしは今、ひどい顔をしているはずだ。准くんはそれでも笑顔で、わたしの名前を呼ぶ。
 俺は君が好きだ。俺は君のことが好きなんだ。だから許してほしい、今の俺のことを。君が好きになってくれた、前の俺はもういないから。

「准くんは何にも悪くないのに?」
「きっと、そのために俺がいる」

 君の恋人はいなくなってしまった。かなしいことは起こる。でも俺がいるから。失敗した俺の代わりに、君のために、君のことが好きな今の俺がいる。そう考えちゃだめかな。そう考えるべきじゃないのかな。
 ゆっくりと落ち着いた声で、准くんとそっくりな男の人が、いつかの准くんのようにやさしい笑顔で語る。
 際立って大きな声でもないのに、彼が語る言葉のひとつひとつは、わたしの心をその場に押し込めるだけの重さがあった。

「思い出したらどうするの?」
「俺は絶対に君の味方になる。約束するよ」
「でも准くんは」
「俺は君の側につく」

 笑顔でいると幸せになる。みんなに好かれて、みんなも笑って、それが当たり前になる。わたしは当たり前に、いつも明るく笑っていた男の子を好きになった。特別な運命もなく、熟考も直感なく、よく知りもせず。
 わたしは何もわかっちゃいなかったのだ。運命的な恋をする資格があるのは、それをするに相応しい人間、最期までやり遂げられる人間だけだということを。

「ねえ、なんでわたしのことを好きになったの?」
「君の目は綺麗だ」
「じゃあ目を閉じてる間は好きじゃない?」
「ねえ、俺にたくさん質問をしてくれるのは、俺が君の好きな人だから?」

 黙り込むわたしに、准くんは微笑むだけで何も言わない。目の前でわたしに手を伸ばす、いつかの准くんの幽霊が、いつかのセリフを繰り返す。

「そんなに緊張されると、俺の方までドキドキしちゃいそうだ」
「だって准くんが」
「俺のせいだとしたら、すごく嬉しいけど」

 どうして准くんは、わたしのことを好きになったんだろうか。
 今でもその理由はわからない。納得が出来ない。わたしは一目惚れなんてものを信じられるような人間じゃないから。そんな理由で、ひとが死んでしまうなんてことは思ってもみなかったから。

「全部忘れて、今の俺を好きになって」

 わたしは肯く。そうするべきだとおもった。それが筋だ。それが正しい。いつでもずっと、嵐山准は間違えない。
 准くんはわたしの全部を忘れてしまった。それがどうしてか、わからないはずがない。理由なんてひとつしかない。
 女が『名前をお捨てになって』と言ったとき、ロミオはそれに応えた。だからロミオが女のために死んだのなら当然に、女もロミオのために死ぬべきなのだ。

「でもわたし、准くんのこと、もうずっと前からすきじゃない」

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