呪術廻戦 | ナノ

腐朽呪縛



名前は遠くに蝉の声を聞きながら、思考を反芻させていた。主に、光量の乏しい薄ぼけた己の半生についてである。

名前は珍しく制服を着ていた。昨日、父親に咎められたからと言う訳ではないが、翌日目覚めた時には取り敢えず制服に袖を通し、家を出た。
結局、学校へは行かなかった。家に居たくなかったのだ。かと言って学校にも居場所は無かった。
だから、時間を消費する様にふらふらと街を歩き、昨日と同じ場所で再びくすねたタバコをふかしていた。
人気のない薄暗い所ばかりを歩くので補導される事もなかった。光量の乏しい場所では、あらゆる物の輪郭がぼやける。暗くて良く見えないのだから、見ようが見まいが同じ事である。見ようとする意思が有ればまた別だが、どうやら光の下を当たり前に歩ける人達はそう考えた事が無い様だ。

蝉の声が止んだ。
その瞬間に、言語化出来ない街の何かが急速に変化した。
雑踏の喧しさ、犬の遠吠え、乗用車が吐き出す軽いエキゾースト。
さあ、と温くて湿った風が吹き抜けて行った。埃を巻き上げるだけの雅致を感じない風はただ不快だった。
何かが起きた。
境界が滲んで曖昧になり、暗がりが明かりに染み出し侵食を始めた様な――。根拠の無い予感に焦燥を覚えて、名前は来た道を引き返す。

景観も糞もない名前の分からない植物が伸び放題の花壇の脇を通り抜けた先に安アパートはある。近付くにつれて、予感は現実になる。

木造平屋の古びた安アパートの一部屋――父親と継母と名前の住処は、数人の鮫のような男達に占領されていた。木目の白茶けたドアはひしゃげて開け放たれている。中から大声で喚く声と、恫喝する声が聞こえて来た。

「俺達の商品をくすねるとは良い度胸じゃねえか。どう落とし前つけてくれんだ」
「俺が、そんな事する筈無いじゃないですか!信じて下さいよ」
「ネタは上がってんだよ、オメェがブツを少しずつくすねて分量誤魔化してるってな」
「ねえ、あなた達何なの?私は関係ないでしょ、私出てくわ」
「関係大アリですよ。アンタ、奥さんでしょ?」

ややあって、血塗れの父親と、両手を後ろ手に縛られた継母が男達に引き摺られて家から出て来た。父親はぐったりと虚ろな目で抵抗を諦めている様子だったが継母は半狂乱で頻りに命乞いをしていた。

どれだけ助けを求めても誰も来やしない。名前はそう思った。何故ならば、どれだけ叫んでも名前を助けに来た人が今まで一人も居なかったからだ。それに、四部屋あるアパートの隣二部屋は空き家だったし、最近越して来たらしい四部屋目の住人にはまだお目にかかった事が無かった。辺りは雑木林に囲まれていて民家は離れている。騒いだ所で誰も来ない。

そうこうしている内に父親と継母は黒のワンボックスに投げ込まれてぴしゃりとスライドが閉められた。男達は運転席と助手席に乗り込み、主犯と思われる男が、手下に命令しているのが聞こえて来た。

「ガキも居るはずだ、探して連れて来い」

まずい事になったもんだと、名前は他人事の様に考えた。いつかはこんな事になるのでは無いかと予感はしていたが、こんな下らない事でこんなにあっさりと人生の幕を引く羽目になるとは。

ワンボックスが走り去った後、残された手下が花壇の方へ近付いて来る。もう間もなく、手下の視界に名前が入る頃合い――。

「おい、てめぇ」

男の声がした。恐らく手下の物ではない。手下はまだ名前を見付けて居ない。名前には聞き覚えのある声だった。

それは一瞬の間に起こった。
気配無く忍び寄ってきた影の様な男が、名前を探す手下を蹴り倒した。

ドス、ドサッ。

鈍い音がして、手下は訳も分からぬ内に地面に崩折れた。完全に気を失っている。

「人の昼寝の邪魔しやがって。うるせぇんだよ」

スウェット姿の男があくびを噛み殺しながら名前の前に立っていた。

「あなたは、昨日の」
「おう」
「何でここに?」

男が指差した先に視線を遣ると、四部屋目のドアが開け放たれていた。

「引っ越しの挨拶がまだだったか?今したから勘弁してくれ」

そう言って不敵に笑う男と、地面でぴくりとも動かない手下の男を交互に見てから名前は問う。

「助けてくれたの?」
「俺はタダ働きしない主義でね。タバコ1本分助けた。だからアンタの親は見殺した」
「そう」

名前は淡々と答えた。昨日は得体の知れない図々しい男という印象しかなかったが、いい加減に見えて思慮深く、非情な行いを即断出来る倫理観の欠如と、隠そうともしない修羅場の香り。そして何よりも確かなろくでなしの雰囲気。

「じゃあ、俺寝るから」

背を向けて帰ろうとする男を名前は引き止めた。理由は簡単だが、切実な物でもあった。男達の襲撃を受けて名前の住む部屋は破壊されていた。

「ねえ、助けてよ」

男は歩みを止めたものの、振り返らなかった。

「タバコ1本分って言ったろ」

背を向けたまま男は続ける。

「俺は親切にすらしてやっただろ。どこぞなりへと消えて好きに生きれば良い。せいぜい家の周りを徘徊してタバコ吸ってる位じゃ、家なんていう呪縛からは逃げらんねぇよ」

なる程。本物の根無し草のろくでなしが言うと説得力も増すものだと思ったが、名前は食い下がった。

「ここで見捨てたら、助けなかったのと同じ事でしょう。どうする?」

男は、どうもこうもねーよ。と言う台詞が喉元まで込み上げてきたが、同時に鼻から一筋の血を垂らして、物憂げな眼差しで紫煙を吐き出す少女の映像が鮮烈に脳裏に蘇って来て思わず悚然とした。そう自覚すると、男にとって少女は不思議な生き物に見えて来た。酷く切れ味の悪い剃刀みたいな目をする半端な年頃の娘に、奇妙な共感を抱き始めていた。

男――伏黒甚爾は片目を細めて広角を上げると顔だけ振り返り「居るだけなら居ても良いが、邪魔すんなよ」と言った。

こうして、少女は男の部屋に転がり込んだ。


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