懈怠告知
街の雑踏を遠くに聞きながら紫煙をくゆらせて居た時の事だ。
「おい、ガキ。俺にも一本くれ」
見ず知らずの男が名前の隣に腰を下ろして来た。黄昏時の路地裏は、表よりもさらに光量が乏しく、男は黒い影だった。
名前は箱の角を軽く叩き、浮き上がってきた煙草を相手の顔も見ずに差し出した。話しかけて来た男は遠慮なく一本引き抜くと、口に加えて徐に顔を近付けて来た。
「火、くれ」
図々しい奴、と内心思いながらも名前はライターを差し出す。フリントを擦り、火を付けてやる。
暫くの間お互い無言で煙草をふかしていた。名前は長くなった灰を指で落とす行為を数回繰り返し、短くなった煙草をコンクリートに押し付けて火を消した。
「ほら、拭けよ」
鼻血出てんぞ。と男から唐突に渡されたのは女物のハンカチ。
「汚したら怒るんじゃないの」
「怒る位なら最初から出さねぇよ」
「違くて。持ち主の人が」
「ん〜?誰のだっけな。とにかく、怒らねぇよ」
それでも受け取らずに居ると、頭の上にハンカチが軟着陸した。そこで初めて名前は男の方に顔を向けた。口元に傷のある男が紫煙の向こうで不敵に笑っていた。その男の態度が、表情が呼び水になったのか、名前は鼻の奥がつんと痛み、酷く儚い心持ちになった。
「ねえ、ひとつ聞いて良い?」
名前はハンカチで鼻血を拭いながら男に話し掛ける。既に乾いていた血は剥落し、まだ湿っていた血は香水臭いハンカチに黒い染みを残した。
「良いぜ。煙草の礼に答えてやる」
男は胡座をかいた膝の上で頬杖をついている。
「大人になっても人生はつらい?」
「ああ、つらい」
不敵な笑みを湛えたままで男は答えた。
男は、白くしなやかな指に不釣り合いなタールが強い煙草をくゆらす少女を見掛けて思わず息を呑んだ。好みの顔であったとかそんな陳腐な理由ではない。
憂鬱を瞳に湛えた少女が鼻から一筋の血を垂らし、気怠げに口から紫煙を吐き出すその所作が、黄昏時の路地に浮かび上がる青白い顔が、ぞっとする程美しかった。
「程々にな、吸い過ぎると死ぬぞ。煙草ごちそうさん」
命を終えた煙草の火を消して、男は立ち上がる。
「私も、そろそろ戻らないといけないかな」
再び黒い影になった男の背中を見送りながら名前も帰り支度を始める。
「あ、返すの忘れた」
立ち上がった拍子にハンカチが地面に落ちた。とは言え、鼻血まみれのハンカチを返すべきかは悩む所だ。洗っても汚れが落ちるか分からない。かと言って新しく買う持ち合わせも無かった。
見ず知らずの得体の知れない男を追い掛けてまで返す義理もないかと自分を納得させて名前は住処である安アパートへ向けて緩慢な動きで歩を進める。
「ただいま」
建付けの悪いドアを開けて、帰宅を告げる。
気配は有るが返事は無い。
何やら声がする。電話で誰かに謝っている様だった。
「とんでもないです。俺が?そんな大それた事しませんよ。はい、はい。勿論です。ええ、すみません。では…失礼します」
相手も居ないのにぺこぺこと頭を下げながら情けない声を上げているのが名前の父親であった。名前の父親は裏社会の下っ端の下っ端で、いつも端金で割に合わない危険な仕事を押し付けられていた。
そのみっともなさに溜息を付いて、薄汚れたテーブルの上に煙草を置いた。
「どこほっつき歩いてた」
父親に先程までの卑屈さと真逆の声音で問い詰められても、名前は顔色一つ変えない。むしろ、恥は無いのかと憐憫の情すら抱きつつ、テーブルの上に煙草をぞんざいに放り投げた。
「あなた、私がお使い頼んだのよ」
奥の部屋から出て来たのは名前の継母。
「それにしたって随分ゆっくりしてたわね」
いつもこうなのだ。継母は父親の前ではあくまで気遣うふりをする。その実、雑用を押し付ける時と八つ当たりに叩く時以外は名前に無関心だった。
これから仕事に行くのだろう継母は着飾り、化粧を施していた。全体的に薄ぼけた印象の部屋の中で継母の赤い口紅だけがやたら名前の目に毒々しく写った。
「アンタ、また煙草くすねたわね」
煙草の本数を確認して継母が厳しい口調で名前を咎めた。ここに父親が居なければ叩かれていただろう。先程の鼻血も、父親の居ぬ間に継母にやられた物だ。一本は外で心の傷を癒やす為にくゆらせ、もう一本は得体の知れぬ男にくれてしまった。だが、名前は父と継母にそんな事を話して聞かせるつもりは無かった。
「それより名前。お前、また学校サボったんだってな」
名前は返事の代わりに睨み返した。
「何だその態度は。オマエの学費にいくらかかってると思ってるんだ」
「私みたいなのが普通の奴らに混じって勉強してどうなる訳」
どうなる訳もない。どうせこの家の収入では進学など出来はしないのだし、第一、学校では白鳥の中に一羽だけ真っ黒な鳥が混じっている様な状況だ。それが何を意味するかこいつらは想像がつかないのだろうか。
父親は何かを言い掛けたが、それを飲み込んで代わりにテーブルを一発殴った。おろおろと狼狽した継母が諂った声で父親を宥め透かす様子を名前は酷く冷めた目で見ていた。
「そろそろ仕事だわ」
継母がいそいそと玄関へ向かう。すれ違いざま「あまりお父さんを悲しませては駄目よ。私も心配してるから」などと嘯く継母に名前は「そうですね、お継母さん」と皮肉を込めて応じた。
継母が出て行った後、父親の携帯には複数回電話が掛かって来て、その度に父親はまさに平身低頭誤り続けて居た。その卑屈な声を聞くのが嫌で、名前は布団を頭から被り、耳を塞いでいた。