Sweet girl

前髪を上げ気合を入れて出勤した俺は、それこそプライベートの不穏さなどまるっと隠し通して、いつも通り好調だった。今日もひっきりなしに顧客が訪ねてきてくれ、そして俺を頼ってくれる。今は、それだけでいい。

休憩時間にスマホを見ていたら、かろうじてまだ彼女である人物から『善逸くん、ちゃんと話したいから今日家に行ってもいいかな?』と連絡が来ていた。今さら何を話すのか知らないが、このまま消滅は俺も気持ち悪かったので、『いいよ。勝手に入ってて』とだけ返信して、また仕事に戻った。

リネン混の服はしわになりやすい。スチームアイロンをかけるわけにもいかないので、休憩中はバックヤードにハンギングしておいたジャケットに再度袖を通すと、PCで売上の進捗を確認する。今日の予算はもう達成していた。あとは気楽にやろうと思い、凝った肩をぐるぐると回していると、扉が開いて同僚が顔を出した。

「我妻!お前の顧客さん来てるけど休憩何時まで?」
「あ、ほんと。もう終わるから出るわ、ありがと」
「おー、最近よく来る同業のあの子よ」

最近よく来る同業のあの子。ちょうど俺が今の彼女と付き合い始めたくらいの時期から、お店に来てくれるようになった女の子だ。よく名の知れたセレクトショップで働いているらしく、年も近いので話が盛り上がってすぐに仲良くなった。働いているショップはレディースブランドだが、彼女自身比較的カジュアルな服装が多いため、よく俺の働く店へやってきては、メンズもレディースもくまなく吟味していく。服に対する熱意や思いがなんとなく似通っているような気がして、彼女と話す時間が好きだった。

「あ、我妻さん!こんにちは!」
「名前ちゃん、こんにちは。また来てくれたの、ありがとねえ」

彼女はメンズフロアにいた。何を見ているのかとちらりと視線を手元にやれば、カーキのナイロンベストを手に持っていた。お、それは、俺も気になっていた。そしてそんなところにまで手を伸ばすとは、ちょっとばかり予想外。

「え、ナイロンベスト、俺も欲しいよ」
「あ…さすが我妻さん、最近ちょっと気になってて」
「へえ、でも、普段カジュアルだもんね、似合いそう」
「そうかなあ…なんか、カジュアルすぎちゃうのかな?っていうのがちょっとあって…」

ふむ、と顎に手を当てて考える。確かにカジュアルなアイテムだけど、女の子が着るの、俺は結構好きだな。

「んー…Tシャツあわせかなあ」
「え!めちゃくちゃカジュアルだ…」
「うん、でも華奢だから似合うと思うけどな。短めのパンツにローカットスニーカーで…あ!」
「…あ?」
「髪、ハーフアップにしよ。決めた、絶対かわいいと思う」
「え、あ、我妻さん、早すぎてついていけないです!」
「待ってて、Tシャツとボトム持ってくるから」

そう言って、指をぴんと伸ばした掌を彼女に向けると、ふふっとおかしそうに笑みをこぼしていた。え、なにその顔、可愛いじゃん。
一瞬どきりと跳ねた心臓は気のせいとして、こうして仕事をしていると、俺はいつもその他の面倒ごとや杞憂なんて、すべて忘れられる。だから、仕事が好きだった。

レディースフロアから持ってきた白地のプリントTシャツ、ブラックのショートパンツとローカットのナチュラルカラーのスニーカーを彼女に渡し、試着室へと案内する。彼女はもじもじとしていたが、俺のあまりの押しの強さに観念して、試着室へ消えていった。

普段はあまりこういう接客はしない。あくまで相手はお客様だから、自然な話の流れでニーズを引き出し、それに合った提案をする。購入したあとのことも考え、さらに先を読んで、セットで買ってもらえるように。でもなぜか彼女には、半分くらい俺の願望込みの提案をいつもしてしまう。それが彼女の所望に合わなかったことは今までなくて、おそらく単純に服の趣味が合うのだろう。そしていつも俺が着てほしい服が、びっくりするくらいに似合う。

「お客さま〜、ご試着いかがでしょうかあ」

わざとらしく、間延びした声で試着室に問いかけると、控えめに開けられた扉から丸い瞳がこちらを見ていた。これまたわざと堅苦しく、「よかったら外の明るいところでご覧になってください」と微笑んで見せる。彼女は焦茶色の長い艶髪を揺らしながら、鏡の前にひょこりと出てきた。ゆるく巻かれた柔らかそうなその髪に、一瞬、今日家に帰ったらいるのであろう存在が脳裏に浮かび、顔が引きつったがすぐに引っ込めた。

「…かわいい!」
「だ、大丈夫?ですかね?これ…」

言葉通り、彼女は可愛かった。ナイロンベストとショートパンツはバランスがいいし、丈も野暮ったくならないように短めのものを選んだ。ボトムに濃色を持ってくることで、シルエットがぼやけることもない。ローカットのスニーカーを履きこなした彼女が足を出している姿は今までほとんど見たことがなかったが、すらりと伸びたそれは陶器の冷たさを連想させるように白く、思わず「もったいない」と呟いてしまった。

「…え?」
「あ、いや、なんでもないよ!すごくいいと思う! 個人的にナイロンベストは女の子が着るほうが好き。ショートパンツと合わせるとか男はできないからね」
「……我妻さんって、本当にすごいです」
「え? まあカリスマだからね俺は」

そう言って前髪を掻き上げて見せる。まあ、今日はもともと上がってるんだけど。またくすくすと笑った彼女は、「そういえば」と続けた。

「ハーフアップって言ってましたよね…結んでみよう」

そう言って頭の高い位置で髪をまとめ始めた。鏡に映る自分の姿を確認しながら、流れるように。鏡越しに視線がパチリと合うと、「どうですか?」と微笑んだ。
一連の動作になんだか色気のようなものを感じてしまい必死にそれを頭から追い出しつつ、彼女の後ろに立ち、結び目に触れてちょいちょいと髪の束を引き出す。少し、高さが出るように。「いい感じ」と笑って見せると、蜜のようなつやつやの髪の毛を鏡の前で揺らしながらくるりと一回転した彼女は、「これ、買って帰ります!」とぱっと花が咲いたような笑顔で言った。同時に、おそらく彼女が愛用している香水だろうが、フリージアの花のような柔和な香りが鼻腔をくすぐる。

購入確定、それは何度も何度も経験している瞬間のはずなのに、なんだか照れくさくなり、「ありがと」とぎこちなく笑い返した。


商品の在庫をストックから持ち出してきてお会計をしているとき、彼女は俺の着ていたセットアップやいつもと違う髪型を褒めてくれた。さすがは同業なだけあり、見た目の変化に敏感だなあと感心しつつ弾む会話を素直に楽しんでいると、ふと彼女は少し言い出しづらそうにして問いかけてきた。

「我妻さん…何か嫌なことありましたか?」

思わずどくんと心臓が鳴る。俺としたことが、隠せていなかったのだろうか。今までどれだけプライベートで嫌なことがあっても、それが同僚やお客様に伝わってしまうことはなかったのに。俺は平静を装って、不安げな色を宿した彼女の瞳を見据えながら、手元でナイロンベストを畳む。形を整えて薄いビニールに差し入れ、ショッパーを広げてそこへ投入すると、にっこりと笑って見せた。

「嫌なことなんてないよぉ! なんで?」
「あ、それならよかったです!さっき…ちょっとだけ、あれ?と思っただけなので」
「ふふ。心配してくれてありがとね」

「出口まで送るよ」と言葉を添えて、安堵の音が聞こえる彼女を店の出入り口まで見送る。俺が手渡したショッパーを大事そうに抱えた彼女は、「今度これ、着てきますね」と顔を綻ばせながら、手を振って街へと消えていく。手を振り返しながら、その姿が見えなくなるまで、店の出入り口に立ちつづけた。

「……なんだろ、なんでばれたんだろ」

俺の独り言は、都会の喧騒に飲み込まれていく。彼女は俺のように耳が良いわけではあるまい。となると、俺のことをそのくらい具に見ているってこと?お客様なのに?

初めてのことに、なんとなくうわの空になりながら、残りの勤務時間を過ごした。


仕事が終われば待ち受けているのは、地獄の時間だ。大きなため息を一つ吐きながら、鉛のように重い足取りで帰路を辿った。

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