Phalaenopsis


※現パロ、社会人設定



俺の彼女は最近、よく花を買ってきては、花瓶に生けて顔を綻ばせている。季節が春に変わったということもあるだろうが、なんでも、生花が家にあると元気が出るらしい。

まあ、わからなくはない。

買ってきたその日にはしゃんと上を向いて背筋を伸ばしていた花も、一週間もすればくたびれ始めて、ついには枯れてしまったり、花弁が落ちてしまったり。そういう姿を見ていると、俺たちと同じ生き物なんだなと思う。そして、それを楽しんでいるのは彼女も同じようだった。

朝起きて、カーテンを開けて、顔を洗って歯を磨いて、ご飯を食べて、コーヒーでほっと一息ついて、着替えをして。そういう日々の何気ないルーティーンの中に、いつの間にか花瓶の水換えが含まれるようになっていた。毎日見ていてわかったけれど、花を見つめる彼女の面差しは、ひどく優しく、まるで愛でるようなそれで。ころころと弾むような音も聞こえていた。

時折俺の髪をじっと見つめては、「善逸の髪は蒲公英みたいでかわいいね」と笑うので、そのときは「誰が蒲公英だ!」と悪態をついたけど。
彼女はいま本当に、花を飾ること、そしてその成長を些細なことでも見守ることが嬉しいんだろうな、くらいの気持ちで、俺は微笑ましく思っていた。


いつかの仕事の帰り道。
いつもなら目にとまることがなかった職場近くの花屋に、ふと目を奪われた。
お店の正面のガラス瓶に所狭しと詰め込まれていたのは、ピンク色の花だった。ピンク色の花という拙すぎる表現で申し訳ないが、あしからず、花に関する知識は俺は皆無です。

鮮やかなその発色はもちろん、透けるような葉脈が美しい。きっと彼女が花を買ってくるようなことがなければはなから気にすることもなかっただろうけど、このときばかりはなぜだか気がついたら店の前まで足が動いていた。
こぢんまりとしたその花屋は、個人経営なのだろうか。俺が店の前で色とりどりの花たちにじっと視線を落としていると、店の奥から小柄なおばあちゃんが顔を出した。

「こんばんは」
「あ、こ、こんばんは」
「ご自宅用ですか」

背中が少し丸くなったおばあちゃんは、皺々の顔をさらにくしゃりとさせて俺に問いかける。ご自宅用…になるのかな。そりゃそうか、家に買って帰るだけだし。顎に手を当てて考えるそぶりを見せていると、俺が答えるより先におばあちゃんがもう一度訊ねる。

「プレゼント?」

その穏やかな声に、俺の耳はぴくっと反応する。そっか、プレゼントか…
別に、今日は何か特別な日というわけではない。普通の平日の、いつも通りの仕事帰りの道。なんとなくピンクの花に惹かれて、いつもなら来ることのない花屋にちょっと寄り道をしてみただけ。

だけど、ふと脳裏に浮かぶのは、柔らかい日差しが差し込む部屋で、自分で花瓶に生けた色彩豊かな花たちを愛でるなまえの姿。「切り花は、水切りっていうのをしてあげると長持ちするんだって」と嬉しそうに教えてくれたっけ。
俺はピンク色の花に視線を向けたまま、しばし考える。うん、と思った時には口からぽろっと言葉がこぼれ落ちていた。

「プレゼントで」

「はいはい、プレゼントねぇ。胡蝶蘭がいいのかな?」
「こ、胡蝶蘭…」
「うん、胡蝶蘭、お兄ちゃんがさっきからずっと見てるやつ」
「あ、このピンクの、胡蝶蘭って言うんですか」
「そう、綺麗でしょ。いまがちょうど開花時期」

そう言っておばあちゃんはもっと近くで、ピンクの花、もとい胡蝶蘭を俺に見せてくれた。鼻をほんの少しだけくすぐる香りと、近くで見るとますます神秘的な姿。花の形状的に、彼女がよく買ってくるようなぴんと背筋の伸びたものではなかったが、おばあちゃんが次いで聞かせてくれた話で俺はすぐに心揺さぶられる。

「ピンクの胡蝶蘭の花言葉はね」
「……」
「"あなたを愛します"」

プロポーズのときに贈る人も多いよ、とおばあちゃんは目尻を下げた。
あなたを愛します…だって。なんかちょっとロマンチックすぎて照れくさい。そう思って頸のあたりをぽりぽりと掻く。
この花を買って帰ったら、なまえはどんな顔をするだろう。多分、お花を買って帰るだけで大喜びするだろうけど、花言葉は………なんて伝えたら、いや、俺、ちょっとキザすぎないか?
急に黙りこくった俺を、おばあちゃんが不思議そうな顔で見上げていた。

「好きな子にあげるのかい?」
「あ!いや、…ま、まあ、そんなところですかね!!」
「そう、いいねえ、きっと喜ぶよ」

おばあちゃんはそう言って、ちょっと花束みたいにしたらいいよ、と何本か併せて見せて、俺に提案してくれる。
結局、おまけしてあげるというおばあちゃんの優しさもあって、俺はそのまま胡蝶蘭を三輪購入した。プレゼントって言ってしまったもんだから、ミニブーケみたいな形のそれを小脇に抱え、気恥ずかしい思いで帰路を辿る。
別に、なんてことない贈り物。最近なまえは花が好きだから、俺がいいなと思ったものを、ちょっとプレゼントするだけ。だけど、なぜだか妙に心急くのは、おばあちゃんのさっきの言葉のせいだろう。

ピンクの胡蝶蘭の花言葉はね
"あなたを愛します"
プロポーズのときに贈る人も多いよ

俺は耳がいいはずなのに、"あなたを愛します"に気を取られすぎて、そのあとの一言をあんまりちゃんと聞いていなかった。今さら反芻し、無駄な緊張に襲われる。
いや、違う、プロポーズはまだ早い。もちろん、なまえといつかそうなりたいとは思っている。でも、俺はまだまだ仕事もこなすだけで精いっぱいで、彼女を養っていくなんて大きな声では言えないし。一緒に住んではいるから、なまえだって少なからずそういうことを考えてくれていると信じたいけど、今日はそういうのじゃない、あくまでも、自然体を装って。

「ただいま〜…」

謎の緊張感から普段よりも小さめの声でそう言って玄関の扉を開ける。
いつもなら返ってくる「おかえり」の声がないことで、なまえがまだ帰宅していないのを知る。おかしいな、今日は早めに帰れそうと、今朝一緒に朝食を食べたときには言っていたはず。
でも、なぜかほっと胸を撫で下ろした俺は、買ってきたブーケをテーブルのうえにそっと置き、片手に花を抱えていたからずっと見ていなかった携帯をパンツのポケットから取り出した。
ボタンを押すとそこには、青白い画面に彼女からの連絡。

"ごめん、今日仕事が思ったより立て込んでて、帰るの遅くなりそう…先にご飯食べてて!"

なんだ、そうなのか。
なんとなく、勝手に花を買って、しかもその花の花言葉がさながらプロポーズのようなもので、無駄に緊張していた俺は、短い返事を彼女に返し、拍子抜けするような気持ちで携帯をベッドに放り投げた。
とりあえず、飯でも食おう。そんで風呂にも入っとこう。
なまえはきっと疲れて帰ってくるだろうから、さっきの花束持って迎えてやろう。


結局、なまえが帰宅したのは22時頃だった。
見るからにへろへろになっている彼女は、「ただいまぁ〜」と情けない声を上げながら俺のいるリビングへとやってきた。ご飯も食べ、お風呂にも入った俺は、首にタオルをかけたまま「おかえり」と笑いかける。
心なしか、元気がない。そりゃあそうか、遅くまで残業していたから。
俺はさっきの花束を後ろ手に持って、なまえの正面に立つ。突然近づいて行方を阻むように立ちはだかる俺に、彼女は頭上に疑問符を浮かべていた。

「今日はプレゼントがありまーす」
「え、ぷ、プレゼント?」
「そう、仕事でお疲れのなまえに」
「へっ?え、なになに?」

俺の言葉にわかりやすく反応してくれるなまえ。

自然に、あくまでごくごく自然に。

背中に隠していた胡蝶蘭を彼女の目の前に持ってくる。すると、もともと丸い彼女の瞳は、もっとずっと丸くなり、キラキラと輝いた。

「わあっ…なにこれ、かわいい…」
「かわいいでしょ。たまたま職場の近くの花屋で見つけて」
「うん…」
「最近花好きでしょ?だから、買って帰ろっかなって思って」
「…ラッピングもしてもらったの?」
「うん……まあ、な、なんとなく」

またおばあちゃんの台詞を思い出してしまって、ちょっといたたまれなくなって目を逸らすと、なまえはもう一度かわいい、と呟く。
ん、と花束を差し出すと、いつもみたいに、まるで慈しむみたいに抱きかかえた。ありがとう善逸、そう言って幸せそうに笑って。
幸せがうつるかのように俺も嬉しくなって、なまえの頭をそっと撫で、そのまま頬に触れる。ぱちり、俺を見上げたなまえと視線がぶつかったと思ったら、途端になまえから悲しい音が聞こえ始めた。俺は動揺する。なんでいま悲しい音?と首を傾げていると、彼女の黒目がちな瞳には見る見るうちに薄い膜が張られ、ひとつ瞬きをしたことで、粒になった涙がぽとりとこぼれ落ちた。

「ちょっ…なになに!?どっか痛い?」
「っ…ち、ちがうの、ごめん…」
「ごめん、俺がなんかしちゃった?そうだったら本当にごめん」

そう言ってなまえの華奢な肩に両手を添える。ふるふると首を横に振った彼女は、大事そうに胡蝶蘭を腕に抱えたまま、ぽつぽつと話してくれた。

聞けば、仕事で結構大きなミスをしてしまったらしく、明日も早く出社しなければならなくなってしまったそうだ。比較的慎重で、もともと勤勉な彼女が仕事でミスすること自体が珍しいのだが、それで泣いてしまうのはもっと珍しいことだった。

なおもごめんね、と謝りながら自らの目尻についた水分を服の袖で拭うなまえがいじらしくて、胸がつかえるような思いでいっぱいになってしまう。
そんなに泣かないでほしい。泣かせたのは俺じゃないにしても、好きな子が泣いている姿は、嬉し泣き以外は見たくない。俺はなまえをぎゅっと抱きしめて、とりあえず落ち着かせようとソファへ誘導した。

「…こんな、滅多にないミスをしちゃった日にね」
「うん」
「帰ったら善逸に元気な顔向けられるかなって、不安で」
「ん…」
「でもそしたらすっごくかわいいお花持って迎えてくれて、ラッピングまでしてくれて…」
「ん、ふふ」
「それで善逸の顔見たらさ、なんか安心して、我慢してたものがブワッて溢れ出して、涙出ちゃった」

「我慢するな、ばか」と俺は抱きしめる腕に力を込める。
なまえは苦しいよ、と言ったけど、心底安心したような、とてもやわらかい音が聞こえていたから、腕の力はゆるめてやらなかった。

「…平気そ?」
「はあ…うん、泣いたらちょっとすっきりした。いきなり泣いて本当にごめんね」
「そんなこと気にしないの。それより我慢して言わないつもりだったの?」
「う…」
「なんかあったら言わないのなしっていつも言ってるのに」
「だって、無駄な心配かけたくなくて…」
「無駄じゃない。俺が勝手に心配するだけなの、だから遠慮とかしないで、なんでも話して」
「……うん…」
「わかった?約束だよ」
「…うん…わかった、ごめんね。あと、ありがとう」
「ん、わかればいいよ。謝るのはもうなしね」

何にも悪いことしてないんだから、と頭を撫でてやると、少し落ち着いたようで、まだ湿った双眸を細めて微笑んだ。
疲れているだろうし、こんな時間だけれど、夕飯の準備は俺がしよう。そう思って立ち上がり、キッチンへ向かおうとする俺に、うしろからなまえが「ねえ」と声をかけてきた。

「このお花はなんていうの?」
「……胡蝶蘭…って言うらしいよ」

彼女の涙に衝撃を受け、胡蝶蘭の存在をすっかり忘れていた。再び話題の中心となった花に視線をやりながら、また、おばあちゃんの言葉を思い出した。

"あなたを愛します"

今度は、なんとなく、伝えるべきな気がした。
潤んだ瞳で撫子色のそれを見つめるなまえのほうへと踵を返し、隣に腰かけてそっと手を握って話しかける。

「……胡蝶蘭の花言葉、知ってる?」
「…? 知らない、けど…」
「…あなたを愛します、らしいよ」
「へ…」

濡れそぼった瞳を彼女は数回瞬かせ、ぽっと頬を染めてじっと俺の顔を見つめてくる。
一方俺は、こんなにキザな台詞を吐いているくせ、首からタオルを下げたまま、髪は中途半端にかわいて一房ずつ好きな方向を向き放題だ。
格好つけようにもつけられない出で立ちなことがいまさら恥ずかしくて、違う意味で顔から火が出そうだった。

「これ、たまたま職場の近くの花屋で見つけてね」
「うん」
「店のおばあちゃんが教えてくれたの、胡蝶蘭の花言葉」
「うん…」
「あの…その、プロポーズのときとかに、贈ることも多いらしい」
「!」

なまえの手がちょっと跳ねた。心音がどっどっと速くなるのも、俺の耳にうるさいくらいに届いてくる。こちらまで緊張しそうなその音をかき消すように、「俺は!」と少し大きめな声で続ける。

「俺は、その…なまえとはずっと一緒にいたいと思ってて」
「うん…」
「さっきみたいにつらいときとか、なんでも聞いてあげたいし、いつでも飛び込んできてもらえるような存在でいたいし」
「…う、ん…」
「なまえが仕事でどんなにおっきなミスしたって、どんだけぼろぼろになったって、俺はなまえが大事なの。だから、プ、プロポーズは!また改めてさせてもらうけど、今回のはほら、今の俺の気持ちとして、受け取ってほしい」
「うっ…ううぅ」
「こらぁ、泣くなよぉ」

俺の言葉になまえは再び涙をこぼす。これは多分嬉し泣きだから、ちょっと照れくさい。
優しく抱きすくめて背中をゆっくり撫でていると、俺の肩に顔を埋めているせいか、こもったような彼女の声が耳に届いた。

「……ありがとうね、善逸」
「なにも。お花買ってきただけだよ、俺は」
「…嬉しかったから。その、花言葉」
「あ…」

思い出して恥ずかしくなる俺をよそに、なまえは口元に指を折って丸くした手をそえて、「わたしも愛してるよ」と悪戯に微笑んでいた。
なんだか余裕ありげななまえの態度にちょっと悔しくなって、でもなまえがいつもみたいに笑ってくれたことが嬉しくて、俺は優しく彼女の唇にキスをした。


今はこんなんだけどさ、俺はいつかちゃんと、お前にプロポーズするんだから。


─そのときは、もっと大きな胡蝶蘭の花束を添えて。




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