心境の変化は些細なものから 診察は決まって一日一度、ローは決まった時間に来て診て、セラと特に言葉を交わすことなく去って行く。 それに対しセラは安堵と不安の入り混じるような、境の曖昧な気持ちを抱いていた。 あの取り乱した翌日から、ローはセラに対し特別絡んで来なくなったのだ。それはセラにとって理解できそうでできず困惑を残していた。 あんな風に訳もわからず取り乱す患者に刺激をしないようという配慮なのか、それとも煩わしさからなのか…セラの心はそればかりだった。 そんな心情など無下にするように時間が過ぎ去り、さらに1週間後にはセラは血色の良さを取り戻していた。さらには節々の痛みもなくなり固形物も徐々に食べられるようになっていた。 目を張るものとすれば、ベポとセラの会話が次第に弾むようになって来たことだ。 ベポの嬉しそうな声は廊下にまで聞こえ、近づかないように言われている他の船員達はかすかに聞こえる自分の仲間の楽しげな声だけを頼りにまだ見ぬ少女の安否を気にしたりしていた。 その会話を知るのは、当人のベポとセラ。そしてベポから一語一句伝えんばかりの報告を受けるローのみだ。 ベポの今日は何を話した、セラは甘いものの時に嬉しそうだなど目まぐるしいくらいの進歩を遂げていた。 紛れもなくいい兆候だ。そう頭で考えるのとは裏腹な靄を感じるローの葛藤など目の前に座る白熊は気がついていない。 セラを拾って、1週間と半ばを過ぎたころで変化が訪れることになった。 −−−−−−−− 「ふぇ?」 −あの人と、お話がしたいです− そう語るセラの字にベポは目が落ちちゃいそうなくらいに見開いていた。 「またまた、どうして?いつも来てるでしょ?」 −最近は一日置きになってます。私の体調が良くなっている傾向が見られている、とのことでした− 「今日は来ない日なんだ?」 −はい− 「呼びに行くのはいいんだけど、キャプテンは明日も来るよ?」 ベポはキャプテンが来なくなるんじゃ無いかとセラが心配してる。そう考えていたが、それは違うと首を横に振っていた。 −あなたと、そしてあの人一緒にお話がしたいのです− ベポが食事を運ぶタイミングと、ローが診察に来るタイミングがズレてしまう。それを懸念していたセラはこうして比較的話しやすさを感じられるようになったベポにお願いをしたのだ。 「んー、わかった!良いよ、呼んで来る!でも、もしかしたら忙しくて来れないかも…」 −そしたら、また明日で大丈夫です− その言葉を最後にベポはニカッ!と笑い"任せて!"と笑って出て行った。 …しかし数分後、ベポが酷く落胆して戻って来たのはいうまでも無い。 どうやら、今日は無理だと落胆するベポにセラは首を横に振り謝った。 −−−−−−−− 夜、ふいに目が覚めお水を飲もうと起き上がると私は驚きで息が止まるかと思った。 人影が一つ、近くの簡易的な椅子に座っていたのだ。ロウソクの火も消え、月明かりだけの青白い部屋。二人分の呼吸だけが部屋に聞こえて来る。 少しして人影が動き、それがロウソクの火を灯した様で輪郭がはっきりと見えた。 「目、覚ましたか」 コクリと頷く。 『こ ん ば ん わ』 なんと言って良いのかわからず、とりあえず夜の挨拶をする。ロウソクの少し頼りない明かりの元で相手に伝わったかは怪しかったけれど、相手がクク、と喉を鳴らしたことで無事に伝わったのだと安堵した。 「昼間ベポから聞いた。俺に用があったろ」 頷き、私はノートを手に取った。仄暗く優しい明かりの中で鉛筆を走らせる。 −ありがとうございます− ひとこと、そう書き上げると彼は見せる前に私の手元を覗いてきた。 「何がだ」 −全てです。助けてくださって、檄を飛ばして、生かしてくれた。この12日間全て− どういう心境の代わりだと思うかもしれない。死にたいとあそこまで思い、生かされたことに逆恨みしていたあの日の私はもう息を潜めていたのだ。 毎日毎日、あんなに明るく話しかけ今までの旅やキャプテンは凄いだの、仲間の船員達の良いところを沢山沢山、彼なりの好きになってもらいたいという心に、言葉に私の凍りきった心がジワジワと溶けていた。 正直まだ怖い。目の前の彼も、まだ見ぬ船員の人達も。 けど、助けてこの船に置いてもらっているのに怖いなどという理由で拒絶しているのは、あまりにも子供すぎる。 そして、何より…疑うことに心が疲れ果ててしまっていた。もう、心の何処かで拠り所を求め始めていたのかもしれない。 −彼が語るここの人達の良さを、毎日聞きました。正直私はまだ、貴方に対しても彼に対してもまだ見ぬ人達に対しても、恐怖がないわけではありません。でも、− 長文でも、隣の彼は何も言わずただ黙って見てくれている。 −少しでも、向き合っていきたいと…思える様になりました。全部、あの時貴方があの場所から引っ張り上げてくれたお陰です− カリカリ、と書き終え一通り読み終えたであろう彼に対して向き直るとベッドの上で正座をして背筋を伸ばした。彼は少々驚き、私の次の行動を待っている。 『あ り が と う ご ざ い ま し た』 これだけは、音が出なくなって自身の口で伝えたかった。 頭を下げ、相手の反応を待って上げるか悩んでいるとフワリ、と頭に触れる感覚が感じた。 それが手のひらだとわかり、酷く胸の中が痺れた。それは久しい感覚で昔の記憶が蘇る。 「俺の気まぐれだ。どうしても恩を返したいと思うなら…」 −−−−生きろ。 その言葉に我慢していた結界は崩れ去り、ぼたぼたと瞳から涙がこぼれた。 音の出ない、痛々しいくらいの泣き声にローは一人眉間にしわを寄せ、彼女の声を取り戻せずにいる自身の医者としての力量のなさにイラつきを覚えたことに、泣いているセラが知ることはなかった。 −−−−−−−− 目の前のコイツは顔を両手で覆い、音の出ない喉から溢れるしゃくり声で必死に泣いていた。 手を頭に乗せ、黙って見守ることしか今の自分にできることなどないだろうと、らしくない考えが浮かんだ。 触れる手のひらからほんの少しの形容し難い感覚が走る。それは決して嫌悪を抱く様なものではない、手を離すのが惜しくさえ思える様な感覚に近い気がした。 次第に泣き止み、顔を上げる動作に気がつき手をどかすと、目の前のコイツは涙も鼻水もグチャグチャな顔を見せた。 「汚ねぇ顔しやがって」 タオルで顔を少々粗雑に拭いてタオルを下ろすとそこには不機嫌そうな顔。 『ひ ど い で す』 「ククッ…鼻水垂らした奴がよく言う」 『ふふ…』 音のない、空気だけが抜けていく。それでも確かに目の前のコイツはかすかに笑って見せた。 目尻を下げ、少し困ったかのような八の字に下がる眉尻、小さな弧を描く口元。ロウソクの火に揺らめき輝く白い髪。 「とりあえずもう寝ろ、明日また来る」 『は い』 立ち上がり、部屋を出ようとしたがそれをコイツは俺の服を掴んで止めた。 連れてきて初めの頃に掴んできた時と被り、振り返れば今度はちゃんと自分の自覚ある意思で掴んできていて。 『お や す み な さ い』 初めの頃とは程遠い、柔い口元はそう動いて見せた。 「…あァ、おやすみ」 パタンと締まり、ロウソクが消された部屋には小さな寝息だけになった。 「…とんだ変化だな」 くつり、と笑う自身の口元を片手で隠し、月明かりの下ローは一人甲板の夜風に当たり、しばらく物思いに耽っていた。 Since:18/12/23 [*prev] [Back] [next#] [しおりを挟む] [感想を送る] |