心を奪うその瞳 | ナノ
甘く痺れる指先と、小さな決意



少しずつ、少しずつ心の氷が溶けていく気がして私はどうしていいかわからなくなる。

ベポさんに笑いかけられ、アシカさんに褒められ、あの人に話しかけられて…


どうやら私は、ワガママになってしまった様だ。

ベポさんから聞く他の船員の方々の話や、アシカさんから聞くあの人の話は私の心をジクジクと痛みを伴いながらも日に日に自身の安寧を求める気持ちに嘘がつけなくなっていた。


毎晩、あの人に珈琲を届ける。

何故かあの人は私が扉の前に立つと、数秒後にガチャリと扉を開けてくれる。私も同じ時間に来る様に心がけているけれど、それでもタイミングが絶妙で不思議に思うばかり。

珈琲を届けて7日目、この船に乗ってから既に三週間の時が経っていた。

この人の雰囲気にも次第に慣れ、今度は好奇心が首をもたげる様になって来たのだ。


この人の読む本はどんなものだろうか、この人の珈琲以外の好みは何だろうか、この人は…この人はどうしてあの時私を連れ出してくれたのだろうか。

しかし、聞く権利もなければ勇気もない私は毎日静かに珈琲を届けることしかできなかった。


今日も変わらず彼は私が部屋に戻るまで監視の為に自室の部屋を出て、廊下を歩く。今日も少々の距離を歩く、そう思っていた。

「待て」

呼び止められ、素直に止まる。部屋を出て数歩しか歩いていない。後ろを振り向くと彼は船長室の隣に面する部屋の扉に手をかけていた。

首を傾げ彼の行動に疑問符を浮かべ、しかし素直に歩み寄ると彼は満足げに口端を持ち上げていた。


ガチャリと扉が開き、そこには簡素ながら清潔感のあるベッドと机が置かれているこじんまりした部屋だった。

この部屋が何なのか理解に苦しみ隣の彼の顔を見上げる。首を傾げて理解してませんと表現すれば、次に私は驚きで彼と部屋を何度も交互に見ることとなった。


「お前の部屋だ。今日からここで寝ろ」

『!?』


セラの聞き間違いではなく、確かにローはそう言い放った。驚いたセラの顔は交互に見るようにロー、部屋、ロー、部屋、ろっ−−

「頭取るぞ」

ガシッと音が聞こえて来そうな勢いでセラの小さな頭を片手で掴み、首を痛めかねない動きをしていたセラを止めた。

フワリと、セラの髪は柔らかく細い。それがローの手に軽く絡まり重力に逆らうことなくスルリと落ちた。ローは心の内で指先に微かな電流のようなものが走った気がした。


「今度は内鍵だけだ。外からしか締めれねェ医務室は、もう逃げて死のうなんて考えてない奴には不要だろう」

ジク、ジクジク…その言葉にどんどん心の奥が疼き痛み、じんわりと溶ける感覚が走る。


−ありがとうございます−

「この部屋を用意したペンギンにでも礼を言え。…くくっ…まァ、お前が話しかけられるんならな」


ここで彼は意地悪な言葉を残した。ペンギンさんがどんな人か知らないが…いや、人かも怪しいけれど。その人と会ったことのない私が直接礼を言えるわけもなく、しかし彼の口からは伝えてくれるなんて一ミリも考えていないだろう。


「ペンギンの帽子をかぶった奴だ」

この人とベポさんとアシカさんしか会ったことのない私に特徴を伝えて来た彼に、もう私は頷くしかできなかった。

その様子を見て彼は踵を返し部屋に戻ろうとする。私は慌てて彼の腕を掴もうと手を伸ばす。

毎晩の恒例になろうとするこの行為に、私はいい加減先手を打って、先に挨拶を済ますべきだと考えた。


しかし空を切る腕。掴もうと思っていた彼の左腕は右側に逸れ、私は前のめりに倒れそうになった。

転ぶのを覚悟して目を瞑る。しかし私を襲う衝撃は布のポス、という柔いものだった。



「…ったく、あぶねェな」

彼の呆れた声が頭上から降って来る。顔を上げようとしたが、何故か頭の後ろを手だと思われるもので押さえられ、私はなす術なく固まってしまった。

鼻に擦れる布と、暗がりの中で微かに見える視界いっぱいの黄色。数秒がとても長く感じた中で私は初めて人肌の暖かさを布越しに知る。


おそらく…信じ難いがきっと彼のものだと思われる体と私の体との間に折り込まれた両の腕が、手のひらが彼に触れる。

信じられないくらい心臓が早く強く脈打ち、全身の血が駆け巡り熱量が上昇する。

もがくように手で押し退けようと力を込める。布の擦れる音と、布越しに伝わる人肌。筋肉の質感が服越しに伝わり、羞恥が湧き上がりどうしていいかわからず手をわずかに布の上を滑らせただけで動きを止めた。

すう、と息の仕方を忘れていたかのような数秒に堪え兼ね、か細く息を鼻から吸う。鼻に広がるのは先程コーヒーを届けた部屋と同じ香り。

毎晩届ける為に訪れたその部屋の香りは、決して女性みたいに華やかなものではない。けれど、今までの劣悪な男どもの匂いとも、虐げられていた劣悪な環境の匂いとも全く異なる、かすかな香水のような彼のモノに胸の奥が落ち着くようにも思えた。


彼の大きな手が、後頭部を撫ぜる。それは不揃いに乱雑に切られ、そしてそのまま無造作に伸びた髪を軽く指で遊ぶかのような動きだ。

髪が掬われては重力に逆らいハラハラと落ちていく。それを何度か繰り返され、相変わらず緊張で体を強張らせつつも次第に肩の力が抜けるような感覚を覚える。ほんの少しの出来事なのに、私にはなんだか長く感じられた。

後頭部の拘束を解かれ、顔を上げる。薄暗い廊下の明かりの元、さらには逆光で彼の顔はさらに読み取れないものとなっていた。


「気をつけろよ」

先程の一件だと思い出し、頷く。それを見届けた彼はほんの少しだけ目を細めると、一歩後ろへ下り解放された。

「で、何だ」

私の行動から、何か言いたいことでもあったのかと問われる。口を開こうと彼を見つめた瞬間、私はピタリと動きを止める。



ローの大きな手が、その指がセラの右頬を柔く撫ぜる。緩く柔く、人差し指と中指が頬骨から目尻、そして顎付近まで上下にゆっくりと滑る。

顔を覆い隠すような前髪をローの指は額に指を滑らせ丁寧に耳へとかけられる。右目が露わになり、セラは言葉を失いつつも、ただローを見て固まっていた。

深い、海のような瞳がローを捕らえて離さない。セラは瞬きを忘れたかのように見つめていた。


耳に前髪をかけ止まっていたローの指が再びセラの頬を撫ぜる。少しくすぐったそうにセラは瞳を閉じ、眉を八の字に下げる。

ローは自身の指先から伝わるその痺れが、まるで磁石のようにセラの頬に手繰り寄せられる感覚に思えた。


あ の

沈黙の中でのローの行為に耐えかねたセラは目を開き、まっすぐ瞳を見つめ返し口を開いた。

ローは静かにセラの言葉を待つ。その間も動きを止めない指はもはや無意識に近い物になっている。


お や す み な さ い

音のない挨拶。小さな口から漏れる空気とその動きを見つめローはやっと自身の手をセラから離した。

「あぁ」

短い言葉を最後にローは後ろを向き自室へと入っていった。セラはといえば先程の出来事で頭がいっぱいになり、今頃ながら顔に熱が集まり、加速して心臓が苦しいくらいに脈を打ち鳴らした。

慌てて自室と言われた部屋に飛び込み、ベッドへ潜り目を瞑った。


彼女が眠ったのは空が白んできた頃だった。


−−−−−−−−


アシカさんから、見張り番の人にもコーヒーを作って欲しいと頼まれたのは、翌日の夜のことだった。

どうやらこの船は潜水艦らしく、普段は潜るので外の見張り番に人が立つことがないのだが、ここらの近海は深海の流れが複雑で、潜水するにはリスキーらしい。と、ベポさんが教えてくれた。


不寝番、とは結構大変らしい。ベポさんがある日に眠そうにしながら隣を歩いていたのを思い出した。


「今日の不寝番はペンギンか」

ブツブツと呟かれた言葉の中で、私は聞き逃せない言葉を聞いた。

昨夜の話で、私の自室と称した部屋を用意してくださった人だ。…ペンギンさんが、人かわからないけれど。


トントン、とコーヒーを保温性の水筒に入れ終えた私はスケッチブックに書いた字をアシカさんに見せた。

「ん?私が、届けてもいいですか、だと?」

コクリと頷き、さらにページをめくって次の文を見せた。

「彼に、部屋のお礼がしたい…か」

こんな臆病な私がこんなにも積極的になるなんて、アシカさんはおろか私さえも驚いていた。

でも、この勢いを逃したくなかった。


「ペンギンは、嬢ちゃん…いや、セラが歩み寄りたいと思えるような奴だ。そのきっかけが作れるってんなら、俺ァ大歓迎だ!」


アシカさんは嬉しそうに私の名前を呼び、豪快に笑う。軽食のサンドイッチを箱に詰め、全てをカバンに詰めるとそれを私の肩にかけてくれた。

私は自己紹介の言葉を前もってスケッチブックに書いて、ついでに小さなランタンとブランケット持たされ私は初めて甲板に出ることとなった。

Since:19/1/7


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