胸に灯った一つの優しさ
「あんたってさぁ」
「うん?」
晩御飯の支度の最中、後ろから聞こえた声に相槌を打てば、
「あの女が好きだったんでしょ?」
「‥‥どの女だよ!?」
いきなりの言葉に思わず囚人は振り返った。
赤紙の女性は頬杖をつきながら食席に座っている。
女性ーーシャイがこの世界に目覚めた時は少女の姿であったが、たった数年で二十代半ば程に成長していた。
リバウンド、とでも言うのか。何百年も眠りについていたからだろうか‥‥
あまりにも成長が早い。
『きっとこれも、私への罰よ』と、彼女は言う。
恐らくではあるが‥‥彼女は普通の人間より早く成長し、早く老いていくのかもしれない。
囚人よりも、誰よりも早くに。
シャイは囚人を指差し、
「夢の世界では人魚だった女よ」
そう言われ、ナツレの姿が脳裏を過る。
『短い間でしたが、あなたの優しさを私は、私達は見ました。だから、今はたとえ忘れても、いつかあなたが思い出せるように』
『囚人さん。きっと今日の日のことも囚人さんは忘れてしまいます。でも私は忘れません。私は優しい囚人さんのことが大好きですから。繰り返す日々の中‥‥狂っていく日々の中、それでも囚人さんの優しさだけは、本物だったから』
夢の世界で、存在をかけてミモリと赤髪の魔女に抗い、何度も死んだ女性。
「今でもわからないんだよなぁ。夢の世界でのナツレと先生だったナツレが違いすぎてさ。本当のナツレは、姉みたいで、母親みたいな感じだったなー」
「ふーん?でも、私が夢の世界を見ていた時は、確かにあんたはその人魚に好意を抱いてたわよ」
言われて、確かにシャイは何度か集落の夢の世界に干渉していた。と言うよりも、あの世界全てがシャイの夢だったのだから、彼女は全てを把握しているのであろう。
「まあ、タイミングが悪かったわね。その後に私があんたの前に姿を見せたから、あんたは私に一目惚れしちゃったんだし?ほんと、白状よね。私一人の為に、妹もクルエリティも見捨てちゃって」
シャイは何度もこの事を言ってくるが、確かにその通りなので囚人は何も言い返さない。
だが、確信があったから。
あの場にいたディエが、恐らくシステルとクルエリティをなんとかしてくれる。
そして自分の妹システルが‥‥きっと、なんとかしてくれる。
『あとは、お前らに任せたぜ。守るべきものを、しっかり守れよ、囚人』
消える間際、ミモリはそう言った。
恐らく、姉のことを指していたのだろう。
だからこそ、赤髪の魔女は自分が守らなければいけなかった。ミモリの‥‥大切な家族の、大切な姉を。
「まあ、私はあと数年で死ぬだろうから言っておくけど、あの子の為にも、ちゃんとした母親を見つけなさいよね」
あの子ーー子供になって帰ってきた、ロス。
ロスは囚人とシャイを父母と呼ぶが、シャイにとって彼は、どこまでも弟だった。
母さんというよりは、姉さんと呼んでほしい。
それに、自分は長くは生きられない。たぶん、ロスが成人するまで、自分は生きていないだろう。
「バカ言うなよ、俺は」
「わかってる。あんた、私が好きで好きでしょうがないものねぇ。でも、私がいる間はいいわ。その後のこと。あんたは一人でいいかもしれないけど、あの子の為にも絶対に優しい母親を捕まえなさいよね。あの子を一人にしたら、許さない」
かつて、夢の世界を作り上げる前の彼女は、弟の為だけに生きていたのだ。
弟の幸せの為だけに。
だからこそ、再び人生を歩み始めたロスの心配ばかりをしている。
「そうね‥‥お嬢ちゃんでもいいよ。ディエからお嬢ちゃんを奪っちゃいなさい!」
「それ、お前が嬉しいだけだろ」
「だって私の方がディエを愛してるからね!それに、あんたとお嬢ちゃん趣味合うじゃない?」
「やれやれ‥‥んなことしたら俺がディエに瞬殺されて、ロスがひとりぼっちになっちまうぞー?」
「うっ‥‥確かにあり得る。あんた、見かけ倒しで喧嘩弱いものね」
どこまで本気なのか。
ぶつぶつと考えている彼女に背を向け、晩御飯の準備に集中する。
なんだかんだ口喧嘩したり他愛ない話をしたり、満更でもない生活を三人で送っている。
それに、約束をした。
シャイと一緒にいると。守ると。
あの瞬間、シャイを選んでしまった罪を死ぬまで背負うと。
ミモリの為にも、自分の為にも。
(なあ、ジジイ。これでいいんだよな)
ほんの一時、共に過ごした彼を思う。
(だけど、ほんと姉弟だな‥‥二人揃って、俺を置いていこうとする。お前らだけじゃない。フェイスも、デシレも、フォシヴィーも、ユーズも、ナツレも‥‥リフェ先生も‥‥)
扉が開く音がして、ロスが学校から帰って来たようだ。
「お帰り、ロード!遅かったわね。マーシーにたぶらかされなかった!?もう、あんたが心配で心配で」
そんなことを言いながら、シャイは帰って来たばかりのロスをギュッと抱き締める。
「やめろよ母ちゃん!!遅くねーし!学校終わって十分で帰宅してんだろ!?」
なんて、以前の彼女からはあり得なかった行動に囚人は苦笑した。
いや、本来はこうだったのであろう。本当なら、ミモリにずっと、こんな風にしてあげたかったのだろう。
「ったく。ほらババア。出来たからお茶の準備してくれよ」
「また人のことババア呼ばわり!?あんたなんか女装癖なくせに!」
「女装しねーし!!」
‥‥いつか、いつか全てが赦されるその日まで。
(システル‥‥クル。俺は俺の選んだ道を生きている。お前らに呆れられないよう、精一杯生きるよ。そして‥‥コア)
シャイとミモリとマーシーを大事に想っていた彼。
囚人がシャイと共に魂になった際、
『そっか。ぼくもね、ずっと、謝りたかった。もっと早く、海の底で眠る君を‥‥ぼくが君の肉体を、迎えに行ってあげたら、良かった。ごめんね、ごめんね、×××。君とミモリと、もっと一緒に居て、たくさん、遊びたかったな』
コアの悲痛な声を聞いた。
(‥‥こいつの魂が救われる日まで、俺が守るから安心しててくれ。シャイもロスも、守るから)
誰にも届かない約束をする。
いつか全てが赦されるその日まで、三人で幸せに生き、ロスとマーシーの人生を見守ろう。
それは自分の願いでもあり、先立った皆の願いでもあるのだから。