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いつからか、彼女の視線の先を気にするようになっていた。




半年程前、甘い米の香りと醤油や出汁の匂いに誘われ、ふらりと立ち寄った店。大通りに面していない為静かで落ち着きのあるその店は、自身の心も落ち着かせてくれるようで。

いい場所見つけたかも…なんて、席に座りながら思っていた時。

『いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?』

ふいに声をかけられ顔を上げると、温かなお茶をこちらに差し出し笑みを浮かべる1人の女性。

「ああ、えっと……サンマ定食で」
『はい、かしこまりました』

長い髪を結い上げ、ふわりと微笑む彼女の第一印象は"人の目をしっかりと見て話す人"だった。

黒曜石のようなその瞳でまっすぐ見られた時、なぜか心がざわついて咄嗟に逸らしてしまったのを今でも鮮明に憶えている。

黒いのに、透明に見えて。
まるで全てを見透かすような瞳だと。

(……初めて会った女性に対してなーに動揺してんだか)

忍として長年やってきて、それこそ様々な人間と関わってきたのだが、こんな体験をしたのは初めてだった。

そうして運ばれてきた料理を食べ、それがまた美味しくて気付けばよく足を運ぶようになっていた。

店の雰囲気と、料理の美味しさと。
そして何となく気になる、その女性目当てに。

あのすべてを見透かすような瞳は、一体何を映しているのだろう。周りがどのように映っているのだろう。

そんな風に彼女の視線の先を気にするようになり、店に行った時にふと気付いた。

あれだけ人の目をまっすぐ見る彼女が、ある男にだけ唯一その瞳を向けていないということに。

それは最近この店で見かけるようになったゲンマだった。

たまに店でかち合うのだが相席になることは決してない。なんとなく、ゲンマも俺と同じ理由でこの店に来ていると感じていたから。

(……ま、メシくらい静かに食いたいよね)

その思いから、この店で会っても互いに話しかけたりはしなかった。そしてそんなゲンマに対し、彼女は注文を受ける時も目を合わせないようにしていて。それなのに、その姿をいつも目で追っていた。

それが無性に気になって。
何故なのか聞いてみたくて。

だからだろうか、雨宿りをしている彼女を見つけた時自然とそちらに足が向いていた。

『………あ、』

隣に来た俺に気付き、声を出す彼女。視線を向けると、あの黒い瞳がこちらをまっすぐ見つめていた。

「…ん?雅亭のところの娘さんじゃない」

分かっていて近付いたのに、なんて白々しいんだと心で自嘲する。


「お店のお使い帰り?」

『はい。でも突然降られちゃって、ここで雨宿りを。すぐに止むといいんですけど…』

「そっか。ま、暫く様子見だね、これは」


そんな会話をしてポーチから本を取り出し、それを読むフリをする。

………勢いに任せて隣に来たものの、どう切り出せばいいのだろうか。そもそも会話らしい会話なんてしたことが無かったと、今更ながらに気付いた。
とりあえず、何か話を振って―――

『あっ、あの……はたけさん』

その時ふいに彼女に声をかけられ視線を向けると、黒曜の瞳が俺を捉える。……そして。

『…これ、よかったら使ってください』

そう言葉をこぼし差し出されたのは、ハンカチだった。俺が濡れているから、これで拭いてくれという事なのだろうけれど…彼女も同じように雨に濡れていたので受け取るわけにもいかない。


「えっと…気持ちは嬉しいけど、君も濡れちゃってるじゃない。自分に使いなよ」

『いいえ、私は然程濡れていませんから。それに本に滴が落ちたら大変ですし…』


そう言って尚もハンカチを差し出したまま、じっと見つめられる。

(…この瞳に見られると、どうも調子が狂うな)

気持ちを見透かされていそうなその瞳に耐えられなくなり、視線を逸らしながらハンカチを受け取る。

そして雨が地面を叩く音を聞きながら意を決して問いかけた。

「…ね、君ってゲンマの事好きなの?」

そう聞くと、彼女は数回瞬きをして首を傾げる。

『……?ゲンマ……って誰ですか?』

…………まずそこからなのか。
予想外の反応に拍子抜けしつつ、どんなヤツなのか説明すると漸く誰の事なのか理解し質問に答えてくれた。


『えっと、好きという訳ではないのですが…なぜでしょう、自分でも分からないんです』


そう話す彼女は、本当に自分でも分かっていないという表情をしていて。しかし彼女があれだけゲンマの事を見ているのは、紛れもなく興味、或いは好意があるからだ。


「それって好きっていう感情の元になる"興味がある、気になる存在"だからなんじゃない?」

『……興味がある?』

「そ。だってどうでもいい相手を目で追うなんて、そんな事しな―――……」


言いながら、はた、と気付き咄嗟に口元を手で覆いながら視線を逸らした。


『……どうしました?』

「……いや、見事なまでにブーメランが返ってきたなと思って」

『?ブーメラン……?』


頭に疑問符を浮かべる彼女に返事を返さず、雨が止んだ事を理由にハンカチの礼だけ述べ、瞬身でその場を後にした。

道すがら、先程彼女にかけた言葉を自身の中で反芻する。

(いやホント、見事なまでのブーメラン……)

…そう、自分でも何故こんなに彼女が気になるのか分かっていなかった。分かっていなかったのに、まさか自分の言葉で答えが見つかるなんて。

"好きになる元の感情"…それを彼女に抱いている自分がいるのだと。

「…うーん、自己分析もまだまだだね、俺も」

とりあえず、彼女の事を知りたいという気持ちがあるのは紛れもない事実だから。

次会った時は名前を呼んでみよう。

雲の隙間から覗く青空を見上げ、そんな事を思いながら家への道のりを歩き始めた。


    

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