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『……困ったなぁ』
先程までの青空は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
父に使いを頼まれ、それを終え家路へ就いていた時、ふと空を見上げると黒々とした雨雲がこちらに近づいているのが見えた。
これは早く帰らないとまずいかも…と思っていた矢先、蛇口を捻ったかのように勢いよく降り出した雨。咄嗟に軒先へと駆け込んだお陰で然程濡れずに済んだが、この様子だと暫く止みそうにないなと独りごちた。
少し雨宿りして、それでも止まなかったら走って帰ろう…そう思いながら大粒の雨が地面を叩く音を聞いていた時。
雨音に混じりバシャバシャと駆ける足音。それが近づいてきたと同時に、視界に入ってきた銀色。
『……あ、』
その人を見てつい声が漏れてしまい、同じように雨宿りをしにきた彼がこちらに気付いた。
「……ん?雅亭のところの娘さんじゃない」
『はたけさん、こんにちは』
額当てを斜めにかけ、口布で顔の半分を覆う彼に向けそう声をかける。
"はたけカカシ"さん。
一般人の私でもよく知るその人はお店の常連さんでもあり、道端で出会ったらこうして声をかけてくれる。
「お店のお使い帰り?」
『はい。でも突然降られちゃって、ここで雨宿りを。すぐに止むといいんですけど…』
「そっか。ま、暫く様子見だね、これは」
彼は空を見上げながら呟くと、ポーチから本を取り出しそれを読み始めた。
お店の常連さんだけれど、会話らしい会話なんてあまりした事がない。だからこの無言の時間が、少し居心地が悪く思えて。
(とはいえ、本を読み始めちゃったから話しかけづらいし…)
どうしたものか…とチラリとはたけさんを盗み見た時、あることに気付いた。
『あっ、あの……はたけさん』
「ん?なーに?」
持っていた鞄の中からハンカチを取り出し、彼に向けて差し出しながら話を続ける。
『……これ、よかったら使ってください』
「……え?」
いつもは額当てのせいで天を仰いでいる、その銀白色の髪。しかし今は雨に濡れたせいで重力に従い下に垂れ下がっていた。
そしてその水がポタポタと滴り、彼の読む本を濡らしてしまわないかという思いからハンカチを差し出したのだ。
「えっと……気持ちは嬉しいけど、君も濡れちゃってるじゃない。自分に使いなよ」
『いいえ、私は然程濡れていませんから。それに本に滴が落ちたら大変ですし……』
ですから、どうぞお使いください。
その言葉にはたけさんは少しの間を置いて「…ありがとね」と言い私の手からハンカチを受け取った。
そんな彼から視線を外し空を見上げると、滝のように降っていた雨は少しだけ弱まっていたものの、未だしとしとと降り続いて止む気配は見られない。
「……雨、止まないねぇ」
『……そうですねぇ』
そうしてまた、訪れた沈黙。しかし少しだけ会話をしたことにより先程よりも気まずさが感じられなくなった。
辺りには雨音だけが響き、暫くその音に耳を傾けていると。
「…ね、君ってゲンマの事好きなの?」
ふいに声をかけられ彼の方を向くと、唯一出ている右目と視線が交わる。その目を見つめながら数回瞬きをし、首を傾げた。
『……?ゲンマ……って誰ですか?』
唐突に投げかけられた質問の内容もそうだが、そもそもその名前に心当たりがまったくない。
質問に質問で返すのはどうかと思ったが、そこを明確にしないと答えられない為やむを得ずそう聞くと、彼は指で頬を掻きながら答えてくれた。
「あー…まずそこからか。えっとね…ほら、お店にバンダナ風に巻いた額当てをする奴来てるでしょ?ソイツの事なんだけど…」
"バンダナ風に巻いた額当て"
それを聞いて頭に浮かんだのは、以前南瓜の煮物を美味しいと言ってくれたあの人だった。
『…あ!あの方、ゲンマさんって言うんですね』
「そ。でね、そのゲンマのことよく目で追ってたでしょ。だから好きなのかなぁと思って」
『えっと、好きという訳ではないのですが…なぜでしょう、自分でも分からないんです』
そう、好きという感情がある訳ではないのだ。今の今まで名前も知らなかった人を、好きだなんて。それなのに何故彼を見ているのか、自分でもよく分かっていなくて。
そんな風に自身でも悩んでいると、はたけさんが答えをくれた。
「それって好きっていう感情の元になる"興味がある、気になる存在"だからなんじゃない?」
『……興味がある?』
「そ。だってどうでもいい相手を目で追うなんて、そんな事しな―――……」
その時、彼が途中で言葉を途切らせ口元を手で覆いながら視線を逸らした。
『……どうしました?』
「…いや、見事なまでにブーメランが返ってきたなと思って」
『?ブーメラン……?』
その言葉に疑問を抱いていると、彼はそれ以上話す気がなくなったのか空を見上げる。
「…あ、雨も止んだみたいだしそろそろ行こうかな。ハンカチありがとうね、洗って返すから」
それじゃあ、また。
はたけさんはそう言って、フッとその場から姿を消した。彼がいた場所を暫し見つめながら、先程言われたことを思い返す。
"興味がある、気になる存在"
確かに…そうかもしれない。私はきっと、ゲンマさんという人がどんな人か気になっているのだ。
雲の隙間から見える青空は、まるで自分の心を表しているかのようで。
雨上がりの雫が屋根の下にこぼれ落ちる微かな音を聴きながら空を見上げていた時、ふと考える。
『はたけさん、なんで知ってたんだろう…』
私が、ゲンマさんを目で追っていることに。
自身の気持ちに気付き、はたけさんの言葉に小さな疑問を抱きつつ家への道のりを歩き始めた。