16

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彼女が俺の姿を捉えた、その瞬間。
漸く分かったんだ、自分の気持ちが―――……




暗部を離れ正規部隊へ転属し、1年。
担当上忍になれと三代目に言われたが尽くアカデミーへと送り返し、上忍師になることの無い俺の元へ久々に重い任務が課せられた。

鼻につく鉄の匂い、肉を貫く感触。

暗部にいた頃はこんな事当たり前だったのに、この1年で随分と感覚が鈍ってしまったらしい。

(……ま、そりゃそーだよな)

今いる場所が陽の下なのだとしたら、以前いた場所は闇そのものだ。正直自分には上忍師なんかよりあちら側の方が合っていただろうと思うが、三代目の命に背くわけにもいかない。

ふぅ、と息を吐き空を見上げれば、すっかり日も落ちて暗くなった空から雨が降り注ぐ。

(……とりあえず、早く帰ろう)

暗部の詰所にあるシャワー室で付着した血は洗い流したが、それでもベストやグローブには乾いてこびり付いたままだ。

早く着替えてこの不快感を取り除い―――


『………カカシさん?』


突如背後から聞こえた声、知った気配にドクンと心臓が脈打つ。足を止めてゆっくり振り返ると、そこには―――

「…………名前ちゃん、」

――……傘をさして此方を見つめる彼女の姿。

(……なんで、こんな場所に……)

誰にも見られないようにと、敢えて人通りの少ない路地裏を通っていたのに。なのに何故と戸惑っていたら彼女が駆け寄ってきて、あの黒曜の澄んだ瞳と視線が交わる。

―――その瞬間、恐怖心が身体を駆け抜けた。


「来るな!!!」


雨音に混じり、自身の声がその場に響く。
それを聞いた彼女が足を止めたのを見て直ぐ我に返り謝罪の言葉を伝えたが、見られることに耐えきれず視線を逸らした。

そして……漸く自分の気持ちに気付いた。

(………ああ、そうか。俺は………、)


―――俺は、これを恐れていたんだ。

彼女の事を知りたいと思う度、
彼女の側を居心地良く思う度。

住む世界の違う彼女に俺の本当の姿を知られるのが…その透明な瞳に、血に濡れた俺の姿を映されるのが。

それが……何よりも怖かった。

優しくなんかない、綺麗でもない。
忍としての俺を、見られるのが。

だから早くこの場から……彼女から離れなければ。そう思うのに、まるで金縛りにあったかのようにその場から動けずにいた時。

先に動いたのは彼女の方だった。

此方に近付いて来て俺の目の前で足を止めたと同時に、今までこの身に落ちていた雫が感じられなくなり、彼女の傘の中に入ったのだと理解する。

そして細い指先が俺の腕に触れた為顔を上げると、あの瞳と視線が交わって。


『カカシさん、少しお店に寄ってもらえませんか?』

「………え?いや、何言って……」

『もうお店もすぐそこですし、今日定休日で誰もいませんから』


だから来てください。

そう言って俺の返答も聞かずに歩き出した彼女。
掴まれた手を振り解く事もできず、戸惑うままその後をついて行った。





『……どうぞ、使ってください』

暖簾の下された店の中へと案内され席に座ると、彼女が奥から温かなお茶とタオルを持って来てくれて。

それを受け取り雫が垂れ落ちる髪を拭く為頭に被せる。…視線を落とすと、床にシミがいくつか出来ていた。


「なんで連れて来たの…この格好見れば分かるでしょ…俺が、」


―――何をしてきたか、なんて。


(……来るつもりなんてなかった……)


こんな…人を殺した後に此処に来るつもりは。

心を落ち着かせてくれるこの場所は、
安らぎを与えてくれる、この場所は。

今の俺には到底不釣り合いだから。

顔を上げられずに自身の手をじっと見つめると、シャワーで洗い流したはずの紅がぬらりと手に付いているように見えた。


(………落ちない………)

ほら、君に綺麗だと言われたこの手は沢山の紅がこびりついている。洗っても、洗っても、それは生涯落ちることはない。

今彼女の瞳には俺がどのように映っているのだろうという恐怖心が、心の中を掻き乱す。


『……知ってますか?雨は悲しみや苦しみを洗い流してくれるんです』


その時、不意に聞こえた小さな声。
ゆっくり顔を上げると、彼女が窓の外を眺めていた。


『だから雨を見ると心が落ち着くんです、私。…それに、カカシさんを思い出すから』

「……俺?なんで?」

『初めてきちんと話した日も雨が降ってましたから。きっとあの日がなければ、今この瞬間も訪れなかったでしょうし…あ、少しだけ待っててもらえますか?』


彼女はそこまで話すと店の奥へと姿を消してしまい、一人残された俺は窓ガラスを濡らす雨を見ながら先程の言葉を反芻する。


"雨は悲しみや苦しみを洗い流してくれるんです"


(……嘘だ、そんなの……)

俺の苦しみは、雨なんかで洗い流せるモノじゃない。手に付いた紅が洗っても落ちないように、それは幾重にも重なって心を黒く覆い尽くす。

そんな風に考えて更に心が闇に覆われ始めた時、彼女が戻ってくる気配を感じた。

『……どうぞ』

コトン……と小さな音を立てテーブルに何か置かれたと同時に、ふわりと味噌の香りが鼻腔を擽る。

そこには茄子の味噌汁と、おむすびが二つ。


「………これ、」

『また食べたいと仰って下さったじゃないですか。それに疲れてる時こそ、食事を取ることが大切なんですよ』


ですから、どうぞ召し上がってください。

彼女にそう言われ、促されるまま口布を下げて味噌汁を口に含む。すると優しい味のそれが身体だけでなく心にまで染み入るように広がり、丸ごと満たされていく感覚に陥って。

ただの味噌汁なのに、なぜこんなにも―――


『……正直言うと、怖かったです』


小さな声が耳に届きそちらを向くと、澄んだ黒曜の瞳と視線が交わる。

その瞳に今の自分が映っていると考えただけで逸らしたい衝動に駆られたが、何故かそうする事ができずにただじっと見つめ合う。


『血を見たりカカシさんがした事を考えると、どうしても恐怖心が芽生えてしまって…でも、』

『……たとえ誰かの血で汚れたとしても、カカシさんの手は何かを…誰かを必死に守ってる。だから私は、カカシさんを軽蔑したりしません。それに…やっぱり私の目に映るカカシさんは、優しくて温かい人だから』


そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。

……それはまるで、優しい言葉の雨のように。
闇に覆われた俺の心に降り注いで。


―――"受け入れられた"―――


そう、思った時。
ストン――…と、心に何かが落ちてきた音。

同時に、アスマに言われた言葉が脳裏をよぎる。



―――・・・


「心にな、落ちんだよ。ストン、ってな」


―――・・・



「はは……なるほどね……、」
『どうしました?』
「いや……なんでもないよ」

座った状態のまま華奢な腕をそっと掴んで、彼女の身体に頭を預ける。ふわりと香るのはこの店で感じる米や出汁の匂い…そして、微かに彼女自身の匂いも混ざっていて。

『……カカシさ「ごめん、少しだけ……」

この汚れた手で抱き締めることは叶わない。
そんな度胸も資格も、今の俺にはない。


……けれど願うだけなら許されるだろうか。


いつか彼女の視線の先にあるものが俺になりますように……と。


    

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