ててご | ナノ



白い獣と赤い絆3

※3

 家族が家出をしてから、もう3日は経った。
家に帰っているならばよし、だが愛想を尽かされたのは悪し。何かしでかしたつもりはないのだから、問題は彼の心持ち。
もう帰ってこないとなればどうしよう。そんなことばかりが頭をよぎり、趣味も兼ねている生態観察にもかかわらず、身が入らなくなってしまった。
別れは唐突とは言うが、いくらなんでも唐突すぎる。なんせ、これからもずっと一緒にいられると信じて疑わなかったのだ。一方的に別れを告げられるのは不公平ではないだろうか。

「はぁ」

 渡せなかったネックレスを埃を被った寝床へと入れると、作業の机へと向かう。食事をとっていないが食べる気にもなれない。彼の好物だった赤く甘い実を摘んでは口へと運ぶ。甘酸っぱい香りが口の中にも広がり、じゅんと春の味が広がる。
体ほどある大きさの物を1人で食べるなど、贅沢な蝙蝠である。だが、随分とお気に召して噛み付いていたから、その姿を見ているだけで幸せになれたのだ。喜んでいる姿を見ているだけで、よかったのだ。

「また、会いたい……」

 誰に言うことでもなく、1人でぼやくしかない。
当たり前だったものを失うと、こうも脱力感に襲われるというのか。いつもそばにて、寒い冬のお供になってくれていた存在が今はどこにもいない。あの懐かしい高くて鈴のような声も聞こえない。無事なのか、まだ怪我をしていないかの安否すらわからない。謎だけを残して消えた彼を思い、目を閉じる。
確か、今日は研究の締め切りの日ではあるが、起き上がる気すらおきない。あの癒しの塊が消えてからずっと虚脱感に襲われ、手足に鉛が巻きついたようだ。食事も風呂も忘れてベッドの染みとなっていると、ノックもおざなりに玄関のドアが勢いよく開いたのだ。

「ルカ、約束の物を取りに来たよ」
「んー……」
「って、寝てたのか。できてるの?」
「できてないよ」
「はあ!?」

 約束は守る男ではあるが、トレイシーからの依頼すら蔑ろにして、天井のシミを数える作業に没頭中だ。指すらあげるのが億劫なのである。日課であった研究もおざなりになるし、踏んだり蹴ったりである。決して誰かのせいであるわけでもないのだが、思う事はある。立場が違えば、違う結末もあったのではないだろうか。
寝心地の悪い傷んだベッドから起き上がるそぶりを見せないことに不信感を抱き、そして違和感に気がついた。周囲を見回すのだが、機械、使い道のない金属の部品、そして古い紙の束と、日に焼けた古書の山。

「あれ? あの蝙蝠は」
「出ていった」

 そう、あの可愛いぬいぐるみのような蝙蝠がいない。溺愛っぷりは紹介してもらってからほんの数時間で理解はしたし、この死んだ目の原因は愛くるしいペットに違いない。
異種族の間にどれだけの絆が生まれていたのかは本人たちにもわからないが、客観的に見ても悪くなかったと思う。出会った日数がどれだけであってもだ。

「ご飯やるのサボったんじゃない?」
「ちゃんと毎日あげていたさ……」

 自分の食事を忘れたとしても、彼への食事を忘れたことはない。立ちくらみが起きようとも、毎日構わず血を与えていた。この可愛い雛鳥が巣立つまでは面倒を見ると決めたのだ。
自分のことは構わない。一体何を目的に生きているのかすら、なんのために研究を続けているのかすら思い出せないから。

「もう納期が近い。ハンターたちが集まってくる」
「そう、なのか」
「早く仕事を終わらせないとボクらの立場がなくなる」

 この仕事はただの仕事ではない。最終目的は危険な生物である、ヴァンパイアの退治にある。
ルカが生態を探り、トレイシーは武器を作る。2人は実力はあるのだが、人体組成や無人兵器など、危険な研究もしていた。その溢れ者を集めた捨て駒のような仕事である。完成すれば評価はされる。失敗すれば「性懲りもなく人災となる研究をしていた」とでっち上げられて刑務所行きだ。下手すれば処刑だってあり得る。
 決して、まともな仕事とは言えない。だが拒否権もない。腕と首についた錆びた銀の輪に触れると、ジャラリと鎖が嗤う。億劫な気分で机に向かうと、痛む頭を抱えては設計図へと向き直る。

「なぁ」
「ん?」
「吸血鬼は、本当に悪い存在なのか?」

 「今更何を」と呆れた顔をされたところで、問は撤回しない。実際に犯行現場を見たわけでもなく、実物と言葉をかわしすらしていない。声をかける前に姿を消してしまったのだ、後悔の暇すら与えずに。

「そんなこと、下請けの僕らには関係ない。例え害のない善人だったとしても、駆除の対象と言われたらそうするしかない」
「そうだけども」
「それとも、また牢屋に戻りたい? 貴方をそんな体にしたあの場所に」

 紫に腫れた目はいつまで経っても治る気配はない。触れても痛みはもうないが、幻想痛はいつでも起きる。
忘れられない、牢獄での陵辱の日々も脳裏に焼き付いている。大切なことは忘れてしまうというのに、都合の悪いことはずっと覚えている。人間の脳とは、つくづく我儘で、且恐怖心に弱い。

「……明日まで、待ってもらえるだろうか。君に迷惑はかけない」
「ギリギリだけど、いいよ。ボクからも説得してみる」

 多少口は悪いが、彼女は優しい。悩むそぶりも見せずに二つ返事をくれ、そのまま無言で立ち去っていく。
1人にして欲しいとまでバレているとは。想いに関しての女の勘とは恐ろしいものである。
今宵仕上げるのは、銀の銃だ。設計ミスがなく、感情という誤差もなければ、どんな化物もひとたまりもないだろう。

 作業に没頭すれば1日などすぐすぎる。集中していたのもある、娯楽が他になかったのもある。ただ、机を睨みつけては手を動かすのみ。一体何のために生き物を殺す兵器を作っているのかも忘却の彼方へと追いやられる。
時折襲いくる頭痛の波も、今は気にならない。頭を抑えている余裕も、感情もない。心を殺さなければ、利己的な理由で他者を殺めるための道具は作れない。最後のパーツを嵌め込めば出来上がり。自然ではあり得ない、歪で冷酷な形状に思わず目を細めて机へと突っ伏した。ゴン、と鈍い音が響いても関係ない。ただ一定の音を発しながら冷たさに目を瞑っていると、ふと小さな音が聞こえてくる。
木枯らしで飛ばされた葉っぱの音だろうか。いや、これは何か壁にでもぶつかるような音だ。それも、人工的な。
 コンコン。
ふたたび不自然な音が聞こえて、慌てて作業道具を机に叩きつける。部屋を見回したが変化はない。どこから音が聞こえたのだろうか。再びコンコンと聞こえて、慌てて振り返ると、窓の外に動く小さな毛玉を見つけたのだ。

「ピィ!」

 それは大きな耳を垂れ下がらせた雪玉。間違いない、ピィである。
「ピィ……」と小さく鳴いては、気まずそうに窓の外から涙目を向けてくる。拒絶する理由なんてない。慌てて滑る手で鍵をこじ開けると、両手を広げては引きずるように招き入れる。

「ああ、よかった! 元気そうでなにより!」

 すぐに飛び付いては、その小さな体を抱き上げた。が、何度も何度も鳴いては、硬い体を丸くするばかり。何か後ろめたいことがあるのだろう。ルカには何か被害を被ったなど、思い当たる節はない。心からの笑顔で頬へと手繰り寄せると、「ピィ」と切羽詰まった声が上がる。

「お腹は、空いていない?」

 慣れた動きで腰のナイフを握っては、指の腹に押し付けてはぷくりと美味しそうな赤い実が潰れ、鉄の匂いの果汁が溢れ出す。おずおずと顔をあげては舌を出し、衝動に逆らえないままに美酒に吸い付いた。
ちゅう、ちゅう、と飲み干さんばかりの強さで吸い上げ「ぴゃあ」と嬉しそうなか細い声。夢中になってちゅぱちゅぱと吸い付くところを見れば、最近食事を取っていなかったとわかる。満足するまで待とうと思ったのだが、急に小さく血の繋がりのない赤ん坊が羽を広げて飛び上がったのだ。慌てて部屋の周りを飛び回っていたと思えば、ドアの隙間を見つけて滑り込むように器用に潜り抜ける。
 いったいどうしたのだろうか。ただ、動けずに一連の様子を眺め、見守っていると扉がキィと控えめな音を立てて月光を招き入れる。現れたのは、いつぞかの細身の美青年だった。
何も言わずに見つめてくると思えば、睫毛を震わせて視線が床に泳ぐ。後ろめたいことがあっても関係ない、と笑顔を向けると至極優しい声で囁く。

「ピィ。おいで」

 両手を広げて迎え入れようとするが、壁から覗き込むだけで近づいてはこない。彼が飛び出した理由はわかっているつもりだ。それでも、知ったことではない。ルカも急に家族がいなくなったことで、不安に駆られていた。むしろ謝って欲しいとまで思っているくらいだ。

「ピィ」
「やめろ」
「ピィ」
「私にはジョゼフという名前がある!」

 思わず叫んでしまったが、怒りとは受け取らずに微笑みが漏れる。名前を知るというのは、これほどまでに嬉しいものなのか。満面の笑みで腕を広げては、初めて知った愛しい名を呼ぶのだ。

「ジョゼフ。おいで」

 言霊とは不思議だ。彼に真名を呼ばれてしまっては言うことを聞くなと言う方が無理は話である。人の姿を保ったまま、ふらふらと近づいては手を小さく折り畳んで胸の中へと飛びこむ。大きさや種族が変わっただけで、扱いは変わらない。いつもより小さな手で大雑把に撫でられる。毛が乱れるなんてお構いなしだ。
 しばらく何も言わずにお互いの熱を堪能していたのだが、頭を撫でる心地の良い体温が離れたことで顔を上げる。優しい笑顔を浮かべているのがまた心苦しい。目を泳がせていると、至極優しい音色で問うのだ。

「どうしていなくなったんだい?」
「君は、ヴァンパイアを探しにきたんだろう」
「そうか、ルキノたちの話を聞いていたのか」
「倒される予定もないし、手助けをするつもりもなかった」

 他人の体温を感じ、襲いくる眠気に対抗はしてみるが、全身を抱き込まれるという安心感には勝てない。トクン、トクン。興奮して動く心臓の音は心地よくて、優しさが暖かくて。服にしがみ付いては惚けた声を絞り出すが、ちゃんと聞こえてはいる。久しぶりの愛しい人の声を聞き逃すわけにはいかないのだ。

「本当に、それだけ?」

 あくまで慰めるように、諭すように。詰問にはならないような音色で尋ねると、ぐっと押し黙ってくぐもった声が服の隙間から漏れ出してくる。

「……怖くはなかったのか」
「何が?」
「私のことが」

 人外の存在というのは畏怖の対象になる。人知を超えた力というものは、手に負えずに忌避される。
この吸血鬼は、人に対してフレンドリーであるらしい。決して傷つけることを良しとせず、あくまでも中立を保っては人間の側にいたいと願う。腰から生えた細い羽を抱えるように体に巻きつけ、縮こまりながらも俯くのだ。

「怖くはないよ」
「吸血を始めてから、目に見えて顔色が悪くなった癖に」
「元からだけども」
「煩い。ずっと近くで見てきたのは誰だと思っている」

 を抓り、膨れっ面になるのは心配してくれているからだろう。不器用だが優しいヴァンパイアに心温まっていると、キュルルと小さな音が聞こえた。何の音かなんて野暮である。ルカの腹から聞こえた虫の声だ。

「また研究ばかりで食事を抜いたな」
「はは……面目ない」
「仕方がない。……何が食べたい」

 フっと漏れた笑いは、吸血鬼から。ゆっくりと身動ぎをして暖かい肉布団から飛び出すと、羽を広げて立ち上がるのだ。
もしかしてまた逃げてしまうのか、なんて心配はいらない。コートを壁にかけると襟首を整え、腕まくりをしながらキッチンへと足を向ける後ろ姿が見える。

「作ってくれる、のかな?」
「そうでもしないと食べないだろう」
「作れる、のかい?」
「貴様……」

 切れ長の目で睨まれて、思わず首を竦める。すぐさま気にも止めずに壁の向こうへと消えていったと思えば、ガチャガチャと金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。料理器具を漁っているらしい。

「前に作り置きをしただろう」
「あの時の料理は、君の?」
「他に貴様の面倒を見たがる者がいるのか」

 彼がいなくなる数日前に、いつの間にか用意されていた暖かい朝食が、つい昨日のように思い起こされる。
そうか、準備をしてくれたのはこの他人任せという言葉が似合う彼だったのか。目を瞬かせていると、思考を読まれたのか形のいい眉が眉間に皺を刻んでいく。

「よくも蔑ろにしてくれたな」
「すまなかった……誰の物かわからず、つい警戒してしまった」
「賢明な判断ではある」

 「確かに、得体のしれない料理を食うのは馬鹿だ」と大仰に頷く姿を見るに、意外にも怒ってはいないらしい。
すぐさま台所の探索に移ると、遠慮なく戸棚を開け放しては器具を物色するのだ。さながら泥棒のようである。

「相も変わらず、何もないな」
「料理なんてする気がなかったから」
「こんなことだからよく頭痛に苛まれるんだ」

 心配してもらうのはいつぶりだろうか。ゆっくりと台所へと入ると、近くにあった綺麗な作業着を身に付けると、髪を天頂で結う姿が見えた。
まるで愛しい恋人ができたようである。炊事場へ立つと、手慣れた動いで素材を選び抜くと、包丁を小刻みに動かし始める。
 トントントン。
いつもの機械の焦げ臭い匂いはしない。エプロンをつけて、料理をする後ろ姿に惚けて、つい幸福のため息が漏れてしまった。

「幸せだな、私は」
「は?」
「ありがとう」

 会いたかった人が帰ってきてくれた幸せに対する礼だが、伝わるはずはない。心底わけがわからない、というしかめ面をされたが、すぐに興味を無くして食材へと視線を移す。つい、作業を忘れて素朴な吸血鬼の後ろ姿を眺めていた。
可愛い、綺麗、愛しい。
聴き慣れた機械の音と、鉄の匂いとは違う、徐々に充満する美味しそうな香り。トントントン、とリズムよく刻まれていく食材が鍋へとくべられていく。創作というものは、見ていても楽しい。レコードを聞くかのようにうっとりと頬杖をついていると、険しい顔で振り返るのだ。

「仕事はどうした。終わったのか」
「うん?」
「いつも一心不乱に頭をかいていたじゃないか」

 まるで恋人のように仕事の心配されて、嬉しくないはずはない。だが、こんな多福感溢れる光景を前に、1人寂しく缶詰なんてできるわけもない。根を張ったかのように部屋に居座ると、うっとりと口角を上げては細い背中を見つめる。ゆらゆらと動く白い腰羽が何とも言えずセンシティブで、色気がある。
触れてもいいだろうか。手を伸ばそうとすれば邪な気を感じ取ったのだろうか。ビクンと肩を跳ねさせると、鋭い眼光で睨み付けられた。引きむすんだ唇を戦慄かせながらも、おたまを持つ姿では迫力もない。つい肉を緩めてしまえば、強い口調で罵られてしまった。これすらご褒美である。

「間抜け面め。腹が減ったのか」
「うーん、目の栄養補充かな」
「意味がわからん」

 説明したところで分かってもらえないだろう。「料理をしている姿すら絵になり、理想の愛妻の姿に見惚れてしまった」などと言えば、今度こそ愛想を尽かされて家から出て行ってしまう。それとも、もしかして?

「綺麗、だね」
「は?」
「見惚れていたんだよ」

 素直に容姿を褒めるが、照れるどころか呆れた顔で不快感で顔を歪める。手を止めるまでならいい、包丁を持ったままジト目で振り返られては愛想を尽かされるというレベルではない。このまま躊躇いもなく、虫でも見るような目で刺されてしまうのでは。不安と焦燥に駆られたが、心配には及ばずすぐに背中を向けて再び野菜へとその刃を向けるのだ。
トントントン。嵐の前の静けさなのだろうか。

「……女共と同じことを言う」
「わわ、気分を損ねたのなら謝るよ」
「綺麗でなければ、見ないのか」
「うん?」
「人間はわからん」

 ヴァンパイアの価値観というものもわからないのだが、お互い様である。
どうやら怒りの琴線に触れたわけでもなく、すぐさま料理という娯楽へと戻っていく。トントントントン。小気味良い音が再び鳴り響き、香ばしい肉の焼ける音と、野菜をかき混ぜる音が聞こえてきた。今日は野菜のスープとステーキなのだろうか。楽しみである。

「嫌いなものはないか」
「ないよ」

 手を動かすリズムは相変わらず変わらない。まるでワルツのように楽し気に、一定間隔でまな板の上で踊る。
もっと近づいてはいけないだろうか。ゆっくりと椅子を引くだけで、耳ざとくこちらを振り返るのだ。長い耳がピクピクと動くたびに、彼らは聴力に優れた種族なのだとわかる。
 彼の耳には、どんな声が聞こえているのだろうか。耳障りなのだろうか、心地よいのだろうか、それとも他の人間と大差ないのだろうか。
尋ねてはみたいが、怖いとも思う。きっと、人間の一個人に特別な感情を抱いたりはしない。行き過ぎた感情を向けると、拒絶される可能性だってある。今のままでいい。これ以上は望まない。

「私も、手伝うことは……」
「仕事をしろ。期限が近いのだろう」
「もう終わったよ」
「どうだか」

 鼻では笑うが無碍にはしない。全ての調理器具を火にかけたままに蓋をすると、ゆっくりとそばに寄ってきては目を閉じるのだ。
一体どうしたのだろうか。まだ朝には早いが、疲れたのだろうか。慌てて肩を抱きとめると色素の薄い、青白い唇を動かしては淡い桃色の光を帯びた、澄んだ瞳を向けてくるのだ。

「だからって、任せておくのも悪い」
「ならば、撫でてくれ」
「え」
「いつものように、撫でてくれ」

 その言葉と同時に、白い煙が上がる。美しい人の姿から、蝙蝠の愛らしい変身したのだ。唐突に姿が変わるものだから、思わず手を丸く窄めて受け止めると、我が物顔で特等席に体を埋めるのだ。
「ピィピィ」と鈴の音が転がるような鳴き声に、優しく頭を撫でてやるだけで嬉しそうに羽を震わせる。触られることは嫌ではなかったのだろうか。耳の後ろを撫でる度に、ピクピクと長い耳が動き嬉しそうに身動ぎする。気持ちがいいのだろう。
 「ジョゼフ」愛しさを込めて名前を呼ぶが返事はなく、代わりに親指の腹を噛み付かれてしまった。何か気に食わないことをしただろうか。慌てて机の上に置いて降参だと手をあげると、ゆっくりと近づいてきて再び肩の上までのしかかってくる。

「……ピィ?」

 元気よく「ピィ!」と返事をしたのは、蝙蝠の姿の時はこの安直な名前で呼んでくれということらしい。随分と可愛らしいお願いに、再び親指の腹で首を揉み込むように撫でてやる。羽を震わせ、喉を鳴らし、甘い息を吐き出す。どれだけの間そうしていただろうか。他意のない全身マッサージを入念に施すだけで、腹を見せて嬉しそうに体を震わせている。
 だか、鍋がコトコトとこの幸せな時間に釘をさす。さっきまでとろけた表情をしていたというのに、急に我に返ってバサバサと鍋の周りを旋回する。良い香りのする湯気を一身に浴びながら、すぐさま人の姿に戻って地面に降り立つと、先ほどの甘い時間が嘘のように真剣な表情をするのだ。なんとも切り替えの早い。
 鍋を開けるだけで、スープのいい匂いが部屋に充満する。しばらく鼻を動かし、香りを堪能していると思えば皿を並べては手際良く器へと注いでいく。

「できたぞ」

 机に並べられたのは、以前に置かれていたい製作者不明の料理と同じもの。男との独り身など、好きな食材しか置かないのだから仕方ないのだが、非常に栄養の偏ったものである。だが、咎めもせずに好物を並べてくれるところが彼の優しさ。いつの間にか家にはなかったトマトが加えられているが、気にしないことにする。

「あの時は、その、本当にすまなかった」
「しつこい」

 肩を無理やり椅子へと押し込められ、大人しく座ったのはいいが、思わず顔と見比べてしまう。やはり、料理人という柄でもないし、こんなお綺麗な貴族様が料理をするなど想像もできない。幸せな夢でも見せられているのだろうか。思わず手を握ったところで、これが現実なのだと自覚させられた。ああ、何と甘美な夢だろうか。
噛み締めていたいが、これ以上は彼の機嫌を損ねてしまう。指が机をたたき始めたのがいい例である。

「また食べないのか。口にねじ込んでもいいんだぞ」
「いや、もらうよ」

 猟奇的な言い方をしているが、それはもしや口を開けて食器を委ねれば食べさせてくれるということなのだろうか。淡い期待を抱いたところで、木でできたスプーンを手に取り真っ赤なスープを唇にあてがう。
ゴクリと喉に流し込むだけで、丁度いい塩加減。野菜の甘味を残しつつ、スパイスで味覚を刺激してくれる。彼の好みなのだろうか、いや、眺めていたが味見をしていた気配はない。ならば匙加減ということだろうか。ならば、今までの味見はどうしていたのだろうか。謎は尽きない。

「うん、美味しい!」
「当然だな」
「家にある食材で、こんな美味しいものができるなんて思いもしなかったよ」

 素直に思ったことを口にして褒めちぎれば、得意げに鼻を鳴らしては口の端を上げる。おだてても何もでてこないことはわかっているが、喜んでいるところを見るのは楽しい。上機嫌に鼻歌を歌い始めたところで気がついた。
 机の上にあるのは一人分。もしかしなくても、正面から見つめてくる料理人の前には何も皿は置いていないのだ。

「食べないのかい?」
「私たちにとって、人間の食事は栄養にならない」
「吸血が、食事?」
「栄養価は高いが、毎日の絶対不可欠な行為ではない」

 確かに、人間と同じものを食べているヴァンパイアは想像ができない。どうやら吸血は食事ではなく、娯楽に近いらしい。
退屈そうに、だが一心不乱にこちらを見つめてくる姿に、思わず罪悪感が湧いてしまった。作らせておいて、本人は食べられないなど、不公平ではないか。

「貴方の夜ご飯は、私の不健康な血でいいかな?」
「……蝙蝠の時と、量が違うぞ」
「いいよ。お腹いっぱいになるまでどうぞ」

 おずおずと手を伸ばしてくるものだから「遠慮するな」とずいと指を近づける。急に食いついてきたと思えば、ゆっくりゆっくりと牙を突き立てるのだ。なんだか焦らされている気さえする。
月光に照らされた横顔は、妖美で白い。少々血色の悪い唇が、血を吸い出すたびに赤く染まっていく様は、恐ろしくもあり、まるで完成に近く絵画を見せられているよう。人間の姿をしているが、やはり人間ではないのだ。この芸術作品は。
 指を舐め取りながら、唇を彩る姿はいつ見ても美しい。小さな舌で舐めとって治療もしてくれたところで、まっすぐ見上げられて気恥ずかしくなって目を逸らすしかできない。お互いに目を合わせず、なんとも言えない空気が流れたところで先に動いたのは白い蝙蝠の羽だった。フルフルと満足気に動くと、ケフンと小さく可愛らしいゲップを一つ。慌てて口を抑えても、しっかり耳まで届いておりクスクスと笑われてしまう。あくまでも弱い力で叩くと、「ごめんごめん」と破顔で言われるのだ。それでも、許してしまうのは彼に甘い証拠である。

「笑ってないで、冷める前に食べろ」
「うん。いただきます」

 人間が何を考えているかなんて、ヴァンパイアにはわからない。再び動き出した食器にやっと安堵した。
しかし、笑われるのも我慢はならないが、視線が合わないのも不安を駆られる。わざと身を寄せると、安心させるように頭を撫でてはくれるが、やはり視線は合うことがない。「もっと構ってくれ」と、膝へと手をおいたところで、やっとこちらを向いてくれて安堵した。いつもヘラヘラしている能天気男の、珍しく真剣で赤い顔の理由はわからないが。



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