ててご | ナノ



この理不尽で祝福されるゲームで 1

※オメガバ設定
※総受けチェイス
※右側サバイバーメイン(占、傭、囚、少し納)
※囚写オチ

 この荘園には、第二の性がある。それは、ゲームのルールの次に覚えさせられたことだ。
Ωとしての性の疼きと、αに対する絶対服従の姿勢に抗えない絶望感が、ここまで厄介なものだなんて話を聞くだけではわからなかった。
「ゲームに対するモチベーションのためだ」とは宣っていたが、これはもはや弊害に近いではないか。αとΩ。勝者と敗者。わかりやすくも理不尽なこの制度は、荘園での理不尽な遊戯と体現したものだった。

 どれだけ走っただろうか。その場でへたり込んでしまった場所が、寂れた村のどの辺りかわからない。腐葉土の匂いがやけに鼻につくが、いきり立ったαたちよりはマシである。
写真家のジョゼフは、今はΩである。発情期となる期間が近づくにつれ、他の者と顔を鉢合わせないようにしていたのだが、運悪く薬が切れたのだ。今日ほど神を呪いたくなった日はないだろう。補充をしに行こうと扉を開いただけで、匂いを嗅ぎつけた黄衣の王に追われ、次に女王が目の色を変えて現れた。女に迫られて逃げるというのもおしいことではあるが、目の色が違うのだ、誰だって逃げたくもなる。
 基本的にハンターにΩは少ない。とりあえずはβを含め全てを敵だと思った方いい。方向も確かめずに走りだすと、地面から触手が唐突に生えて獲物の位置を探って蠢くのだ。いつもは隠れた鼠を叩き落とすという目的に使用しているのだが、明らかに捕獲をするために這いずっている。捕まってしまえば、椅子に縛り付けられるだけではすまないだろう。
「どこにいったのかしら?」鼻歌混じりの転がるような声すら悪寒を感じ、慌てて側にあったタンスに隠れると、息を殺す。サバイバーたちを見つけ、追いかけ、捕まえることが生業の彼ら彼女らは、今は最大の敵。いかにして見つからないように逃げればいいのかと頭を回していると、唐突にヒールの音が近づいてきた。
この鼻歌と人間離れした背丈はリッパーではないだろうか。息を殺して小さな隙間から外の様子を伺っていたのだが、唐突に彼の足が止まる。目と鼻の先で、だ。

「Ωの匂いがしていますよ」

 囁かれた言葉は、何よりも絶望的で身の毛がよだつもの。勢いよく扉を開いてぶち当ててやろうとまで画策していたのだが、逆に扉を開けられて腕の中へと招き入れられてしまった。

「は、離せ!!」

 暴れようとも、人肌を感じて力が抜けてゆく。リッパーはβのはずなのだが、熱を持て余した体が、自然と火照ってしまうのだ。いつもの力も出せないし、逃げられるわけもない。
覚悟を決めなければいけないのだろうか。β相手にも抵抗が出来ず、上目遣いで睨みつけることしかできないのに、逃げだすことは出来ないだろう。音がするほど歯を食い縛ると、体が浮き上がり姫抱きをされたのだとわかった。

「逃がしてあげます。今の貴方は捕まえても面白くない」

 どういうつもりなのかは知らないが、狩りが好きな彼は色より娯楽らしい。それでも得体の知れない殺人鬼を完全に信用することなどできない。帯刀したサーベルの柄で無表情な仮面へと殴りかかろうとしたが、長い異形の爪で受け止められてしまった。

「なんですか。犯されたいんですか」
「そんなわけあるか……っ」
「なら、私の機嫌を損ねないことです」

 服を割いて腕に食い込む爪が、紳士の皮を被った彼の本性だ。精一杯睨みつけて、心だけでも負けてたまるかと抵抗を見せると満足げに笑った。

「逃げて、逃げて、逃げて。それでも逃げ場なんてないと絶望したら、私の元へいらっしゃい」

 「その時は、気が狂うまでお相手しますよ」いくら上品な成りを真似したところで、鋭利な狂気は隠れていない。改装された大きな館を出て、しな垂れた木々の並ぶ鬱蒼とした道を超えて、音程の外れた歌は続く。もう抵抗する気も起きずに身を委ねていると、本当に助けてくれる気はあるらしい。見覚えのある湖の近い村が見え、隠密のしやすい木々の中に下された。

「では無様に生き残ってくださいね。次捕まえた時は、貴方は私のモノになる」

 不気味な雰囲気で佇む村に、唐突な霧が現れて長身の男の姿を完全に覆い隠す。呪われた村の中にただ1人。今の状況で、これがどれだけありがたい状況だろうか。恐怖心よりも高揚する感情ではあったが、遠くから聞こえてくる話し声に血の気が抜けるのがわかる。
リッパーの跡をつけてきたハンターだろうか。それとも性格の悪い彼のことだから、なにか根回しをしていたというのか。そんなことはどうでもいい。見つかるわけにはいかないのだ。
 ゲーム以上に必死に走り回った普段は経験すらない、隠密行動もやってのけた。過ぎ去っていく、軽い革靴の音、ヒールの音。相手は誰だかわからないが、複数いるのだろう。普通通りに柵の中ではゲームも行われているのだろう。遠くからサイレンの音が鳴り響いていた。
いつもサバイバーたちは、いつ見つかるかもわからない恐怖の中にいるのか。刹那の同情心が湧いた。
緊張でドクドクとなる心音を押さえつけて、軽快な足音とαの匂いが消え去るのを待ち、ため息をつく。もう大丈夫だ、誰もいない。安堵から警戒心も厳かだったのが悪かった。急に背中から肩を叩かれたのだ。体が飛び上がるほど驚くに決まっている。

「ヒッ!」
「大丈夫かい? ゲーム中に、離れでも音がすると思ったんだ」
「貴方、は……」
「囚人さ。大丈夫、Ωだよ」

 人畜無害そうな無邪気な笑顔を浮かべる彼に、体の力が抜けてしまった。独特の匂いがしないし、むしろ焦げ臭い匂いがする。これは人間からしていい匂いなのか、いささか考えものだが今はどうでもいい。安心して股関節が抜けてしまったかのように力が入らず、腕だけで立ち上がろうとすれば汚れた手袋が向けられる。まるでダンスにでも誘うかのようなアプローチに、小さく頬を膨らませながらも手を重ねた。

「ふむ、ヒートがきているわけではないんだね」
「発情した奴らに追いかけられただけだ」
「それは……さぞ怖かっただろう」
「ふん。相手をすることが面倒だっただけさ」

 本当は余裕なんてなかった。強がっていないとどうにかなりそうだった。純粋に「それはすごいね」と賛辞を述べてくる彼に、少し拍子抜けをした。気が抜けたことで、思い出したかのように疼き始めた体に、短い舌打ちが漏れる。
すぐに気づかれたのは失敗だった。発情したΩの匂いは強烈だが、どうやら自分では気づかないらしい。どんどん熱くなる体が抑えられない。近くにはαがいないはずなのに、何故。
気を抜けば、だらしない表情を見られてしまう。細い腕で精一杯覆えば、打って変わって真剣な表情で告げられた。

「ヒートが、始まったのか」
「……構うな」
「今、他のΩも呼ぼう。ここで待っていてくれ」

 何やら手元からトランシーバーを取り出し始めたと思えば、ジジジと機械の音が聞こえてくる。いつもゲーム中に使う意思伝達の道具なのだろうか。近くで見ることのない道具をまじまじと見つめていると、1匹の鳥が囚人の肩に止まっては喉を鳴らした。

「お、いい人が来た」

 片目を瞑った小さなフクロウが囚人の肩に止まると、毛で覆われたフワフワの体をこすりつけてくる。そして、目の前の写真家に気がついて体を膨らませた。当然である、いつも主人を追い回して傷つける仇なのだから。
だが、賢い子である。弱っている彼の姿を見て、襲い掛かることもせずに周囲に目配せを始めた。敵は、蹲って震えている彼ではなく、他のハンターなのだと認識しているのだ。
しばらくしても、嫌な予感はせずに、代わりに近づいてきたのはブーツが床を叩く慎重な音。顔をのぞかせたのは、フードを深く被り目を覆った1人の男だった。

「バルサー。試合は終わったのにどうしたんだい? そこにいるのは……写真家のジョゼフ?」
「いいところに! イライ、彼を介抱してあげてくれないか」
「まさか、ヒート!? 君は大丈夫なのか?」

 訝しげに視線を向けると、囚人は大仰な素振りを見せるのだ。

「おっと、その話は後だ」
「まさか、君って人は……」
「違う違う、そうじゃない。彼とは何もない」
「? Ω同士では、何もないと……」
「そうだ、大丈夫なんだ。だから、落ち着くまで彼と居てくれ」

 まるで子供を慰め、柔らかい銀の髪を優しく撫でられる。心地よくて、落ち着いて、目を細めて口角が上がっていくのが見えた。
力の抜けた彼に肩を貸す占い師。助けようと寄り添おうとしたら「貴方は来ない方がいい」と制された。
それには激しく賛同する。素直に頷くと、小屋の入り口に板を倒して地下の入り口も鉄板でカモフラージュを施し、見張りに徹することにした。
 大丈夫だ。占い師はΩであり、真面目で優しい人だ。何か間違いが起きることはない。彼は性根が真面目でもあるし、安心して任せることができる。膝を抱えて、漂う甘い香りから逃げるように顔を埋めると、土と埃のカビ臭い匂い。そういえば、この服を洗ったのがいつだったのか覚えていない。ずっと、汚く薄暗い独房の中にいたのだから、気にすることもなかった。

「初めて、あんなに強烈なΩの匂いを嗅いだな……」

 華奢な体に幼い風貌。60を超える初老の男性ではあるが、彼もまたハンターとしての特殊な力で姿を若々しく保っていると聞いている。そんな彼のことを、可愛らしいと思うのは間違ってはいないと思う。先ほどの安心した笑顔が忘れられない。ガラス玉のような、空色の目が涙に濡れて、まるで宝石のようだった。
サバイバーたちはエミリーもいるし、皆で助け合う意思はあるのだが、如何せんハンターたちの仲間事情はわからない。今の彼の姿を見て、利己的なものだというのはわかった。

「あまりにも理不尽じゃないか……勝手性壁を決められて、振り回されるなんて」

 彼は、きっと異性愛者だ。それなのに、望まぬ同性からも性的な対象として見られることは、屈辱であり恐怖でしかないだろう。
今はきっと、αとΩという関係により人肌が恋しくなっているのだ。だから、彼に対して不純か感情を抱くのも仕方ないのかもしれない。それでも、彼にその想いを一方的に押し付けるのは傷口を抉るだけである。
 きっと、このゲームをないがしろにした贖罪の時間が終われば、彼の性も変わる。そうすれば、この感情も治るはずなのだから。
コツコツ、と地面を駆けるヒールの音に顔を上げると、そこには顔色を青くしたエミリーが立っていた。

「何があったの?」
「ああ、実は写真家がヒート状態なんだ」
「大変!」

 彼女は唯一Ωの薬を調合できる功労者であり、βでもある。真っ青になりながら懐から予備の薬を取り出し、地下へと潜っていくのを見送った。
抑制剤をいつも持ち歩いているとは、さすがである。これで彼も落ち着いてくれるだろうか。苦しみ、浅ましい熱に吐き気を催しているであろう彼を思うと、体が動かない。
 少しずつ薄まる匂いではあるが、体の熱は上がる一方である。すっかり立ち上がってしまった浅ましい感情を見つめると、深くため息をついてその場を後にした。
 ここにいてはいけない。



 不真面目な試合をするとデメリットがある。この施策は、ハンターとサバイバーの向上心を刺激するために非常に効力を発揮した。
試合の勝率によって、第二の性が設定されるというふざけたプログラム。一番優秀な者達はαに、半分を下回る者達はΩ、他のものはβとされていた。
期間は一定区切りではあるが、それでも永遠に近い拷問のようだとも思う。特にα相手に過敏に反応し、発情してしまうΩは格好の色欲の獲物。好きでもない相手でも抵抗ができなくなり、理性まで失ってしまう。医師が庭師を守るために、一緒にチームを組んで頑張っているのはその性である。そこまで、この荘園の呪いは恐ろしい。
 写真家は実力者である。だが今回は運悪くΩになってしまった。それだけである。数回の失態で、こんなことになるなんて思っても見なかった。屋敷にいるだけでα達に追いかけ回されるわ、妙に身体接触をされたと思えば手篭めにされかけるわ、散々である。なんとか理性を繋いでは来れたのだが、Ωのヒートが来てしまえば抗えなくなる。次の査定までに、2回は来るはずである。
もうこんなカースト最下層に落ちるものか。自分自身で叱咤しながら4人目を椅子に縛り付けたところで、そういえば助けてくれた面々を見ていないことに気がついた。
お礼周りをしておこう。貴族としては礼も重要だ。剣についた糸くずを振り払い、ゲーム終了のサイレンの音を聞きながら荘園を後にした。
 やってきたのはハンター達の屋敷ではない、サバイバー達の寝泊まりする屋敷である。広く古びたエントランスへと入ると、まず出会ったのは医師のエミリー。大きな目を更に丸くしていたが、怖がらずに降りてきて真剣な表情で小声で告げてきたのだ。「Ωの薬、いつでも用意しておくから」と。
デリケートな話に顔を赤らめると、咳払いで空気を濁して周囲を見回した。
 もしかしたら、もう皆の耳に入っているかもしれないが「Ωだ」と知られることには抵抗がある。誰も人影が見えないことに安心して、再び彼女を見つめると、困ったように微笑まれた。
「大丈夫よ。あの場にいた人しか貴方のことは知らないわ」と。

「それで、何のご用件かしら?」
「前に助けてくれた貴女と、2人にお礼を言いに」
「2人……なら、バルサーさんには気をつけて」
「気をつけて?」

 仲間であるのに奇妙なことをいうものだ。人畜無害な実験オタクとしか思えない彼が、何か悪さを働くのだろうか。
首を傾げて次の言葉を待っていると、ためらうように小さな口が開かれた。

「彼はαだから。この前に間違いがなかったようで、安心しているくらいなの」
「え?」

 一体、何を言っているのだろうか。彼は、自らのことを「Ωだ」と言っていた。それに、発情フェロモンに当てられても平然としていたはず。

「もしかして、聞いていなかったの?」
「あ、ああ」
「……本当に、何もなかった?」
「親切にしてくれて、助かったくらいだ」

 あの時は、ハンターたちのαの強い気に当てられて、鼻が麻痺をして気が動転していた。
体が熱い、頭が痛い、甘い匂い、人肌が欲しい、αがほしい、子を孕みたい。
忌々しい欲望に支配されて、感情が管理できなかったくらいだ。そのために、彼に対して危機感を覚えている暇がなかった。「Ωだ」と聞いて、安堵して体の力が抜けてしまったほどである。言霊の力とは、凄まじい。

「彼らの部屋を教えてくれるかな?」
「1人で密室へ行くのはおすすめしないわ」
「貴女の薬を信用しているのですよ、ミス・エミリー」

 仰々しく優雅に一礼をしてみせても、彼女の顔色は晴れないままだ。薬を飲んだところで、完全に体質が改善されたら苦労はない。ましては、万が一番だった場合、相手に対して強制的にヒートが起きてしまう。どれだけ我慢をしようとも関係がない。ただ、肉体関係だけを志願する発情期の獣のようになってしまうだろう。
それでも。

「何かあったら、傷つけない程度に抵抗をしよう」
「……挨拶だけよ」

 先生も案外精神論を信じているらしい。頭を抱えながらも了承してくれたことに、深々と礼をすると教えられた番号を記憶する。
歩き去る背を見送る目は、不安と戸惑いに染まっていた。それでも、それ以上に緊張と畏怖に強張る顔を見て止められるわけはない。
貴族であったという彼は、どうにも生真面目で礼儀正しい。対戦相手のサバイバーだとしても、敬意と礼節は大切にしたいのかもしれない。そんな気質を否定するわけにもいかず、ため息をつく。

「あの人、自分のことを黙って彼に近づいていたのね。何もなければいいけれど」



 名前の紙が、粗雑に貼られた木の扉の前に、彼はいた。
捻くれ者が書いたものでなければ、ここが「バルサー」の部屋で間違いはないだろう。控えめに扉をノックしても反応はない。研究好きは熱中すると時間感覚がなくなるのだ、経験があるためよくわかっている。それとも、眠っているのかもと憶測を立ててもう一度ドアを叩いてみる。次に音沙汰がなければ出直そう。そう決意してコン、コンとリズムを刻んだ時だった。中から物音がしたのは。
しばらくして足を引きずる音が響き、ドアの前で止まるとゆっくりと開かれた。

「はい……」

 現れたのは、だらしなく無造作な頭をかきむしる囚人だった。服は乱れていないが、襟首のボタンが開いていて白い鎖骨が覗いている。なぜだろうか、気まずくて目をそらせば小さいくしゃみと共に、彼の視線が動き出した。
眠そうに欠伸を噛み殺し、ゆっくりと足元から視線を走らせていく度に、顔色が青ざめていくのがわかった。

「ま、待ってくれ! 貴方がくることは聞いていないぞ!」
「伝えていなかったからね」
「ち、ちょっと待ってくれないか!」

 部屋の中から、何やら騒がしい音が聞こえて思わず笑ってしまった。まるで思春期の少年が何かを隠しているかのような、ドタンバタンと激しい運動音が聞こえてきたが、気にしないふりをしよう。
どれだけ経ったかなんて、お気に入りの写真を指先で回していたから気にもならなかった。やっと開いた扉からは、幾分かマシな身なりにはなったが、髪の乱れた彼が息も荒く顔をだした。

「待たせ、たね」
「ふむ、客人を待たせるのは感心しないな」
「招かざるお客様なんだが……。で、要件というのはなんだい?」
「君は、いつまでも私を立たせておくつもりなのかな?」

 ゆっくりと伝えたいことも、言ってやりたい文句もあるのだ。コツコツとヒールで床を不機嫌に叩けば、赤かった顔があっという間に青くなる。

「へ、部屋に入るのかい!?」
「ダメなのかな?」
「いや、すごく散らかっているからね……貴方には不快だと思うよ」
「元より期待はしていないさ」
「それに、2人きりだと」
「知っている。貴方はαなのだろう?」

 先に仕掛けてやれば、罰が悪そうに視線を落とし、乱雑に頭をかきむしる。
別段怒っているわけでもないし、詰問をするために来たわけじゃない。だが、素直になんて教えてやらない。困っている彼を見るのも愉快であるし、写真家のために頭を悩ませているという状況が心地よい。それに、彼の特殊体質について興味を持ったというのが一番の理由である。
あの命がけの鬼ごっこをしていた時、彼からαの匂いがしなかった。お互いに平常心を保っていたということは、なんらかのαへの対策を練ることができるのではないか。何かあってからでは危険な賭けではあるが、大人しそうな彼なら大丈夫ではないだろうかという、少なからずの侮りもある。
 動かない間に脇を抜けると、言った通りの散らかった部屋へと入り込めた。何に使うかわからない機械の部品と、使い古された金具たち、走り書きのメモは呪文のようで読解は不可能である。
空の食器が置いてあるところを見ると、食事すら忘れて研究に没頭しているらしい。確かに汚れているとは思うが、研究者ならよくあるのではないだろうか。使用人が減ってきた時、私の部屋も散らかっていたことがある、と生前の記憶を思い出してしまった。

「騙すつもりはなかったんだ! でも、あの時に真実を告げれば、貴方は怯えてしまっただろう?」
「きっと、そうだっただろう。そのことに関して、礼を言いに来た」

 丁寧に頭を下げれば、まるで天変地異の前触れのように驚いた顔をするではないか。
貴族であるために礼儀に対してうるさい口だ。なのに「常識が備わっていたのか」と蛮族のように扱うのは失礼極まりない。ハンターといえども、元は人間。血も涙もない怪物とは違うのだ。あの邪神以外は、きっと。
怒る気にもなれず、唯一綺麗に物が置かれていないベッドへと座ると、対面にある離れた椅子へと座る。隣に座ればいいだろうに、如何あっても距離は置きたいらしい。

「しかし、貴方はヒートの匂いを嗅いでも大丈夫だったのか?」
「うーん、電気体質のせいで他の皆とは違うのかもしれない」

 「薬も飲んでいるしね」と悠々と告げる姿に、なんだか胸がざわざわと湧き立ってきた。
相手をαだと知って意識してしまったというのだろうか。それでも、まだ理性は焼き切れる気配はない。まだ、大丈夫だ。他の獣のような者たちよりは、恐怖も感じない。

「君は機械に精通しているのだったね」
「そうだとも」
「なら、新しいカメラを作ってくれないか?」
「私に?」

 作ることに関して断る理由はない。だが、如何せん帯電体質なのだ。精密な機械になると、どうなるかはわからないために素直に頷けない自分がいる。
答えあぐねているのも無理はない。

「わかった。やってみるとしよう。出来上がったらそちらへ届けるよ」
「いや、待たせてもらう」

 悪戯に笑えば、相対的に困惑する彼が愉快である。青い顔で後ろへとひっくり返るかと思うくらい勢いよく立ち上がると、すぐに椅子へと戻る。そんなに動揺しなくてもいいではないか。少なくとも、好意を持っているからこそ残ると言っているのに。もっと、彼のことを知りたいのだ。
 そんな心中など知らず、囚人は慌てていた。確かにΩの匂いには他のαよりは疎い。今まで間違いが起きたこともない。それでも、密室で2人きりなど正気の沙汰ではない。相手はハンターであれども、性には逆らえない。現にいまヒートが起きてしまえば抵抗が出来ないままにあられもない姿にされてしまうのはわかっているだろうに。それでも彼は持ち前の強情さで居座ろうとするのだ。

「そんなにすぐできるものでは……」
「デザインや機能に関して話をしたい」
「しかし、一緒にいたら貴方のことを」

 甘い匂いは止めどなく部屋に充満する。ゆっくりと、満潮を呼ぶ波のように、淡々と潮のように理性という陸を覆っていく。
触れたい。抱き寄せたい。身を包んでいる上品な服を無残に取り去り、その白い髪と肌を汚してしまいたい。腹に子種を入れて、孕ませて、それから。
囚人には写真家が何を考えているのかはわからないが、獣のように荒くれた煩悩が理性を食い尽くすのも時間の問題。
この、美しい彼を手篭めにしてしまいたい。

「私を誰だと思っているのかね? 写真家こと、ハンターのジョゼフ=デソルニエーズだ」
「フフ、これは恐ろしい」

 甘えるような、Ωの甘い匂いが鼻腔を擽り誘ってくる。この蠱惑的な誘惑と頭を支配するどす黒い欲望に、果たして一晩耐えきれるのだろうか。頬を張り、気合を入れ直すと彼に背を向けて机を睨みつけた。
ああ、この凶暴な感情に身を委ねれば楽になれるのだろうか。男が魅力的に見えたことなどなかった為に、恐怖すら感じる。「何も起きませんように」そう神に祈るしかなかった。




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