ててご | ナノ



この理不尽で祝福されるゲームで 2




 どれだけ眠っていたのだろうか。目の前にある机は自室にあるものではなく、機械が積まれて古い印象を持つ質素なものだ。別の人の部屋だということは、寝起きの頭でも理解ができたが、果たして誰の部屋だっただろうか。思い出そうとして、油の匂いに眉をよせた。
 そうだ。あの研究好きな囚人だ。依頼したカメラを作っていた彼の姿はなく、転げ落ちるように後ろへ引かれた椅子があるだけだ。
汗をかき、肌に張り付いた服を引っ張り、風の通り道を作ってやるだけで冷たさに体を震わせた。
紐解いていた長くウェーブのかかった白い髪をシュシュで結い、素足をベッドの下については周囲を見回し彼を探す。
恥ずかしいことではあるが、ここはαの部屋。安堵して眠っていた自分の神経にも疑う。だが、体に痛みが走らないことからまだ彼との関係は潔白であるらしい。
 決して関係を結ぶことを期待していたわけではない。それでも「つまらない」という言葉が脳裏をよぎったのは確かな事実である。
上着を羽織らず、シャツ一枚というラフな格好でベッドを抜け出すと、部屋の主人を探して部屋履きに足を通した。
必要最低限の、寝泊りができる程度の部屋だ。隠れられる場所は全て探したし、遠くから聞こえてくる水音しか思い当たる節はない。
風呂場を覗き込むと、へたり込んで一心不乱に雨を浴びる彼がいた。

「はっ、はぁ……」

 ベチャベチャと粘着質な音の二重奏が聞こえてくる。もしかしなくとも、彼はずっとここでΩのフェロモンに耐えていたのではないか。
シャワーを浴びながらもひたすら猛る雄を鎮めようと、一心不乱に手を動かす様に思わず唾を飲み込んだ。

「うう、はっ……」

 自慰をしたところで、肉食獣に草を与えて空腹を紛らすようなものだ。この程度では満足できるはずがない。α出会った時に、写真家もこの不条理の経験をしたことはある。それほど、αとΩの呪いは強い。
磁石のように惹かれそうになり、慌てて後ずさったことで近くの脱衣所の籠を蹴飛ばした。音にすら敏感になり、すぐさま顔を上げる彼に、怖気づいてしまった。熱に濡れた目は獣のようにどう猛で、獲物を見つめている。

「あ……」

 紅潮したに、犬のように断続的な呼吸。血走った目で睨まれて動けなくなってしまった。
これが、αに従属してしまうΩの性か。理解した時にはもう遅く、捕まるのを待つだけの無力な獲物。しかし、肉食獣は部屋から出てこない。扉すら開け放たれているというのに、極上の餌を前にして尻込みをしているのだ。

「今、来ては、いけないっ」

 それどころか、背を向けて姿を見ないようにと抵抗をする。震える体を見れば、その我慢がどれだけ精神を摩耗させているのかはわかる。ザアアアアとシャワーから降り注ぐ冷たい雨の音だけが、理性を繋ぎ止めてくれた。
ドクン。

「私は、君ならばいいと思っている」
「は?」
「君に、抱かれてもいいと言っているんだ……」

 もう、我慢できなくなった。必死で運命に抗おうとする彼が、愛おしく思えた。もう実験などやめにして、楽になりたいと思った。それに、奥手な彼だ、酷いことはしないだろうという願望が湧き上がる。
服のままにシャワー室へと一歩、一歩と踏み込めば、ふわりと曲線を描く髪が張り付いてゆく。濡れた唇が扇情的で、化粧でもしているかのように瑞々しく、彼の飢えた視線を釘付けにしている。

「ほしい、ほしいんだ……熱いものが」

 疼いてしまった体は、浅ましく雄を求めてしまう。ヒートは過ぎたはずなのに、αの欲情に煽られてフェロモンが溢れ出す。
水蒸気に触れて、透けた胸や存在を誇張する局部へ視線が突き刺さっているのも、百も承知だ。だが、恥よりも前に興奮でゾクゾクしてしまう。見られている、彼を興奮させている。齢60を過ぎているというのに、まだ魅力があると公言されているようなものだ。嬉しい、とさえ思えてしまう。

「私を、抱いてみないか……?」

 普段は決して口に出さない言葉が、自然と漏れ出てしまう。直接的な隠語に、また彼が高ぶるのが目に映った。腰を揺らしながら、女豹のように迫っていけば、獲物は慌てて壁へと後ずさる。これではどちらが優位種かわかったものじゃない。
冷たいタイルに背中を打ち付け、悟ったように目を固く瞑ったが、意思の強い目がこちらを射抜いた。
心に、強い衝撃が走った。

「だ、ダメだっ!」

 最後の理性を電気とともに放電すれば、チクリとした痛みが全身に広がる。ここは水場だ。調節を誤れば2人ともただではすまない。
現に、ゲームでは何度も食らっている電気を浴びて、彼は短い悲鳴を浴びて倒れ込んでしまった。

「す、すまない……」

 声をかけても返事はない。目を剥いてしまった彼の細い体を抱き上げると、慌ててタオルで体を包み込んでは濡れた髪を額から払いのける。
ああ、人形のように美しく、水に流されることない甘い香り。だが欲情なんてしていられない。運悪く、何か脳に異常をきたしたかもしれないのだ。早くエミリーに見せなければと、慌ててベッドに寝かす。
 着替えなければ風邪を引く。だが、今の状態で彼の裸体を見ればどうなるかわからない。
目を瞑る? 服を着たまま乾かす? それとも、またΩに助けを求める?
最善の答えは出てこない。時間が経つにつれ、目を覚まさない彼に対しての焦りだけが湧き出して、冷静さが摩耗していく。

「やっぱり、誰かΩをーーー」

 駆け出そうとベッドのさんを手で押すと、いきなり二の腕を掴まれてしまった。
視線で追うと、そこには半分目を開いた被害者の姿。混濁としているが、意識は戻っているらしい。徐々に回復する彼の怪力に、痛みと安堵が入り混じる。

「あ、う、ここは」
「ああ、よかった! このまま目を覚まさなければ、どうしようかと!」

 手を握ろうとして、やめた。汚れた手では彼を穢してしまう。すぐさま水を取りに行こうと立ち上がったのだが、強い力のせいで動くことができない。

「どこに、」
「喉が渇いていないかな? 取ってくるから、離して欲しい」
「ちゃんと、戻ってくるの?」

 なんだかふわふわとした、幼い口調ではないか。迷子がはぐれないようにと、必死にすがりついてくる姿を連想させられ、過保護欲が湧き上がってしまう。ゆっくりと、手を伸ばしたところで慌てて頭を支配するどす黒い欲望を振り払う。
「今は電撃で頭もまともに動いてはいまい。このまま手足を押さえつけて、犯してしまえ」と、声が聞こえてくるのだ。

「大丈夫。戻ってくるよ」
「よかった……」

 安堵して手を離してくれたところで、急いで水を取りに行く。小さく咲いた花のように、可愛らしく儚げで摘み取りたくなってしまう。
ああ、これは薬が切れたせいだ。2人分の薬を取ると、1つを自らの口へと放り込む。もう1つはコップとともに横たわる彼の枕元に置きに行くと、姿を見せた瞬間に彼と目があった。ずっと、姿を追っていたのだろうか。いじらしい行動に胸が高鳴ってしまう。
 水だけを置いて立ち去ろうとすれば、また腕を掴まれる。「どこに行くんだ」と詰問されているのはわかっているが、答える気にはなれなかった。「別の誰かの部屋へ避難する」など言えば、彼は不安な表情を浮かべるのだろう。
悲しませたいわけではない。泣かせたくはない。啼かせたい、いや、ダメだ。それだけは絶対に。

「私たちは、ただαとΩとして発情してしまっているだけだ……気高い貴方は、きっと後悔する」
「そ、んな、こと」
「部屋は好きに使ってくれて構わない。だから、休んで欲しい」
「だって、ぼくは」
「一緒にいては、いけないよ」

 抗体がなくなったことで、どんどん強くなるΩの香り。薬を飲むようにと強要するが、荒く断続的になる呼吸はもう彼が冷静ではないという証だった。急いで水を勧めてやれば、瑞々しい形のよい小さな唇が小さな言葉を紡ぐ。「飲ませてくれ」と。

「ならば、口を開いて」
「きす、で」
「ダメだ。お互いに体液を交換すると、どんな作用が現れるかわかったものじゃない」

 せめてもと指で口の中へと押し付けると、舌先を覗かせて目を閉じるのだ。キスをせがむ姫のように、睫毛を震わせながらを赤らめる。それでも、望んでいるぬくもりは降りてこない。無骨な指が口内へと小さな錠剤を押し込むと、冷たい水が下唇に充てがわれた。渋々と薬を流し込めば、年下の彼にあやすかのように頭を撫でられた。

「早く、解放されればいいのに」
「るか」
「辛いだろう」
「くるしい、よ」
「私が代われるならば、代わりたいが」
「だいて……」
「ぐっ、それはダメなんだ」

 頭からシーツを被せられて、視界が闇に覆われる。慌てて取り払った頃には、彼の姿が見当たらない。足跡を追おうとしても、ゲームではないからそんなものはなく、遠くへと去っていく足音が廊下から聞こえてくるだけだ。
甘い痺れに犯された頭では、立ち上がることもできはしない。薬も飲み込めずに吐き出してしまうと、また足音が響くのだけはわかった。彼が帰ってきた? 慌てた足音はこの部屋へと真っ直ぐやってきて、ためらいなく扉を開いたのだ。
 入れ替わりでやってきたのは、占い師である。寝るときまで目の覆いをしていたのかは知らないが、青い顔をして枕元まで走ってきては、すぐさま水と薬を口に含んで流し込んできた。
熱い舌を差し出せば、触れた瞬間にシャイな彼は逃げてしまう。薬と水だけを渡し終えると、すぐに頭を離して綺麗な布で口元を拭ってくれた。
喉が動いて嚥下したことを確認すると、安心したように深く息をついては濡れたシャツに手をかけてきた。

「落ち着いた、かな」
「彼、は?」
「私を呼びにきた」

 下心がないことはわかっているから、好きにさせておく。αの香りが薄れてきたことで冷静になったこともあり、自分の状況を理解して青ざめる。
先ほど、何かとんでもないことを口走ったのではないだろうか。やはり、αの部屋にいたのがまずかった。それでも、後悔はしないし万が一襲われていても報復するつもりもない。
ああ、この感情はいつぶりだろうか。人肌が恋しいと思ったのは、そばにいたいと思える存在が現れたのは。促されるままにゆっくり上体を起こせば、甲斐甲斐しく風呂で浴びたシャワーを拭き取ってくれる。

「前にも、助けてもらったことに礼を言いたかった」
「私は気にしてないからいいんだ。ええっと、ルカとは何もないのかい?」

 皆執拗に同じ男の話題を出すが、仕方はないだろう。ましてや、ゲームで冷淡に人を実験動物でも見る目で見下す写真家が、サバイバーに心を許してしまっているとは思いもしないだろう。そんな冷淡な彼に、かいがいしく尽くす姿はなんとも滑稽だった。
「下も脱いで欲しいが……」と躊躇いがちに言われたが、男同士で、Ω同士でもある。恥ずかしがることもないだろう。言われるがまま取り去ると、吐き出せずに燻り猛る逸物が天井を指した。

「あ、その、すまない」
「何故、謝るのかな」
「体を拭けばすぐに出ていくから、その」
「貴方もΩだろう。気にすることはない」

 気を遣われるとそちらのほうが辛いものがある。初に泳ぐ目を冷ややかに見つめてしまう。
処理は後ですればいいし、今は濡れた体を拭くことだ。まだ衝撃が頭に残っているが、構わずに立ち上がれば案の定膝から力が抜けたように崩れ落ちてしまった。咄嗟に腰を支える占い師と、小さな体ながら支えようと足に寄り添う梟。こういう優しい輩は、今まで苦労してきたんだろうと、場違いに冷静な思考が過ぎったが、体に力は戻らない。

「無理はしないほうがいい。もうすぐエミリー女医もくる」
「レディーがくるなら、なんとか処理しておかないと」
「体は拭いて、浴槽まで運ぼう」

 見えすぎる彼は、服を着ていてもいなくても関係ないのかもしれない。上ずった声と、赤いを見ていると、ついからかいたくなってしまった。

「それとも、貴方が手伝ってくれる、とか」

 小悪魔の笑みを浮かべて迫ってみれば、急に背中から冷たい床へと落下する羽目になった。からかったのは悪いとは思わなくはないが、急に手を離すのはひどいではないか。毛を逆立てる彼の相棒にも突かれるし、彼で遊ぶとろくなことがなさそうである。

「そんな、Ω同士だからと言って」
「冗談さ。本気にしないでくれたまえ。でも、何も起きないからこそ、というのもあるが」

 人前で自慰をすることに恥はあるが、いちいち感情を動かすほどの年でもない。
ゆっくりと立ち上がって思い腰でベッドの端へとなんとか座ると、今だに目の前で恥辱に震える彼を見上げた。いつまで棒立ちでいるのかは知らないが、色ごとに耐性がないというのも困りものである。心配そうに相棒がを突こうとも反応を返しすらしない。
虐めすぎたのだろうか。心ここに在らずで完全に硬直してしまった彼の前で手を触れば、やっと息を飲んだことで戻っては来てくれたらしい。

「わかった。では声を抑えててくれ」
「なんの話だ?」

 一体何をするのかと思いきや、急に下半身が外界に晒された感覚に襲われた。許可もなく引き下ろされた下着に文句をいうことは許されるだろう。乱暴に頭を鷲掴みにして止めようとしたのだが、感度が倍増している急所を握られてはたまらない。
脈打つように襲い来る快楽の嵐に襲われ、顔を隠しながら腕に噛み付くしかできない。情けない声は絶対にあげるものか、と自らの腕に歯を立てていると、急に手で荒々しく擦る力がなくなった。我慢汁が溢れ出したところで止めるとは、なかなか鬼畜ではないか。指の間から弱々しい、恨めしい光を纏った青い宝石を覗かせると、とんでもない光景が見えたのだ。

「ん……」
「まっ、待って! そんな、口で……うっ!」

 なんと、躊躇いなく脈打つ巨大な雄を口に含んだのだ。亀頭しゃぶり、裏筋を舐めてと巧みな舌遣いに翻弄されては視界も虚ろになってきた。
性行為自体気が向いた時の処理としか思っていなかったし、いままで排泄器を舐めさせたことなどなかった。
柔らかい舌が痛々しいほど赤く勃起した巨塔を包み、粘膜を擦り付けられる度に腰を突き出してしまう。

「出るっ」

 子供のような甲高い悲鳴と同時に、深くくわえ込まれて歯を突き立てられた。噛みちぎらんばかりの勢いではなく、ピリリとした香辛料が沁みる程度の刺激だったが、敏感になった体には十分すぎる刺激だった。目の前がフラッシュに当てられた時のように点滅し、仰け反りながらもベッドへと倒れ込むという醜態を晒す羽目になった。
聞こえるのは、荒い息遣いと、躊躇いなく生臭く濃い性を嚥下する音。まさか男に奉仕されるとは思っても見なかったから、信じられないものを見る目で見つめてしまった。

「はあ、随分と慣れているな……」
「恋人がいる」
「女性では、なく?」
「今は、ね」

 含みのある笑いは、なんとも言えず面妖で。つい彼の首を見ると、視線に気づいてか手で隠す仕草を見せる。これが答えだと思っていいだろう。彼には、番いがいるのだと。

「相手は、男なのかい?」
「そうだよ」
「番いになると、抗えないと聞くが」
「私も納得している相手だから。例え性が変わっても、きっと後悔はしない」

 そこまで信を置いている相手ならよかった、と他人のことながら思う。
もし、身体だけが目的の変態に捕まりでもしたらと考えるだけで、心中を察してしまう。早く、番いを見つけた方がいいのだろうか。いや、誰かに抱かれることなんてごめん被る。一瞬でも過ってしまった顔を振り払おうと頭を振ると、入口から扉が勢いよく開く音がした。
αの侵入だろうか。2人して臨戦体制をとったのはいいが、α独特なフェロモンの香りはしない。駆け足でやってきたヒールの音には聞き覚えがある。思わず体の力を抜くと、顔を出したのは医師だった。
場の空気から聡い彼女は察したのだろう。エミリーの表情はいつもより渋く「あれだけ気をつけろと言っていたのに」と物語る目と、視線を合わせる気にもなれなかった。顔を無機質で冷たい壁へと向けると、隠し事をしたがる子供を労う言葉を選ぶ。

「体は大丈夫かしら。薬は?」
「飲んだ……」
「そう。ならよかったわ」
「先生が来たなら、私はお暇しよう」

 逃げ出すように部屋を後にしようとした占い師だが、他ならぬ医師によって腕を掴まれて叶わなかった。

「βでも2人きりは投薬をしていてもマズイわ。彼、先ほどまで発情していたようだし」

 流石の医師というか、気づかれたことに羞恥心が湧き上がる。きっと、占い師と何があったのかまでは気づかれていないが、含み笑いを浮かべる彼は、気づいてほしいとでもいうのか。本調子ならば頬を張っているところである。

「彼、は?」
「バルサーさんなら今日は戻らないわ。『部屋は好きに使っていてくれて構わない』と言伝をもらったの」

 「だから、探そうとしてもダメ」と彼女の細まった目が訴えかけてくる。考えていることはお見通しのようで、とりあえずは素直に頷く以外ない。満足して口だけで微笑む彼女が、広げた医薬品を夜逃げかのように回収し始めたところで、近くで佇んでいた占い師も扉へと足を向けた。

「それでは、ちゃんと鍵をかけてね」
「おやすみ。よい夢を」

 仕事が終わったらすぐに引き上げる淡白な医師と、距離を置いて笑みを崩さない占い師。まるで何もなかったかのように、最後に頭を下げては薄情にも扉を潜っていった。
 1人になり、残されたのは虚しさだけである。少しずつ霞がかかった視界が晴れて、冷静さを取り戻せるのがわかる。だが寂寥感だけが募ってくるのだ。
力なく白く波打つ海へと寝転がると、目を閉じて音を聞く。ドクン、ドクン。鼻腔いっぱいに広がるαの甘い香り。
この部屋には誰もいない。自分のスカーフを手に取ると、口に咥えて下着をおずおずと引きおろす。既に興奮しきった竿に、ゆっくりと手を擦り付ける。
断じて、誰でもいいわけではない。この部屋に1人でいると気が狂いそうだ。



「ルカー、試合だぞー」

 遠慮も品性もない乱雑な音が、ドアから響く。親切にも呼びにきてくれた傭兵こと傭兵であるが、違和感を感じざるを得なかった。
いい匂いがする。元はどこからかはわからないのだが、甘くて、蠱惑的で、安堵すら覚える芳香が。ウィラの香水とは違う。人の理性を溶かすような、魔性の類である。
一体どこからなのだろうか。せわしなく鼻を動かしていると、現況がすごい速さで近づいてくるのがわかった。

「ルカ!」

 バンッ! と乱暴に開かれた扉と、抑えきれずに周囲へと散布される、菓子よりも甘くて理性を溶かす劇毒。
青い表情で忙しなく廊下を見回し、やっと視線をこちらへと向けた。見慣れない顔を見つけては眉を寄せる無礼な行動には、目を瞑ってやろう。それよりも、このフェロモンは一体なんなのだ。理性がねじ切れそうである。

「ルカ、じゃない?」
「お前っ、写真家!?」
「どこに行ったんだ?」
「俺が聞きたい!」

 欲を抑えながらも必死に睨み返すが、心ここに在らず。迷子の子供のように、唇を震わせては周囲を忙しなく見回すのだ。

「1人にしないでって、言ったじゃないか……」

 長いまつげで縁取られたサファイアブルーの宝石が、影を作りながらも美しく輝く。儚く、美しく、面妖で、男とは、いやこの世のものとは思えないほど緻密な芸術品。甘い匂いが一層強くなり、股間に強い衝撃が走った。

「クロード……るか、やだよ……」

 プライド高いと思っていた彼が、急にさめざめと涙を流すのだ。元から女のような線が細くて美しい容姿をしていると思っていたが、男を惑わす色香まで漂わせられては、本当に男だったかすらわからなくなってきた。
その症状。もしかして、彼はΩなのではないだろうか。傭兵はαである、そして若い。まるで娼婦が手招きするかのような、蠱惑的な匂いをさせられて我慢できるほど辛抱強くもない。吸い込まれるようなスカイブルーを見つめていると、反射的に腕を掴んで壁へと押し付けていた。

「なぁ写真家、いや、ジョゼフ」
「んっ」
「ルカよりも俺の部屋にこねぇか?」

 ゲームが始まるなんて知ったことではない。耳に唇を寄せて食み、体を生娘のように震わせる姿に気分が高揚する。答えるように鼻を首に擦り付けられ背筋が泡立った。積極的に求めてくるような仕草は了承の意ではないのだろうか。囚人とはもう寝たのかもしれないが、この様子を見るに何らかの理由でこじれているらしい。軽いようで頑固なは彼のことだ、こんな理性を失っている状態の彼を抱くことを躊躇っているに違いない。
チャンスである。
 香る初めて嗅ぐ匂い。αであるとはわかるのだが、個体ごとに芳香が変わるなんて気づいてもいなかった。
そんなことはいい。匂いからも欲情したαであることはわかる。呪縛から逃れようと身を捩ったところで逃げることはできない。それに、彼は荒々しいハンターの面々と違って優しい。顔を真っ赤にしながらも必死に理性をつなぎとめ、荒い息を吐きながら了承がくるまで待つつもりだ。犬のようなハッハッと熱い品のない呼吸に、必死に鼻を擦り付けてはマーキングをされているよう。首筋を舐められる度にΩとしての性が刺激され、体が疼いてしまった。

「きす、」

 言い終わるや否や、衝動のままに塞がれた唇を受け入れる。
首に手を回し、ぶら下がるように全体重を預けると、顎を掴まれてさらに深く交わることになる。流し込まれる唾液が、まるで媚薬かのように体が火照る。もっと、と舌を出しては絡め、卑猥な水音を立てながら甘受していると、唐突に肩を叩かれた。
見られた。知らない相手だったらまずい、きっとΩの匂いも嗅がれてしまっている。咄嗟に腰に対等した短剣を握り構えると、無表情な囚人が立っていた。

「ナワーブ君。彼は、私が番いにしようとしていたのだが」
「え、」
「部屋に入れたのもそのためだよ」

 実直な彼は苦い表情を浮かべながら短くごちたのだ。「手ぇ出して悪かった」と。まだ誰の物になったつもりはないのだが、彼にとっては人の者に手を出してしまったという罪悪感なのだろう。言い返そうと思ったのだが、2つのαの香りに頭がぼーっとしてきた。今口を開けば何を言うかわかったものじゃない。背中を押して離れてくれたのは、発情してしまった匂いを感じ取ったからだろう。

「でも、まだ番いじゃねえんだろ」
「……うん」
「なら、諦めねえ」

 「ゲーム、行こうぜ」と振り返ることなく行ってしまった彼の怒気を孕んだ背中を見送ると、安堵の深いため息と気の抜けた笑顔。先ほどの影を携えた表情が嘘かのように晴れたことに、安堵するしかない。

「今の、本当?」
「すまない、言葉のあやだったんだ。貴方が、あのまま流されてしまうと困るから」

 違う。これは醜い嫉妬心だ。
自分で突き放しておきながら、誰かの手に入ってしまうことを極端に恐れている。例え、写真家が心から想っている相手だとしても、きっと止めている。
ゲームの開始を告げるかのように、欲望の衝動が薄れていくのがわかる。しかし、彼の甘えるような熱い視線は薄れない。

「るか」
「ん?」
「行って、らっしゃい」

 まるで恋人が外出を見送ってくれるかのように、囚人の部屋の扉に隠れながら声をかけてくれたのだ。まだハンターの館には帰らないつもりらしい。部屋に居座られると、匂いが残って困るのだが嬉しいと感じる心もある。

「ジョゼフ」
「ん」
「行ってくるよ」

 近づいて、額に愛情を落としたい気持ちもあるが、手をだしてしまえばどうなるかわからない。ほわほわと少女のような童顔をほころばせて笑う彼に、笑顔で手を振り背を向けた。
大丈夫だ、ゲームが始まれば欲動も治る。



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