封神 | ナノ



運命×運命=? 1

※オメガバ
※楊ふたなり表現あり




 「町外れの森に、それはそれは美しい仙女が出る」
 周を騒がせる噂を聞いたのは、聞仲を退け、夏が終わり、緑に色づいた木々たちが紅葉を始めた頃だった。
 四聖、魔家四将と続き強敵との戦いで、周と崑崙山の道士たちは経済的にも身体的にも大打撃を受けた。
徐々に衰え始める自然の色彩を感じながら、太公望は相棒である四不象と共に西岐の城を歩いていた。
時間が奪ったものは、民と木々の命だけではない。何よりも姫昌が没したことにより、周の人々は悲しみと喪失感に教われていた。
 賢王の死に、初めは弔いと悲壮の声が多かった。が、徐々に新たに即位した姫発の人間性で国民も立ち直り、今や彼を王にしようと一起している。何度か妖怪仙人の攻撃で傷を負いながらも立ち上がる事が出来るのは、周の国民が一枚岩な証である。
悲しみに打ち拉がれている場合ではない。一刻も早く、美しくも残酷な王妃の横暴を止め、世界を平和にしなければ悲壮は続く。民の心が打倒殷に向け、一丸となることは大変喜ばしいことではあるが、仕事が増えることに関しては遺憾である。怠け癖のある太公望としては複雑な心境である。
 ともかく、噂の森の仙女だ。絶世の美女、と聞けば宿敵である妲己が真っ先に脳裏をよぎる。相手を値踏みするかのような蛇の怪しい眼光を忘れるべく、頭を勢いよく振り回す。
しかし、話を聞く限りその仙女からは敵意を感じないと聞く。こちらに気づいた様子もないし、襲われた者もいない。人間なのかとも疑ったが、城にいる女が夜な夜なはずれの森に行くということも聞いていないし、必要性も感じない。
 一体、正体は誰なのだろうか。話には聞いていないが、崑崙の加勢か? それとも、妲己に心酔する新たな妖怪仙人?
1人で頭をひねったところで机上の空論。答えなんて出る訳がなく、つい「楊」と名を口にしていた。
そうだ、聞仲と魔家四将との戦いで辟易した心と身体の休養と修行の為、各々が仙界へと戻ったばかりなのである。すっかり彼の頭脳を当てにしてしまっていたと自覚し、一番驚いたのは自分自身である。
 いないものは仕方ない、終わりのない蒟蒻問答はやめよう。
とにかく、害がないうちは始めは気にする事もない、誰であろうが好きにさせておけばいいという考えではあるが、兵たちが異口同音にずっと話してるのだ。常に耳に入ってくるとなると、嫌でも気になってしまう。
一度や二度ならばただの怪奇話。だが、毎日となれば話が変わってくる。本当に仙道ならば、はぐれ仙人の可能性も妖怪仙人である可能性も否定は出来ない。軍師として、敵の情勢は把握しておかなければならないのだ。
さっそく、鍬を振り下ろすだけの単調な作業に変化をもら足すため、世間話をしている若い兵士たちがいた。丁度いい事に、話題はかの仙女の事らしい。

「おい、お前は見たか? 例の仙女」
「まだ見てないけど、噂は毎日聞くな」
「いつも同じ湖で、髪を梳かしてるんだってよ」

 話をまとめるとこうだ。人里離れた国境近くの森の奥、開けた平地にある湖に噂の仙女が出るらしい。
ここ最近、毎晩同じ時間にやってきて沐浴をしているようだ。特徴的なのが、腰まで伸びた長い髪。水面に長く垂らし、まるで星の川を見ているかのような姿と夜とが相まって、この世のものとは思えないほど美しいという。サラサラと流れて輝く様に見とれる男が後を絶たないのもわかる。
闇夜に浮かぶ髪も背中も、月光に負けず透き通った白さ。振り返らずに一心不乱で清めているが、近づこうとすると獣の唸り声が聞こえて邪魔をするらしい。強行突破にでた男が噛まれたという事例もあり、介抱をされている腕には犬歯の後が深々と付いていたのを覚えている。
 犬のような獣をつれた天女というのは、果たして誰なのだろうか。銀色の長髪であると、思い当たる節はいないのだ。首を傾げるばかりである。

「顔を見た奴はいるのか?」
「いないけど、絶対美人に決まってる!」
「なんでだよ」
「身体も細いし、髪も綺麗。何よりも美人じゃないとがっかりするじゃないか!」

 噂と妄想を力説するだけならば危惧はないが「今夜俺たちも行こうぜ」という言葉は聞き捨てならない。集中力を疎かにしてもらっては困るし、何よりも女の風呂を覗くなんて言語道断だ。
大きな咳払いをしてジト目を向けると、わざとらしく目線が反らされる。「見せ物ではない故、行ってはならぬ」という意図は伝わっただろうか。すごすごと散っていく兵たちの丸い背中を見て、自然とため息が漏れた。
今 のところは害はないが、いつ転機がくるかわからない。それに、浮いた噂で集中力が途切れると士気にも問題が出てくる。偵察であっても、そうそうになんとかしないと、兵の不安を煽ることとなる。
ここは解決しておかねばなるまい、と太公望は重い腰を上げる事にした。敵の仙道ならば、今戦えるのは太公望や黄飛虎、天化しかいない。それでも、万が一妲己のような強者であった場合、他の者に頼んだことを後悔するだろう。相手の正体を暴き、逃げるくらいならば得意分野だ。鼻の下が伸びた馬鹿者たちが動く前に早速、自ら単騎で出向く事にした。

 独りで進む薄暗い森の中は、予想以上に不気味である。特に人の手が入っておらず、獣道を進む事を余儀なくされているのだ。最近四不象に甘えていたツケで、歩くだけでも酷く疲れるのに、歩きにくく坂を登るなど苦行や拷問の類いである。
しかし坂、といっても周の国から数キロ離れた程度の裏の山の麓に過ぎない。城下町からは人里に近い場所に動物も生息はしているのだが、鳥の声が聞こえないことが不安を煽る。響くのは自らの足音と踏んだ枝の音くらいだ。
夜にくるというのがそもそも間違いなのであるが、昼間には発見例がない為致し方ない。肌寒さに両二の腕を摩りながら、小さな身体を更に丸くたたんで歩んでいると、風が容赦なく顔へと吹き抜けていく。木々が空けているとなると、目的地かもしれない。この長く果ての見えない道草に果てが見え、水の清涼なせせらぎが聞こえてきて、自然と駆け足になっていた。
 見つけた。
 木が開けた、そこにあったのは大きな湖。その岸辺に1人座っている者が居る。これが噂の仙女だろう、そうとしか思えない。しかし遠目なために招待まではわからない。
しかし、この腰の高さで揺れる癖のある髪には見覚えがある。銀色だと聞いていたが、ちょうど陰っている今は、綺麗な瑠璃色ではないか。これは、もしかしなくとも。
 目を凝らしていると、近くの木々と髪がサラリと揺れ、茂みから白い固まりが飛び出した。突然馬乗りになられたと思えば、目の前に居たのは白い毛玉と熱い吐息。グルル、と低く鳴る喉を見つめていると、青い目が太公望を見初めてビー玉の様に丸くなった。

「哮天犬」

 名前を呼ばれた白い犬は、ワンワンと勢いよく吠えて、執拗に頬を舐めてくる。宝具であるはずの擬似生物がここまで慣れてくるとは、どういうことなのだろう。さすがの天才だと、その柔らかい動物の毛を堪能していると、もっと撫でてくれと頭を擦り付けてくる。本当の犬のような仕草をするのは、主人の完璧主義と犬好きのせい。高く上がった白い尻と、勢いよく振られたふさふさの尻尾も目で堪能していると、宝具の名前を呼ぶ声がする。
戻ってこない事を危惧して周囲を睨みつける緑の目が、こちらを認知するや否や険がぬけて驚愕に染まっていく。

「楊。やはりお主か」
「えっ、あっ、うわっ!?」

 叫んだと同時に上がる水しぶき。急に姿が消えたと思えば、水面にのぼる泡。
ゆっくりと顔の上半分だけを出し、まるで似合わない幼稚な行動に思わず吹き出してしまった。拗ねた顔と気泡を上げながら様子をうかがってくるしかめっ面に、また笑いがこみ上げてくる。しきりに周りをくるくる回っている哮天犬は、喜んでいるのか警戒しているのか。激しく振られた尻尾は、落ち着く事を知らない。

「急に現れないでください。びっくりしたでしょう」
「それはすまんな。わしも見知った顔がいるとは思っていなかったのだ」

 心が乱れた彼と、荒ぶる波をぼんやり見つめていたが、男同士ならば見られて困る物もないはずだろうに。水場から出ずに、こちらの出方をうかがっているのは、まるで人を警戒する人魚。別に乱獲をして、肉を食らおうとせずとも不老不死である。目を反らさずに穴が開くほどジっと熱い視線を突き刺してくるので、足を止めた。刺激しないほうが身のためである。
 しかしながら。

「寒くないのか」
「寒いですよ」
「修行か」
「そうです」

 口ではこういっても、もう雪の降る季節も近い。それに、わざわざ人間界にまできて水を浴びるのは不自然極まりないのだ。
あえて何も言わずに踵を返せば、水の音が落ち着きなく聞こえてきた。何も言わずに手だけをヒラヒラと振れば、キャンキャンと嬉しそうに甘えた声。哮天犬は彼の心の代弁者なのだろう。素直になれない、意地っ張りのご主人は水面を見つめながら動かない。

「クシュンッ」

 小さなくしゃみが聞こえてきて、思わず目を丸くする。我慢強く感情を表に出さない彼ではあるが、寒気に勝てるわけがないのだ。
鼻をすする姿が痛ましく、慌てて哮天犬も走り寄ると毛皮に覆われた温かい身体をすり寄せる。
「寒いなら無理をするな」と言ったところで、修行ばかで真面目な彼は言うことを聞かないことは百も承知。そうなれば、別の方法で遠回しに誘導してやればいい。近くにかけてあったタオルを頭から被せると、不思議そうな視線が白い布と毛の間から漏れ出た。

「どうして、この場所がわかったのですか?」
「兵たちが噂をしておるよ。美しい仙女が毎晩沐浴している、と」
「……はぁ」

 腑に落ちないと言う生返事ではあるが、太公望も苦笑いなのだから無理でも納得して欲しい。
さて、犯人はわかったことであるが、兵たちにどう説明しようか。それに、どうしても肌を見られたくないようで、翠の目が威嚇をしてくるので、慌てて近くの木まで歩いて隠れるが、一緒に哮天犬も追従してくる。見張りだろうか、いや純粋に遊んでほしいのだ。着替えを始めたご主人には目もくれずにじゃれつかれて、絶妙に進行の邪魔はしない。彼の様子を覗く間すら与えられないが、別に下心はない、決してない。
足の間と体の周りを、ぐるぐると8の字を描く可愛いボディーガードに悪戦苦闘を強いられていると、傍の月光に影がさした。振り返ると、濡れた髪を一纏めにしながら覗き込む彼。水も滴るいい男だ、残念ながらもう衣服は着込んでいるがガタイの良さもよくわかる。遠目だと女だと見間違うような綺麗な髪である。いつも隣で見慣れてしまった太公望ですらこうなのだ、見慣れていない兵士が見惚れるのも納得だ。

「僕に何か御用でしたか?」
「いや、兵士たちの噂が気になって調査にきただけだ」
「それは、ご迷惑をおかけしました」
「問題がなければいいのだ」

 しきりにを舐めようと、乗り上がってくる哮天犬をいなしていると、急に体から錘が消えた。
ご主人に抱き上げられて退かされて、分かりにくいながらも不満な表情を浮かべて渋々足元に座り込むがまた可愛らしい。まだ尻尾は左右に揺れて、興奮を表している。

「宝具なのにここまで本物のように動くとは……すごいのう」
「ははは。お恥ずかしいことに、最近制御が効かなくなって」

 何か変わったのだろうか。見下ろして様子を見てみるが、特に変化は見受けられない。戦闘能力の方だとすれば、コントロールが上手くいかないのだろう。尻尾を振り続けて舌を出すただの動物は、今にも飛びかかってきそうである。
と、先ほど思いついたことを忘れるところだった。まだボケてはいないが、歳は取りたくないものである。
 大きなため息をつくものだから、驚いて警戒心をむき出しにする彼。適当に誤魔化しておき、立ち上がると土を払う。
一体何を言い出すのか、と胡散臭い表情をされるのは日頃の行いだ、気にしはしない。

「そうじゃ。少しつき合え」
「つ、つき合う?」
「いいところへと連れて行ってやるぞ」
「……ああ、そいういうことですか」

 言葉を噛み締めているし、興味を持ってもらえたならいい。きっと気に入ってくれるだろう。
哮天犬の頭を揉みくちゃにしながら「頼めるか?」と頼めば、元気にワンと鳴き声をあげた。主人に似た聡明な犬は、きっと言葉を理解している。にこやかに、今度は毛を整えるように撫でてやると、嬉しそうにその場を駆け回る姿と、複雑な楊の表情が見える。
珍しく拗ねた表情を見せるとは。もしやかわいがっている犬であるから、毛並みが乱れることを良しとしないのか。慌てて両手を上げて降参の意を示すと、我に返って咳払いで茶を濁した。

「あの、どこへ連れて行ってもらえるのですか?」
「うむ。お主が喜ぶところだぞ」
「僕が?」
「よし、早速哮天犬に頼むとしよう」

 その言葉に、今度こそ眉間に皺を寄せて、不機嫌を露わにする。
これは悩んでいるというわけではなく、「何を言い出すんだ」と怒鳴られんばかりの渋い表情である。
そんなに愛犬に触れて欲しくないのだろうか。機嫌を損ねないように、黙って表情を伺っていると、小さな声で何か呟いているのが聞こえてくる。内容まではわからないが、どうやら何か思案しているようだ。

「……いいでしょう」
「ならば、すぐにでも」
「ただし。僕の体にできる限り触れないように」
「何故だ」
「濡れていますので」

 別段気にするようなことでもないのに、どうにも几帳面な男だと思う。普段は泥まみれになろうとも気にする様子はないというのに、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。口にして睨まれるもの御免蒙る為に、あえて言葉にはしないが。
 「哮天犬、頼めるかな?」と律儀に声をかけると、元気のいい「わん!」という返事が聞こえてきた。まずは横座りで乗り込み、愛犬の頭に負担をかけないように詰めると、横をポンポンと叩いた。

「どうぞ」

 お言葉に甘えて跨ると、ゆっくりと地面を蹴って宙を舞う。
いつもと違う風景と、乗り心地と、誰がかいるという違和感。嫌というわけではないが、なんだか落ち着かないのは確かである。
もっと体の小さな四不象の二人乗りは普賢とやってはいたが、気難しく距離を置きたがる楊とは初めてなのである。
 正面を見ると、真剣な表情で前だけを見つめる美男子の姿。青い髪が、馬の尻尾のように宙を舞うたびに冷たい風が鼻をくすぐる。

「髪、解いた方が早く乾くのではないのか?」
「肌に張り付くので、まとめていた方が都合がいいのです」
「まあ、新鮮な姿故飽きないがの」

 いつも髪を下ろしている為に、くくっている姿が珍しかった。だが、彼は別の意味でとったらしい。慌てて頸を抑えたと思えば、赤い目元で睨みつけてきたのだ。「ムッツリ」と。
何のことだと惚けようとも、彼の中では体を舐め回すように眺めていた変質者で決定付けられている。しかし、慌てて手を離したと思えば素直に謝ってくるのだ。思わず呆気に取られてしまった。

「……すみません、驕りでした」
「もしや、何かあったのか?」
「ボクに見惚れる人は、少なくないですから」

 少し陰った表情は気にはなっても問いただせるわけがない。
平野を超えるとすぐ傍にある山は、周の町よりそう遠くはない。振り返れば城は見えるし、ここから戻ろうと思ってもそんなに時間はかからない場所である。そう、空から行けばだ。
途中は鬱蒼とした森が生い茂り、さすがの兵士たちも、鼻の下を伸ばしてここまで来ようとは思わないだろう。哮天犬が空をかく度に近づき、ソワソワとした気も伝わってきた。

「貴方も、ボクのことを美しいと思いますか?」
「うむ?」
「いえ、何でもないです。そうですよね、女性にも興味を持たない人ですからね」
「失礼なことを言われておらんか?」

 なんだか歯に物が詰まったような言い方ではあるが、別にやましい事は考えていることは一切ない。純粋に美しいとは
やっと、小高い山の中腹まで上ってきた。下を見下ろせば、冬の訪れで見えてきた山肌の間に、白い煙が立ち上る場所が見えてきた。ここには秘密がある。
顔を撫でる熱気を便りにやってきた先には、岩の郡から立ち上る、白い湯気だった。

「ここだ。降りられるか?」
「これは、お湯ですか?」
「天然の湯だ。散歩をしていて偶然見つけての」

 「またさぼって」という小言は聞こえてこない。彼の輝いた視線は、温泉に首ったけである。ゆっくりと降下をしたが、まだ足がつかぬうちに飛び降りると早足で湯気の側まで駆け寄っていった。
恐る恐る距離をつめ、水中で手を泳がせる。頬が赤いのは熱いからか、珍しく喜の感情を表に出しているからか。興奮した様子で湯加減を確かめては身を乗り出している。
どうやら人魚姫のお気に召したようだ。ちょうどいい湯加減に満足げな顔で頷き、肩にかけた衣を岩の上に置いた。
 城にある温泉は、武王の計らいで民にも解放はされているが、修行中の仙人がわざわざ降りてきて使用することはまずない。
仙界にも温泉は頼まないと使用はできないのだ。ましては道士は行水で済ます事が当たり前な為、こんな機会は滅多にないと言っても過言である。嬉しくないはずがない。

「もう冬も近い。行水は寒かろう」

 指先をつけてみたが、相変わらず暖かい。鼻につく妙な匂いがするが、確か硫黄という温泉の効力の基である。これさえ我慢すれば、効力については書物と実経験よりお墨付きである。これならば、修行で疲れた身体を休められるだろう。
胸の前で手を組み、明るい表情を浮かべる楊を見ていると、教えてよかったとこちらまで嬉しくなってきた。

「ありがとうございます!」
「よいよい。修行が終わったらコキを使うからの」

 目を細めて、口を大きく開いて喜びを露にする彼を初めて見たかもしれない。つい頭を撫でると、目を瞬かせながら身体を委ねてくれた。甘え足りない子供のようで、なんだか頼りなく見えてしまう。
 しばらく滑らかな髪を堪能していた。温泉の揺れる水面を見つめて、ソワソワと指を動かし始めた姿を見ていて感づいた。綺麗好きな彼のことだから、初めて見つけた風呂を堪能しいと思っているのだろう。
邪魔をするのも野暮だ。静かに立ち去ろうとしたが、細い指が上着の裾を掴んで引いた。

「あの、師叔……」

 急にしおらしい声が響いて、本能的に体が強張った。振り返ればウサギのように目尻を赤く染めて見上げてこられては、体の芯が熱くなり理性が煮えたぎる。ためらいがちに、言いあぐねながらも視線は逸らさない。今声をかけて、珍しいお願い事をかき消すのは忍びない。「どうした?」と優しい笑顔で、濡れた髪を観察していた。

「見張っていて、もらえませんか……?」
「哮天犬がいるではないか」
「さっき貴方に懐柔されてしまったので、不安です」

 かわいそうに、百戦錬磨の忠犬は、一度の失態でご主人様の信頼を失ってしまったである。しかしわかっていない表情で首を傾げると、二人の間を駆け回る。宝具がこんなにも元気ということは、クールな表情の裏では相当喜んでくれているに違いない。口にすれば恥ずかしがり屋な彼は、猛否定をするであろうから、あえて口を閉ざしてほくそ笑む。いつもは怒らせてばかりだから、たまにはこう、緩んだ表情を堪能するのもいい。

「それならば一緒に入るかの?」
「い、一緒に!?」
「だめか」
「いや、その、さすがに裸を見られるのは良しとしたくありません」
「恥ずかしがり屋め」

 露骨に嫌がっているわけではない、純粋に戸惑い、適切な答えを模索しているかのような目。プライバシーには煩い男であるから、強要はしないし踏み込みもしない。ただ、もっと物珍しい彼の姿が見たいと思ったからの、思いつきによる言葉にすぎないのだから。
断られて拗ねたわけでもないが、これ以上ここにいる意味もなくなった。じゃれついて飛びかかろうとするお役御免なお犬様をいなして、麓へ視線を向ける。大丈夫だ、特に城に異常は見えない。

「では、わしは戻るぞ」
「足もないのにですか? やはり、共に戻れば」
「お主は、まだ城へと戻るつもりはないのだろう? ならば、わしを送迎するだけで手間になる」
「そうですが……」
「ということだ、ではな」

 しゅんとした子供の顔がすれ違い、岩場の影に隠れてしまう。姿が完全に隠れるのを見届けて、太公望は深いため息をついた。
彼から、甘い匂いを感じた。水でも仙桃でも、宝具の匂いでもない。まごう事なく、彼から流れてきた匂いである。
体臭なのだろうか。同性とは思えないほど扇情的で、上品で甘い、人工的ではない香りに戸惑ってしまった。あれは傾世元禳の類いの匂い。長時間嗅いでいるとき惑わされて頭がおかしくなってしまう。万が一我を忘れてしまってはもってのほかである。

(しかし、本当に男とは思えん)

 美しいと思う。男性的な力強さもあるが、格好がいいというよりも、女性的な美の方がふさわしい。
筋肉は男として羨ましいと思うが、遠目で見ると仙女と間違われるのもわかる。何よりも、動作が艶っぽいのである。
もしかして気分が優れないのだろうか。熱っぽいため息をついて動かない姿に不安を覚えるほどである。
 一人にして、大丈夫なのであろうか。様子を伺うためにも音を立てぬように引き返すと、近くの木の陰に身を潜めて顔を陰から覗かせた。
まるで、女湯を覗くという不貞を働いているかのような錯覚。後ろめたい気持ちはあるが、そんないい加減な感情ではないと言い聞かせて、脱衣をする彼の健康的な背中を見つめていた。
 もう、この件に関わるのはやめよう。心臓がいくつあっても足りない。
髪を梳いて、肌を素手で優しく撫でるように洗い、体を湯を囲う岩へと委ねる無防備な姿を、極力見ないように、鼻のきく哮天犬に見つからないようにと、足を麓へと向ける。
 それ以来、転々と場所を変えているのか姿を巧く隠しているのか、仙女の噂は途絶えた。



 各々が修行へと戻っても、太公望は人間界に滞在していた。
広い周の城に、一人用の部屋も貰えた。男だけが使うにしても十分広く、さらには寝台と机しかない為にあと3人ほどは寝泊まりできるだろう。そんな部屋を質素に使い、窓へと近い壁に家具を置き、月と蝋燭を頼りに書物を開いていた。
月が天頂まで昇り、育ち行く国を月光が照らす。秋の虫たちが有象無象に鳴く中、城の外れにある一室から光りが漏れていた。太公望の自室である。
一日が終わろうとした時、静かに窓の桟が揺れる音。彼は、今日も律儀に窓からやってくる。
 今日は星が爛々と輝いているから、手元が明るく作業も捗る。白く光る、小さな点を見つめながら彼が淹れてくれた茶に口を付けて、筆を取った。
あの死闘から、どれだけの月が過ぎただろうか。冬がきて、春になり、夏も過ぎ、また秋の肌寒さを感じる。もうすっかり体力も戻ったし、仕事も日に日に増えてゆく。
いつからか、夜な夜な楊が現れるようになったが、まだ修行だと言い戻ってくる気配はない。きっと、元始天尊の命により見張りにきたのだろう。不真面目だと報告され、折檻されるのはごめんである。丁度仕事は際限なく湧いてもくるし、フリではなく筆を動かす手を動かすと、ゆっくりと脇まで近づいてきた。
 ふわり、夜風のよく通る湿った匂いではない、温かく心地の良い香り。何かの花であろうか。はたまた女たちの香料が移ったのだろうかは定かではない。深いではない為に特に何も言わず振り返ると、傍らに立ち図案を覗き込んで、優しい目で微笑んでいるのが見えた。

「進捗、どうですか?」
「おかげさまで体も動くようになった。感謝しているぞ」
「それならよかったです」

 彼は余計なことは何も言わない。近くの走り書きを見て、静かに黙読をしている彼を尻目に筆を進めていく。
一緒に居る空間は、苦ではない。逆に何を言わなくても察してくれる彼の心遣いは心地よく、妙な安らぎさえ覚える。
 パートナーとはこのような関係をいうのだろうか。いつでも一緒に居て、いつでも助けてくれる、なくてはならない存在。右腕というより、こちらのほうがしっくりくる。
早く、隣へ戻ってきてほしい。しかし彼は眉を下げて首を振るだけ。戻ってきたくない、というわけではないことは夜な夜なの行動を見ていてわかるのだが、理由がわからないのだ。不安にもなってしまう。

「お主こそ、修行はどうだ」
「もうすぐ一段落がつきます」
「ならばもう人間界に降りてきては」
「それは、まだダメです」

 あっさりと否定されるなんて、仙道は時間に対してルーズで困る。彼の事だから、まだ修行が足りないと自分に鞭を打っているのだとは思うが、止めろというわけにもいかない。敵の力の強大さと自分の青さは思い知らされたばかりであるし、生真面目で向上思考の彼は、満足するまで戻ってこないことも知っている。

「わしが寂しいから、ではダメか?」

 もっと傍にいたいと思った。
それは純粋に彼の存在が必要、という意味で言った訳ではあるが、ゆっくりと近づいてきた。どうしたものか、と眺めているだけであったが、ゆっくりと手を広げてくる意味がわからないわけではない。負けじと抱き込み腕の中へと閉じ込めると、居心地がいい場所を探して身じろぎを始めた。

「寒い、のか?」

 意図はわからないが、反射的に行った行為である。だが彼は動かなくなり、意味をなさない言葉が聞こえてくるのみ。しばらく抱き合っていたが、我に返って肩を押すと、驚いた顔が目についた。
男同士で抱き合う事に軽蔑はないようで、安堵した。腕に収まるように体を折りたたんでくれるのも助かるし、久しぶりの人の体温になんだか気分が落ち着いたのがわかる。
 どうやら、最近の疲労に調子が狂っているようだ。こういう時には気晴らしに、現実から逃げるに限る。いや、それしかない。

「気分転換の散歩だ。ついてこい」
「あ……」

 名残惜しそうな声は気のせいだろう。
悪戯に笑って、窓から身を乗り出すと彼は困ったように眉と歩みを下げる。それでも手を差し出せば、淑女がダンスを了承する時のように手を重ね合わせてくる。引き上げると、窓の桟まで体が乗り上がって必然的に顔が近づいてしまう。
 月も恥じらうくらいに整った容姿に、真っ直ぐ見つめてくる意思の強い目。大きな目が三日月のように弧を描き、月光のように優しい光りを帯びる。女たちの言う「かっこいい」より「可愛い」という感情が目覚めてしまうのは何故だろうか。
夜風に乱された髪を抑え、なだらかな弧を描く唇を見つめていたことに、なんだか恥ずかしさを覚えて視線をそらす。
 見とれていたなんて、知られたくない。
逃げるように外の世界へと飛び降りると、除草されて整えられた地肌が見える。確かローテーションで当番が決まっており、今週は最近やってきた人懐っこく若年の兵士だった。彼は必ず窓を叩き、返事を待たずに話しかけてくるのだ。
 石1つない綺麗な場所であることは太鼓判押しではあるが、確認してから細く白い手をゆっくりと引いてエスコート。ふわりと降り立った彼がバランスを崩さないように抱き留めると、目尻を赤く染めて目を反らして、「ありがとうございます」と呟く。やはり、可愛らしい。
 さて。流れで飛び出したのだが、行く当てなんて当然ありはしない。どこへ行こうか、と思案していると袖に錘が引っかかる。いや、彼の白い手に引かれているだけだ。振り返り指差す先を見ると、大きな桃の木が見えた。
食べてもいいということだろうか。いつもならつまみ食いをすると、眉を怒らせながら説教をしてくるのに。
 様子を伺いながら、1つだけ失敬したが何もお咎めはない。本当に許してくれるようで、遠くから微笑むだけで口出しをする気配もない。
それでも警戒心はそのままに、ゆっくりと桃へと歯を立てると果汁が溢れ出して口内へと広がる。農耕にも手を抜いていない証拠で、いい熟成っぷりである。勢い余って全て食べてしまいそうになってしまった。欠けてしまった半月を見て、口を止めると慌てて彼の元へと歩み寄った。

「半分こだ」
「え」
「安心せい。虫歯ではない」

 それでも警戒して手に取らないものだから、乱暴に手を開かせるとその上に乗せてから急いで前へと走りだす。距離を置いて、投げても届かないであろう距離で振り返ると、してやったりと笑う。
そこまでしたら、やっと観念してくれたらしい。緩慢な動作で果実を見下ろすと、口元へと運んでいくのが見えた。
 ゆっくり、ゆっくりと口がはむはむと果肉を辿り、やっと牙を立てた瞬間に、顔を背けて口を抑えた気配がする。

「どうした! 口に、合わなかったか?」
「いえ、今までの桃で、一番美味しいです……」
「うむ。皆が頑張ってくれたのだからな。それはよかった」

 お世辞も言えるのだな、と微笑ましく眺めていたが、穴のあくほど桃を見つめている姿に思わず口が丸を描いてしまう。
 親好を深めたいと、他人との距離に聡い彼に思われるのは嬉しい。だが整理のつかない心で、彼にどう接していいのかわからない。
伸ばされた手は、大きく温かい。困ったように微笑む彼の笑顔が眩しい。独り占めをしたいが、自分だけの物にするのは怖い。この、部下に抱いてはいけない感情が彼を壊してしまいそうで。この感情の意味も、どうれば最前かなんて、もうとっくに答えは出ている。それでも、まだ伝えるには早すぎる。その時がいつくるかなんてわかってもいないけれど、いつかは伝えたいとも思っている。
 ちぐはぐで優柔不断で、臆病なわしを、どうか許してほしい。何食わぬ顔で月を眺める彼の白い手を、握り返すことなんて出来なかった。

 朝になれば、まるで夢幻かの如く彼の姿は消えていた。

+

20.2.8
修正20.2.16

[ 19/23 ]

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