ペダルハート



お風呂にゆっくり浸かって、スキンケアを終わらせる。寝る準備を終えたあとで、思い出したように元カレの連絡先やSNSを全てブロックした。適当にダンボールに入れたままの荷物を返さなきゃいけないとは思っているし、ちゃんと終わらせなきゃいけないことも分かってはいる。今してることが現実から逃げていることだというのも自覚している。だけど、それでもまだ気持ちの整理が出来ていなかった。傷はたった一週間じゃ癒えない。長く付き合ってきた分喧嘩もたくさんしてきたし、イライラすることもあったけど、この先もずっとずっと、死ぬまで一緒に居るんだと信じて疑わなかった唯一の相手だった。ちゃんと好きだったし、大切だった。裏切られていたからってそんな簡単に忘れられる感情じゃない。
勝己くんは、そんなわたしになにも言わない。だけど、まるでわたしの気持ちなんて全部見透かしているかのような目をしてじっとわたしを見るのだ。その目に見られると、自分のしていることが間違ってるって思い知らされるから、少し苦手だった。

「勝己くん、今日どこか行く?」
「や、予定はねえけど」
「じゃあ買い物付き合ってよ」

土曜日。別れて一週間ということは、勝己くんがこっちの世界に来て一週間ということだ。まだなにも手掛かりは掴めていない。ベランダで洗濯物を干してくれている勝己くんに声をかけると、聞いているんだか聞いていないんだか、「おー」とだけ返ってきた。わたしは食器を洗い終えて髪の毛を整えることにする。暑くなってきたから今日は結ぼうか。ポニーテールにまとめ、おくれ毛を巻いていると、洗濯物を干し終えた勝己くんが部屋に戻ってきた。

「何処に?」
「うーん、またショッピングモールかな。布団も買いに行きたいし」
「俺の買い物かよ」
「だってさすがに腰痛くない?」
「んなヤワじゃねえわ」
「腰痛めると大変だよ」
「ハッ。年取ると大変だな」
「こら」

仕上げにリップを塗って、ピアスをつけていると、勝己くんも着替えてきてくれた。勝己くんの居た世界とはあまり変わらないだろうに、出掛ける時はキョロキョロと視線を動かして、まるで旅行に来てるみたいに周りの景色を眺めるから、家にいる時よりも楽しそうに見える(勘違いかもしれないけど)。どちらかというと、高校生と男の子は出掛けるのを嫌がるイメージだった。弟がそうだ。両親と居るのを見られるのが恥ずかしいらしい。わたしはその気持ちは全く分からなかったけれど。
車の鍵を手に取って家を出る。外は黒い雲が一面を覆っていて、今にも雨が降りそうな嫌な天気だった。



女が譲らないから、結局布団一式を買ってもらうことになった。いつ俺が居なくなるか分からないから、そういう処分に困るものは買わないつもりだったけど。話の流れで最近は買い物ついでに走ってる、と言ったら新しいランニングシューズまで。自分の買い物には金額を見て躊躇するところも見たので、浪費癖があるとかそういう訳ではなさそうだけど、俺のものはポンポン買ってしまうから、貢ぎ癖でもあるのかと思ったほどだ。決して安くはない買い物に女の金銭面を一度心配して聞いたことがあるけれど、一瞬だけ暗い顔をして、そのあとに「貯金頑張ってたからこのくらいなら平気だよ」と無理して笑ってたことに気付いたから、それからもう聞くのは辞めた。貯金を頑張ってたのは、多分あの男のためだったんだろう。こんな健気な女をよく裏切れるな、と思う。俺がその男だったら、絶対そんなクソみたいなことはしないのに。

「次はどこ行く?」

楽しそうに笑う女は、俺の腕を掴んだまま色んな店に連れて行った。俺にメガネをかけて似合わないと笑ったり(あれは完全に馬鹿にしてたからちょっとムカついた)、ゲームセンターでやる気のなくなるゆるい顔をしたぬいぐるみを取ろうと奮闘したりして、ちゃんと笑ってた。良かった、と安堵の息をつく。最近は作り笑いが多かったり、思い悩んだ顔をしていることが多かったから少し気になっていた。俺があの日、男の話をした時からだ。目を丸く見開いて、俯いた女から笑顔が消えたあの時、しくった、と思った。言わなかったら女の顔が曇ることなんてなかったのに、と。忘れようとしているなら少しでも力になれたらいい。思い出させるようなことは言わないようにして、行きたいとこには一緒に行って、考える時間が減らせるように色んな話をして。そうやって、この一週間過ごしてきたというのに。

「なまえ?」

雨が降る前に帰ろうと少し早めにショッピングモールを出て。エレベーターで5階に上がると、ドアの前に男が立っていた。この前の奴だった。小さく女の名前を呟いた瞬間、女の顔色が悪くなる。もし天気が悪くなかったら、帰る時間も遅くなって、きっと会うこともなかったのに。男は俺と女を交互に見て、それから「ああ、君、この前の」と薄く笑った。馬鹿にされているような表情に、手が出そうになったが、ポケットの中で必死に抑え込んだ。

「…なんで居るの」
「家入れてくんない?鍵なくて入れないんだよね」
「入れるわけないでしょ」
「なんで?俺達の家じゃん」
「名義はわたし。それにもう別れたでしょ」
「追い出されただけで別れたつもりはないけど」
「…いや、何言って」
「あいつはただ遊んでただけで好きなのはなまえだけだよ。てかその若い子誰?お前も浮気してるなら1回なら許してあげる。お互い様だし」

………は?

そこからはほぼ無意識だった。俺は一人で家に入り、女が少しずつダンボールに詰めていた男の荷物を持って、また外に出た。投げつけるように荷物を無理矢理持たせ、胸ぐらを掴む。なんでこんな奴に泣かされてんだよ。なんでこんな奴が好きなんだよ。なんでこんな奴を。

「二度と顔見せんな、ここにも来んな」
「は…?なんでお前にそんなこと、」
「次なまえに近づいたら殺す」

自分の目付きや態度が悪いことは自覚している。大抵の奴らにビビられてることにも気付いている。これを最大限につかわない手はない。怒りでどうにかなりそうだった。胸ぐらを掴む手に力が入り、男が苦しそうに眉間に皺を寄せる。こいつはお前なんかよりずっと苦しんでんだよ。もっと苦しめ。苦しんで死ね。もっと、

「勝己く、」

泣きそうな声に我に返った。今にも零れ落ちてしまいそうなくらい下まぶたに溜まった涙が流れないように、必死に堪えているようだった。

「…もういいよ。ごめん、ありがとう」

唇を噛み締めていたせいで血が滲んでいた。もし女の声がなかったら、このクソ男を殺していたかもしれない。開放すると、咳き込んだ男は捨て台詞を吐いて踵を返した。もうこれでここにくることはないだろう。姿が見えなくなった途端に力が抜けたように座り込む女と視線を合わせるようにしゃがみこむ。

「…立てるか」
「ん。…ハハ、あんな人だったんだね。ずっと付き合ってたのに気付かなかった」
「もういい」
「遊んでただけって。笑える。そんな簡単に浮気なんて出来るものなんだね」
「もういいから喋んな」

変な噂になっても困るだろうしさっさと家に戻ろう。手首を掴んで立ち上がらせる。こんなに手首が細いことも、握るまで気付かなかった。男女の差というものを実感させられる。例えば、少し力を入れたら簡単に折れてしまいそうな細い腕とか、華奢な身体とか、低い身長とか、白い肌とか。ああ、もう駄目だ。考えないようにしていたのに。知らないフリをしていたのに。笑った顔を見ると安心するのも、クソ男のために涙を流す姿を見たくないのも、ずっと自分の傍に居て欲しいと願うのも。そんなの、答えはもう一つしかなくて。

「名前、やっと呼んでくれたね」
「…馬鹿かよ」
「怒ってくれて嬉しかった。勝己くんがいてくれて良かった」

へらりと笑った拍子に涙が落ちた。泣いてる顔を見ると、心臓が締め付けられて、苦しくて。嬉しいなら、いくらでも怒ってやる。居て欲しいと言うならいくらでも傍に居る。そんなこと、言えるわけがない。いつ居なくなるかも分からない俺が、軽々しく言ってはいけない。分かってる。分かってるけど。この手首を引き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまえたら、二度と離さないのに。なんて、考えることくらいはどうか許してほしい。

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