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震える指をインターホンに置いて、離して、また置く。冷静に考えれば共通エントランスを通る時に一度解錠してもらっているのだから今更緊張するのも可笑しいのだけれど、扉一枚隔てた向こう側はあの五条悟の自宅である。

おうちデートの約束をしてからおよそ3週間、休みの日を擦り合わせて、ミズキは初めて五条の自宅を訪れていた。元々、学生が住むような小さなワンルームは想像していなかったにしても、教わった住所に辿り着いた時点から物件の壮大さにミズキはすっかり萎縮していた。共通エントランスから部屋までもそこそこ距離があって、郵便を取りに行くのも結構大変なんじゃないかと要らぬ心配もした。

ミズキが意を決してインターホンを押し込むと、音が鳴り止む前にドアが内側から開いた。

「はいっ」
「あ、はい!」
「いら…っしゃい、」
「はい、」
「…ませ?」
「お店になっちゃった…」

五条の方も共通エントランスを解錠してからそわそわと玄関の内側で待っていたのである。
ぎこちない遣り取りの末に2人揃って気の抜けた笑いを零して、ミズキは五条の自宅へ招き入れられたのだった。

リビングに入ってすぐに五条はミズキを振り返り、彼女の姿を含んだ自宅という映像を目に焼き付けて瞼を震わせた。

「やば何か涙出そう…」
「えっどうかしました…?」
「や、ミズキちゃんが僕んちにいるって…合成?夢?ドッキリ的な…?」
「おうちデートのはずですね」
「もしかして触った瞬間クリームまみれにされるやつ?四方八方に落とし穴ある?」

無論自宅に生クリーム発射機は仕込まれていないし、ツルリとしたフローリングに落とし穴など無い。しかし五条は職業病を拗らせて、自宅なのにドッキリカメラを探して忙しなく視線を巡らせ始めた。
すっかり挙動不審になった大男を前にしてミズキは緊張していられなくなって、思わずくすくすと笑った。
彼女は挙動不審を続けている五条に歩み寄ると彼の大きな手を取った。随分大きさの違う手のひらを合わせて指を交差させ、厚みのある五条の手をミズキの細い指が握ると、五条は首根っこを咥えられた子猫のように大人しくなった。

「私楽しみにしてたんですよ。腕時計もちゃんと持ってきました」
「………今、」
「はい」
「ものすごくどこかにお金払いたい」
「ダメですねそれは」

五条悟は感情が高まると課金に走るタイプのオタクであった。





それから15分後、広々としたソファの上、一対のコントローラー。

「あのねミズキちゃん」
「、はいっ」
「ここ制限速度ないから大丈夫だよ」
「やですガードレールないもんスピード上げたら落ちちゃう!」
「物損も人身もないお気楽な世界なんだけどなぁ」

某配管工と誘拐されがちなお姫様の全く競ってないカーチェイスが展開中である。
五条とミズキは2人してソファに落ち着いて、とりあえずゲームに興じていた。ちなみにゲームを選んだのはミズキで、五条の提示したもう一方の選択肢はイヌマキのライブDVD鑑賞だった。推しのDVDを推し本人と一緒に観る案を却下された五条は少しショボンとしていた。
そしていざゲームを始めてみると、控えめに言ってミズキはゲームの才能に恵まれていなかった。と言うか、非常にビビリで勝負に勝とうという気がないのである。
「まぁこれってある意味ドライブデートだよね!」と五条が斜め上なポジティブを発揮している傍らで、ミズキはギミックの妨害に遭ってコースアウトしていった。

「うぅなんで…安全運転してたのに…」
「うん、白バイが笑顔で手ぇ振ってくれるような安全運転だった。あミズキちゃんそっち逆走だよ」
「わぁ完全に迷子!五条さん私に構わず行ってください…」
「ははっいーよ待ってて迎えに行ったげる」

配管工の車がコースの端からピョンと飛び出した。恐らくここに来る車は少なかろうという高架下で迷子のお姫様と合流し、ぴったり寄り添い元の道に導いて、2人仲良くゴールラインを超えた。こうなると最早違うゲームである。

「わぁ…自力…ではないけど、ゴールしたの初めてかもしれません」
「うん、次までにいきものの森とか買っとくね」
「その森では競争しなくていいですかね?」
「あの森はスピード上げるタイミングないと思うよ」
「とっても安心!」

五条は自分1人の時にゲームをすることはほぼなく、そのためソフトの品揃えも対戦ものばかりである。彼はまさか自分がゲームの中でスローライフを送る日がくるとは思っていなかった。想像すると自分で笑えてくるし、夏油が見れば腹を抱えて笑うだろう。

ミズキと五条は2人でしばらくケラケラと笑っていて、ふと顔を上げた拍子にあまりにも近い距離で顔を突き合わせた。
即座に空気が緊張して肋骨の内側で心臓が痛いほど跳ねる。目を見て、唇を見た。お互いに。
五条はミズキの名前を呼ぼうとして一度声が掠れた。

「ミズキちゃん、」
「は、い」
「キ、ス…しても、いい、ですか」
「はっはい」

言いながら、五条は早速悔いていた。ミズキに告白した時にも緊張のあまり片言の敬語まがいになって、自分自身に対してキレ散らかしたのだ。また同じことをやらかしている。しかし目の前のミズキが目を閉じたのを見て全て吹き飛んでしまった。

テレビ画面の中では時折キャラクターが飛び跳ねたりしながら控えめなBGMを背負って、次のコースを選べと急かしている。黙ってろ今それどころじゃねーの、と五条の頭の片隅が吠えた。

五条の頭の中にはほんの少し昔のことが駆け巡った。
まだミズキはプロの歌手でなく五条も今ほどの知名度を得ていなかった頃、顔も映っていない動画の歌に心を奪われた。それから数年の内に、現実に会って、会話をして、告白をして、恋人になって、そして今キスをしてもいいと許しを得た。何これドラマじゃん、と五条の頭の中に彼自身の声で他人事のように響いた。
ミズキの肩に手を置くと目を閉じた顔がぴくりと緊張した。耳の中で心臓が鳴っている。顔を寄せて髪を避け、額にキスをした。
唇には、出来なかった。

ミズキは目をぱちくりと丸く開けて、額の感触がキスだったらしいことを知り、ムッと目を細めた。

「…うそつき」
「ごっごめん僕、」
「…次は口にしてくれるって、言った」

五条は今この時、心臓を鷲掴みにされたように苦しくて堪らなくなって、ミズキの丸い頭を両手で掬い上げるようにしてそっと、今度は唇にキスをした。柔らかくて温かい。彼女の上唇を軽く食んで、一度離れ、また柔らかに押し当てた。
脳味噌がひたひたの蜂蜜に浮かんでいるような心地がした。
唇を離すとミズキが五条の肩に顔を押し付けて隠してしまった。

「なっどっ?!どした、ごめん嫌だった?!」

ミズキが小さく首を振った。

「五条さん、きれいで…ドキドキします」

無論五条にとっては、見飽きた自分の顔よりも推しの方が美しい。憧れ続けた相手が舞台から降りてきて、今、自分とキスをして感情を動かしてくれているという実感が五条を堪らなく幸福にした。
彼は自分の胸元で縮こまっているミズキに腕を回して抱き締め、はー…と感嘆の息を漏らす。

「何かさ…、信じらんねー…。僕ミズキちゃんにキスしたんだよ。多分来世の分まで運使い果たした…もうこれから一生僕の給料ミズキちゃんにあげる…」

プロポーズの時と同様五条は至って本気だったのだけれど、腕の中でミズキはくすくすと笑った。

「もー…五条さんのスイッチが分かんないです。いつも芸人さんのノリなのに時々すごく大胆になったりして」
「切り替えてるつもりないんだけどね。どっち好み?」
「どっちも好きです。だからお財布探さないで」

財布を求めて鞄を手繰ろうとしていた五条の手が、叱られた犬みたいにすごすごと戻った。ミズキは五条のこれを『芸人ノリ』とみなしているけれども、五条の支払意思と能力は本物である。

藪から棒に彼は「あっ」と声を上げて目を輝かせた。

「録画!録画してある番組観ていい?ミズキちゃん来てくれたら一緒に観たかったやつ!」
「?はい、もちろん」

彼は次のコース選択を待っていたキャラクターの笑い声を中断して録画一覧を表示した。Newの表示が付いた番組を選んで再生すると、コマーシャルの最後が少し流れてすぐに音楽番組が始まる。番組の見所にナレーションが軽く触れた時点で、ミズキには心当たりがあった。彼女が出演した回である。
画面の中、ミズキの表情は緊張している。この緊張は仕方のないことだった。何しろ憧れの歌手と初めて顔を合わせる場であったし、それに、

「このミズキちゃん、僕にキスされた直後なんだね」

ミズキは顔を覆った。

「ね、この時少しは僕のこと考えてくれてた?正直めちゃくちゃ嫉妬してたの。僕と話してんのに他の人のことでミズキちゃん緊張しててさ、恋してるみたいじゃんって」
「恋、じゃない、です…」
「分かってるよ。でも妬いたってこと」

画面の中のミズキはそわそわと落ち着かない様子で何度も唇の横に手をやっている。
ソファの上のミズキはおずおずと顔を上げた。隣の五条は画面の中へ焦がれる視線を送っている。ミズキが彼の肩にそっと触れると、顔が彼女に向いた。彼女は膝で立って身体を乗り出し、

ちゅ。

「………へ」
「これでおあいこ」

五条の至近距離でミズキは照れを含んだ笑顔を浮かべてからソファの元の位置に戻っていった。五条は画面の中のミズキと同様に、唇のすぐ横を確かめるように指で触れている。
それから徐々に五条の姿勢が崩れ始め、彼はソファの座面から転がり落ちた。床の上で彼は仰向けになって両手で顔を覆った。

「あ゛ーーー…」
「五条さん、この状態で番組収録ですよ」
「本当ごめんなさい無理です顔戻すのに最低2日」
「もう妬かない?」
「それね!こんなことしてもらえんの彼氏である僕だけだから!彼氏!僕が!ミズキちゃんの!彼氏!!」

五条はまた文字に表し難い声を上げて脚をバタつかせた。190pを超える大男が盛大に転げ回っているのに、床は広々としている。
ミズキはあまり広くない自宅を思い浮かべた。五条を招いたりしてみたいけれど、この上等な部屋の後では気後れするし、彼はきっと天井灯に頭をぶつける。

「私の部屋…五条さんに遊びにきてもらうには狭すぎますね。きっと」

五条はにやける顔に押し付けていた両手をパッと外して機敏に起き上がった。推しの自宅というのはミズキが思う以上にパワーワードである。

「部屋っていつもミズキちゃんがご飯食べたり寝起きしたり休みの日には掃除したりノンビリしてる部屋だよね?!」
「一般的にそうですね」
「聖地じゃんもはや部屋自体尊いよ絶対行く彼氏だから僕彼氏だから!!」
「ここみたいに立派じゃないですけど…」
「家賃と場所の尊さは比例しないから!!」

ミズキはまだ、オタクにとっての聖地の価値についていまいち理解していない。ちなみに話の流れで言いそびれたのだけれど、彼女はデビュー前から今と同じ部屋に住んでいて、五条の沼落ちのキッカケとなった配信動画を撮影した部屋だというのは、現状言わなくて正解である。主に五条が制御不能になるという意味において。

五条は有り余る喜びに足踏みしたり腕を揺らしたりして、ミズキがそれを微笑ましく見ていることに気付くとようやく少し落ち着きを取り戻した。床に座ったまま彼女の足元へ進んで、ソファの座面に手を置く。

「ミズキちゃん、ごめんね」
「何のことです?」
「ファン歴長いからミズキちゃんは僕にとって推しっていう面があってさ、ミーハーに騒いだりしちゃうんだけど…ちゃんと女の子として、恋人として、好きだよ。大事にする」

五条はミズキの手を取って、体温を確かめるように緩く握った。2人の手は、大きさも造りも随分違っている。世界一小さな猫と世界一大きな猫がまるで違うみたいに。
小さな猫がにっこりと笑った。

「私も、売れっ子じゃなくても五条さん好きですよ。…でも五条さんが売れてないってちょっと想像できないですね」

街を歩けば人の振り向く白髪碧眼の美男である。五条が普通の会社勤めをしているところを想像しようとして、ミズキはそのチグハグなイメージに苦笑した。
五条は口元の形をどう落ち着ければいいものか分からなくなって、口を濯ぐようにむにゃむにゃと半端に動かしたと思うとソファに額を預けて顔を隠した。正直なところ泣きそうな28歳男性である。

「もう僕ミズキちゃんのこと一生推す…来世まで愛す…」
「やったぁ」
「無邪気かわいい…僕の彼女最高にかわいい…手始めに振込先の口座番号教えて…」
「それは内緒にしときますね」



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