24.小指の役割
女が五条家に女中として入ったのは、悟がミズキを攫ってしまった後のことだった。
表面上はすぐにミズキの部屋や私物の一切が屋敷から消され、彼女の名前を口にする者は1人もいない。そのため女は当たり前に悟を五条家でただ1人の嫡子と思い込み、総会で一度だけ顔を出した彼に心の底から惚れ込んでいた。勿論のこと身分違いは承知の上で、それでも万一妾にでもなれたなら…という仄暗い下心があった。
そんな中、ある日人を払った部屋で女に1枚の写真が手渡された。
「ここに連れてくる…この女を…」
「そうだ」
五条家幹部の男曰く、写真の女が悟を誘惑し、彼を五条家から引き離し操っているとのことだった。
もしもこの女中が古参であれば、渡された写真の背景が今自分のいる五条本家であることや、ミズキの顔貌がどこか悟に似ていることに気が付いただろう。けれども女は日が浅く、悟に恋焦がれた頭は冷静でもなかった。
「お友達」
悟はその言葉をテーブルに置いて眺めるように口にした。ミズキはにこにこと機嫌良く、ここ10日間ほどの間に3度会って意気投合したという新しい友達のことを悟に話して聞かせる。
ミズキがここ最近気に入って通っているカフェである日、歳の近い女性と相席した。話してみると食や本の趣味が驚くほど重なっていて、すっかり仲良くなったのだという。
悟はニコ、と綺麗に笑ってやった。
「良かったね。次も会う約束してるの?」
「うん!私がお酒飲んだことないって言ったら行ってみようって誘ってくれて。明後日の夕方なの、行ってきてもいい?」
ミズキは成人しているけれど、飲酒の経験は今までにない。悟自身が下戸で酒に興味がなく、これまでミズキに酒を差し出す者がいなかったのである。
「勿論いいよ、楽しんできな。その日だったら僕が迎えに行けるし」
「悟ありがとう!」
ミズキは嬉しそうに、言葉を弾ませるようにして笑った。彼女にとって夏油と硝子以外では初めての友人である。
ミズキから店の場所を教えられた悟は地図を一目見てすぐに覚えた。その店から移動が容易で『使えそう』な場所も、彼の頭にはいくつか候補がある。
かくして迎えた当日、ミズキに予定よりも早く悟からメッセージが入った。店に入ったばかりで、ミズキにとっては見るのも初めての酒の名前から最初の1杯を選んでいたところだった。
ミズキは友人に弟が同席してもいいかと尋ねて、(その友人にとっては内心渋々の)了承を得た。女にしてみれば無害な友人を装って、ターゲットの食や本の趣味に一生懸命話を合わせ、やっと漕ぎ着けたチャンスであって、弟の同席は嬉しいものではない。しかし焦りは禁物、弟とやらの信頼を得れば自然に次回に繋げるのだからと思い直したのだった。
ところが、いざその弟が到着すると女は激しく動揺した。何しろ、ターゲットの弟として現れたのが恋焦がれる五条悟である。女の中で雇い主から吹き込まれた情報と現状が入り乱れたけれど、動揺を悟られないよう無難に振る舞いながら、すぐにミズキの嘘だと合点した。ミズキがこうして嘘で言いくるめて悟の交友関係も含め操っているのだと。
テーブルの向かい側でぴったりと寄り添い合ってメニューを覗く2人…というよりも悟を侍らせるミズキに、女は憎悪を燃やした。
その憎悪と動揺を必死に押し殺し、予想外に舞い込んだ意中の相手との同席に女は愛想のいい笑顔を整えた。
「さ、悟くん、は、何飲む?ビール好き?」
「いらない。僕酒嫌いなんだよね」
「そ、そっか…」
女にとって雲の上の存在である悟を親しげに呼ぶことは、結構な胆力を要することだったけれども、悟の方は気にも掛けない。彼はニコニコとミズキにメニューを示して、硝子とかいう友人が初心者向けだと言っていたらしい酒をあれこれ教えている。
届いた酒を飲んでみて明らかになったことには、ミズキは悟ほど下戸ではなかった。頬をほんのりと赤くして、いつもより緩んだ笑顔で楽しそうに話していた。悟は始終嬉しそうにあれこれとミズキの世話を焼き、愛しげに髪を撫で、女からは見えないけれどテーブルの下では腰を抱いている。
女の方は、自身も少し酒が入っていることもあって、段々と笑顔を保てなくなってきていた。ミズキに対して、姉弟だなんて大それた嘘を吐くならせめて姉弟らしく見える距離感を装え、と内心で悪態を吐いた。
雇い主からは連れて来いと指示されているけれど、無傷でとは言われていない。例えば五条家に到着するまでに不慮の事故で指の1本くらい欠けてしまっても、責めを受ける事由にはあたらないはずだーーー…
「ハハ、君さぁ酔うと愛想悪くなるタイプ?目ぇ据わってんね」
「!申し訳、」
「何で敬語?ウケる」
「あ、や…ごめん、ちょっとボーッと…」
「フーン」
悟の冴えた碧眼がサングラス越しに女を貫き、女は慌てて取り繕った笑顔を悟に向けた。
「さっ悟くん、ちゃんと楽しめてる?私もっと悟くんのこと知りたいな…?」
咄嗟の一言ながらこれは女の本心だった。女はゆったりと思わせぶりな瞬きをして、テーブルの上に置かれた悟の大きな手に触れようとする。
「だめっ」
ずっとふわふわとした目で会話を眺めていたミズキが唐突に声を上げた。彼女は弟の腕にきゅっと抱き付いて女を見る。
「私のなの、とらないで…っ」
悟は自身とミズキを囲むように無限を張っているし、言うまでもなく女に触れさせるつもりは微塵も無かった。しかしそれを知らないミズキが普段見せない嫉妬を見せたことは、間違いなく悟にとって僥倖だった。
彼は感動に打ち震えると大型犬が飼い主に戯れるようにミズキに抱き付いて、髪が乱れるのも構わず盛大に頬擦りをした。
「ミズキミズキミズキ可愛い安心して僕はミズキのだから!でも嬉しい嫉妬してくれたね!僕がミズキ以外に触らせるわけねぇだろ?不安になっちゃった?僕を取られちゃうと思ったの?ねぇ取られちゃうと思って嫌だったの?まさかでしょ僕がミズキから離れねぇよあ"ー可愛いぃぃ好き」
騒がしい愛の告白が畳み掛けられ、終いには悟がミズキの頬を捕まえて、小鳥がするように愛らしいキスを何度もした。
女が呆気に取られて目を丸くしている傍ら、ようやくミズキから唇を離した悟が笑って彼女の髪を撫で付けた。
「ごめん、髪くしゃくしゃにしちゃったね。お化粧も」
艶やかな黒髪は軽く乱れ、口紅のピンク色も唇の輪郭からはみ出てしまっている。ミズキは人前でプライベートな行為に及んでしまったことを恥じて肩を縮ませた。
「髪とお化粧直しておいで」
「…もうっ」
ミズキは女に詫びると小走りに個室を出ていった。ミズキの足音が遠ざかるのに比例して悟は表情のレベルを落とし、聞こえなくなると完全な無表情になった。
「あ、あの…」
「何」
「弟って、…姉弟で、キス……?」
「したけど?だから何」
冷淡に返事をしながら、悟は女の前に置かれた飲みかけのグラスを取った。カンパリオレンジ。グラスの縁に飾られたオレンジのスライスは取って捨てる。悟は懐から小さな錠剤を出して酒に入れ、グラスの底で円を描くように揺すった。
「はいどーぞ」
「え、…ぇ、いま、何を、」
「眠剤。速溶って硝子が言ってたから溶け残りはないと思うけど」
「な、……どう、」
「聞こえなかった?飲めって言ってんの」
ニコ、と悟が口端だけで笑った。
肺を押し潰されそうな言い知れない圧を受けて、女は震える手でグラスを手に取ったのだった。
「ただいま…あれ、」
「おかえり。この人結構酔ってたのかな、何か寝ちゃったみたい」
ミズキが個室に戻ると女はテーブルに伏せて寝こけていた。
悟は上着やミズキの荷物を取ると、彼女を席に戻らせることなく個室から出る。
「お会計済ませたし出よっか。この子は彼氏が迎えに来るってさ」
「あ、そうなの…?恋人がいるのね」
「安心した?」
悟が意地悪な笑い方をして見せると、ミズキはふっと目を逸らした。
「ミズキ可愛かったなー『私のなの、とらないで』ってあー思い出しても可愛い常に可愛い」
「あれはっ…、もう、恋人のいる人に変なこと言っちゃった」
個室とはいえ眠る女を1人残して去ることをミズキは気にしたけれど、悟が多少強引に背中を押して店を出る。
悟はミズキを抱き上げて人目のない路地裏から上空へ登り、すいすいと瞬く間にふたりの自宅前に至った。
「あ、僕ドラスト行ってくるからお風呂入って待ってて」
「今から?何か足りないものあったっけ…」
「ゴム無くなっちゃった。コンビニだと僕のサイズ置いてないんだよね」
途端に真っ赤になって狼狽えるミズキを玄関に入らせ、悟は扉の隙間から笑って見せた。
「帰ってきたらエッチしようね」
言い残して扉を閉め、悟は音もなくその場から消えた。
彼はすぐに元の店へ戻り、1人の店員を捕まえた。
店員の方は、先程悟に渡された万札をポケットの上から軽く押さえる。
「さっきの酔っ払い引き取りに来たんだけど、変わりないかな?」
「えぇ、ずっと爆睡ですよ」
「ありがとー。場所代足りる?」
「充分です。どうも」
女は悟が個室を去った時から変わらず伏せて眠っていた。彼は女の上着と荷物を持って肩を貸すように支え、店を後にする。ミズキを連れ帰った時と同様に路地裏へ入ると荷物のように持ち方を変え、また音もなく姿を消した。
頭から水をかけられて女は覚醒した。頭が重い。冷たく埃っぽい床に頬をつけている。ガラスの割れた窓から冷たい風と薄明かりが漏れている。
「おはよ、よく寝てたみたいだね」
声を掛けられて女が必死に顔を起こすと、黒い大きな革靴が見えた。更に身体を反らせて見上げ、ようやく悟を発見する。その時になって身体の不自由から、両手首を背中の後ろで縛られていることに気付いた。
「さ、悟様…」
「手短にいこっか。誰の差金?」
「そ…それは、とても、」
身体中が酷く痛んだ。後ろ手に拘束されたまま随分長い時間捨て置かれていたようだった。
悟の靴が女を蹴って仰向けに転がした。
「まぁ別に誰でもいいけどさ。僕に『様』ってことは家の誰かなんだろうし」
「さっ悟様、だ騙されておいでなのです!ああのお女っ悟様を誘惑した上に!姉弟だなんてう嘘まで!」
「ミズキが僕を誘惑って響きはイイね。てか姉弟は嘘じゃねーけど」
「、え…」
「僕ら双子。ミズキと僕ね。胎の中から一緒だよ」
「ぇ…ぁ…?ででも、キス、して、」
「するでしょ愛してるもん。昨日お前をここに置きに来た後帰ってセックスもしたよ?ここドラスト近くて良かったなぁって思った」
天気の話でもするように気軽な悟とは対照的に、女は混乱の余り声も出なかった。
「てかさ、もういい?お前喋る気ないみたいだしサクッと片付けて任務行かなきゃ」
悟がずっとポケットに突っ込んでいた両手を出すと、女は自分を差し向けた男の名前を白状した。それから震え裏返る声で謝罪と命乞いを繰り返した。
「コレ」と悟が透明なジッパーバッグを摘みぶら下げて女に示した。中には白い錠剤がいくつか。
「お前のポケットに入ってたやつね。やりたかったことはまぁ分かるけど、未遂だしもういーよ。それよりこの袋、小指1本ぐらいなら入りそうじゃない?」
悟が女の身体を跨いで背後に回り、女の右手小指を掴んだ。女は半狂乱で身を捩り逃れようとしたけれど悟に背中を踏まれ、杭を打たれたようになった。
「ミズキにはね、お前は海外に引っ越すことになったらしいって言っとくよ。家の連中もさぁ…ちょっとミズキの行動掴めたからって安直なことやると人命が無駄になるよってコレで分かってくれたらいいんだけど」
悟が軽く笑ったその顔は、女からは見えない。
後日五条家に届いたその小包みを開梱した女中は絶叫し、その騒ぎは悟の望み通り、幹部の耳にも入ることとなる。
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ネタポストより『酔った状態のお姉さん、悟の腕をくんで「私のなの。とらないで。」 と静かに圧をかけてくる感じ』(一部抜粋)
アンケートコメントより『五条さん狙い女性が五条姉弟のほのぼのを邪魔して返り討ちに合う』(一部抜粋)
ネタ提供ありがとうございました!
本シリーズの基本(=物騒)に立ち返ってみました。