25.花に呪い
花器に違和感が活けられている。
悟が帰宅するとリビングの隅に花があった。ミズキは花が好きでバルコニーの一角にハーブや花を育てているし、切花を買ってきて飾ることもある。しかしミズキが自ら花を飾る時にはよく目に入る上席に置くし、彼女の選んだ花は不思議と何年もその場所に咲いていたように部屋に馴染むのである。
今回部屋の隅に置かれたその花はどことなく招かれざる客という顔をしていて図々しく、悟の気に障った。
翌日になると違和感は更に膨れた。
花瓶の口に昨日はまだ余裕があったものが、今日は窮屈そうに詰まっている。花器は他にもまだあるはずで、ミズキが好んで買ってきた花をそんな風に扱うとは考え難い。
それとなく尋ねてみると「お花屋さんでもらったの」と少しぎこちない笑顔が返ってきただけ。
悟は花の前に立ち、目を細めて、その品種と色と本数を見た。魚の鱗を1枚ずつ剥がすようにして。
その花屋にはちょっとした雑貨や花の香りの石鹸も置かれている。悟とミズキの住むマンションからほど近い位置にあるものの少し奥まっていて、最近になって偶然見付けたのだとミズキが嬉しげに話していたのを悟は思い出した。
入店すると草花の匂いと湿り気を含んだ空気が悟の頬を撫でた。いらっしゃいませ、の声は男。
「何かお探しですか」
女性客ならば雑貨や花を見たいだけという可能性もあれど、男性が花屋に入るのは必要に駆られた場合がほとんどである。それで店員の男は注文を取るつもりで悟に声を掛けたのだけれど、返ってきたのは花の種類でも花を求める目的でもなかった。悟の真っ青な目がサングラス越しに男を抉るように見て、男は思わず半歩後ずさった。
「君、バイト?」
「…お俺?ですか…バイトですけど…」
「そっか良かった」
『良かった』と言いつつ悟は嬉しそうにしない。
この風変わりな客は相手と意思疎通するために会話しているのではなく、事務的で冷たい事情聴取をしている…という風に、男には感じられた。第一、バイトだから何が良かったというのか。
「花を買いたいんだけど」
「えぁ、はい…」
ここで初めて悟はニッコリと笑って見せた。しかし目の奥は笑っていないことが、男には分かった。
「赤いアネモネを2本、黄色いガーベラを1本、赤いバラを12本」
この注文の仕方も、少々珍しい。男が今までに接客した男性客は見舞いだとか祝いだとか目的を伝えて、少し気の利く方ならば贈る相手の好きな色を添えて、適当に見繕ってくれというのがほとんどだった。
それに、この花の種類と本数について、男には心当たりがあった。
「失礼ですけど…告白ですか?」
男がおずおずと長身の悟を下から覗くように見ると、悟は形だけ笑っていた口でより深く弧を描いた。
「まぁ、そんなとこかな。一緒に住んでる最愛の人のためにね」
「それなら…バラの本数は違う方がいいかもしれません。ダズンローズ、知ってます?」
「何それ」
「12本だと恋人になってくださいって意味になるんで…」
男がこれを言った瞬間、悟は笑顔のままぴくりと頬を引き攣らせた。「へぇ」と言う声には不快感が滲んでいる。
「そういう意味だったんだ?アレ。まぁ何かキモい意味でもあんだろって思ってたけどさ」
「…あの、何を言ってるんですか」
「綺麗な綺麗な僕のミズキが、可哀想に会って間もない男に気障な花なんか贈られて困ってるみたいでね。新しい店を見付けたって無邪気に喜んでたのに」
男の肩が僅かに跳ねた。
アネモネとガーベラ、ダズンローズ。男には心当たりがある。
「強制退場させるのは簡単だけど、近所で人死にがあって気に入った店が潰れたりするとミズキが怖がるし悲しむだろ?ミズキが気に入ったならこの店はここにあるべきだし、不審者には平和的に身を引いてもらう必要があんの」
込められた意味は以下の通り。
あなたを愛する
究極の愛
恋人になってください
男は店を訪れたミズキに一目惚れをしてアネモネとガーベラを贈った。その日の勤務を終えても彼女のことが頭を離れず、世間話の中で近くに住んでいると聞いていたから翌日には近所中を血眼で探し歩いて彼女を見つけ出し、ダズンローズを。
店内には今、男と悟しかいない。店長の女性は奥の事務所で業者と電話をしている。
「最悪なのはさ、ミズキが怖い思いをして穏やかに過ごせなくなることなんだよな。本家の方が安全なだけマシなんて思われたらどうしようね?」
男は額に冷たい汗を滲ませた。
悟の顔は笑っているけれど、男は心臓を透明な手に握られているような感覚を得た。
「だから手間だけど隠れて静かに掃除して回るんだ。ミズキの周りで怖いことは起こらない、起っても僕の傍は安全、これが僕の愛。分かるかな?」
男は壊れたように頷いた。狭いレジカウンターの内側では後ずさることも出来ない。
カウンターの上で震えている男の手の上に悟がトンと指を置いた。パシュンと空気の弾ける軽い音がして、男は手に火を翳されたような熱さを感じた。悟の指が退くと男の手には箸一本ほどの穴が空いていた。切断面は不思議に整っており出血もない。苛烈な熱さと痛みがなければ男自身、手の甲に何かが付着していると思うほど。手の向きを変えた拍子に穴からカウンター天板の木目が見え、男は息を飲んだ。
「必要な神経も筋肉も骨も綺麗に避けたし断面も焼いて塞いだから、問題なく生活出来るよ。まぁしばらくは一動作ごとにクソ痛いだろうけど」
「……ッア"、ーーーっ!!」
「ほらほら僕、客だよ?アネモネとガーベラとあれ、ダズンローズだっけ」
男は脂汗を垂らし歯を食いしばって数日前の自分と同じ内容の花を包み、悟はカードで会計をして、花束を抱えて足取り軽く店を出た。その後店主の女性が事務所から店頭へ戻ると、アルバイトの男は姿を消していた。
悟が自宅に戻った時バスルームからはシャワーの音がしていて、その好都合に彼は機嫌良くリビングに踏み入った。
やがてシャンプーの香りを纏って現れたミズキにキスをして入れ替わりに入浴を済ませると、彼女はキッチンのシンクで花の世話をしていた。悟は柔らかく笑って彼女に歩み寄り髪にキスをする。
「花瓶替えるの?ミズキは花が好きだね」
「ちょっと詰めすぎになっちゃってたから、分けようと思って」
「そっか」
水を張ったボウルの中で花切り鋏が、しゃきんしゃきんと小気味いい音を立てて花の茎を斜切りにしていく。花達はそれぞれにゆったりとした部屋のような花器を与えられた。
「…あのね、悟」
切り落とした茎や葉をゴミ袋に纏め、手を洗ったミズキが言った。
「変に思うかもしれないけど…昨日まで私、この花が怖かったの。せっかく人からもらったのに、失礼なんだけど…」
「そうなの?でも怖いのは悪くねぇよ。親しくもない奴からいきなり花渡されたらさ」
「でもね、さっきお風呂から出てきて見たら急に、ぜんぜん怖くないの。花瓶にぎゅうぎゅうに詰め込んで、可哀想なことしちゃった…」
ミズキには呪術師としての才能は備わらなかったけれど、やはり微細な変化や人の機微に敏感なところがある。
悟は愛しげに目を細めて笑った。
「ミズキは優しいね」
「…ねぇ、もしかして悟が何かしてくれたの?おまじないとか」
呪(まじな)い、確かに間違ってはいない。
悟は「ちょっとだけ、綺麗に咲けるようにね」と返して、ミズキのことを抱き上げて何度も何度もキスをした。
そのまま最愛の人を手放すのが惜しくなって、花瓶を飾る場所に運びたいとの要望を受けると、悟がミズキを抱いて、ミズキが花瓶を抱いて、彼女の指定する地点まで運ぶ…というのを3往復。
上席に置かれた花達は、もともとそこに何年も咲いていたかのように部屋に美しく馴染んだ。
「ミズキ、綺麗だね」
「そうだね」
悟がミズキに隠れてしている行いを、彼女は生涯知ることはない。例えば彼女を恐れさせた花が豆粒のように小さく固められ、窓から放り出されたことも。
***
花を見ている姉と姉を見ている弟。
最後まで読むとタイトルの意味とか読み方が分かる、みたいな仕組みが好きです。