8.炎色反応
※唐突に幼少期(9歳くらい?)の話
「えんしょく反応」
悟の言ったままを復唱したミズキの声色から、悟は彼女が『炎色』の部分を漢字変換出来なかったらしいことを察した。それで、「炎の色でエンショクな」と口添えてやった。
狭い部屋ではないのに座布団の一枚分を残して後は断崖絶壁であるかのように、悟とミズキはぴったり寄り添って座っていた。隣り合った膝の上に悟が化学の図版を広げると、ミズキが目を輝かせてそれに見入った。炎色反応の色見本が鮮やかな写真で並んでいる。
「きれいね」
「ミズキこういうの好きだろ?一緒に見たかったんだ」
「ありがとう悟。ヒ素の色が好き、悟の目の色だから」
「俺はミズキが好き」
ミズキは「炎色反応の話どこいったの」と笑った。
その時ふたりの背後で無遠慮に襖が開いて、使用人の女が怒りを抑えた声で「悟様」と呼んだ。
悟はミズキに向けて柔らかく細めていた目をにわかに鋭く冷たくして、使用人を振り返った。
「何」
「ご出立のお時間が迫っております。ご用意をなさってくださいませ」
「だりぃ、パス」
「なりません。ご昼食は悟様のお好きなものばかりですから、どうか」
「ミズキが一緒なら行ってもいい」
一応穏やかな風を装っていた使用人の目の奥でゆらっと怒りや蔑みの色が強くなって、その目がミズキを見下ろした。しかしそれも一瞬のことで、すぐに訓練された笑顔を取り戻した使用人は優しく悟に語り掛けた。
「本日は悟様だけの大切な御用ですから、ご同伴いただけません。ご理解を」
「本日はってよく言うぜ、いつもだろ」
「悟様、このようなお戯れが許されるのは今だけでございます」
「オタワムレねぇ」
ケッと忌々しそうに悟が吐き捨てる横から、ミズキが彼の袖をついついと引いた。
「悟、私お留守番してるから、行ってきて」
「…でも」
「ね?帰ってきたら、また遊びにきてくれる?」
「当然だろ、言われなくたって来るよ」
ミズキににっこりと笑ってお願いされてしまえば、悟は頷く以外の選択肢を持たない。悟は不承不承ながら腰を浮かして、立ち上がる途中でふとミズキと視線が合うと楽しげに笑って彼女の前に膝で立ち、ミズキの唇にちゅぅっとひとつ可愛らしいキスをした。
「じゃあ行ってくるな、待ってて」
「悟様っ!」と使用人が目くじらを立てたのに対して悟は心底冷たい目を向けた。
「オタワムレだろ、流せよ」
仮面を替えるようににっこりと笑ってミズキに手を振り部屋を出る悟を追って、使用人もそそくさとその部屋を後にしたのだった。
ミズキのいる離れから母屋への渡り廊下に差し掛かったところで、悟が背後の使用人に横顔と冷たい睨みを向けた。
「ミズキが気ィ遣ってるから行ってやるけど、1個条件な」
「…伺いましょう」
「今日これから俺が食うのと同じものをミズキにも出せ。誤魔化したら殺す」
「…承知致しました」
「会食ったってどーせいつもの料亭で見合いだろ。どこのババアが来んの?」
「〇〇家のご令嬢でございます。お美しい方ですよ」
「いいこと教えてやろうか、俺とミズキ以外ってゴミかクズなんだぜ」
使用人は鉄壁の笑顔で「左様でございますか」と言うのみだった。
「やれやれ坊の戯れも困ったものだな」
「悟様が何故離れにばかり入り浸っておられるのかと…訝る方もいらっしゃいます」
「全く頭痛の種だ」
五条家の幹部に座す初老の男と、悟を見合いの席に送り出した使用人の女が、薄暗い部屋で声を潜めていた。
ミズキの存在を知る数少ない人間にとって彼女を秘匿しておくことは至上命題である。六眼と無下限術式を併せ持つ呪術界の至宝が実は、凶兆とされる双子であって、しかも片割れは呪霊こそ見えるものの術式も持たず呪力も微弱な役立たずとあれば五条家の沽券に係わる…というのが彼らの共通認識であった。
秘密裏に始末してしまえという声も勿論ある。しかし悟がそれを許さないことは明らかで、その執着ぶりがまた幹部らの頭痛の種だった。
「…養子に出すか」
男がぼそりと溢した。勿論それも過去に持ち上がった方法だったけれども、ミズキのことを五条家の子どもとして家の外に開示すること自体がタブーなのだから、その度立ち消えになってきた。
「分家のどこかに金を握らせてそこから別の家へ養子に出す。ほとぼりの冷めた頃合いで元の分家を畳んでしまえば…」
「その前に俺がお前らをどうするか想像出来ねぇんだよなぁ」
「そういうとこが雑魚なんだよ」と悟が胡坐の膝に立てた頬杖の上で口元を歪めた。襖や障子を開閉した気配にすら気付かなかった2人は、もう少しで悲鳴を上げるところだった口元を、片方は歯を食いしばって、もう片方は手のひらで押さえてどうにか抑え込んだ。
「まだ分かんねぇかな、俺からミズキを引き離そうったって無駄なんだよ。俺のミズキをどうこうしようってんならお前らの臓器引き摺り出してひとつずつ燃やす」
未発達な少年から発せられているとは思えない禍々しい威圧感に、2人は恐怖のあまり吐き気を催した。悟は歯医者の待合で壁のポスターでも眺めるような目でそれを眺めていて、その内出し抜けに「炎色反応ってあんじゃん」と言った。
「カルシウム、カリウム、ナトリウム、ルビジウム、ストロンチウム、ヒ素、銅、バリウムぐらいだっけ、人体にも含まれるよな」
つらつらと並べ立てられた単語を上手く飲み込むことが出来ないまま上擦った呼吸を繰り返すばかりの2人の様子を気にも留めずに、悟はかくんと首を傾けて独り言のように続けた。
「ちゃんと色出るかな、やっぱ微量すぎてダメかもな。不純物も多いしさ」
2人は悟がガスバーナーに金属片を翳して炎色反応を確認するように、自分達の臓器を燃やして炎の色を淡々と確認するところを想像した。そしてその想像と現実を隔てているのは悟の心ひとつであることが手に取るように分かった。声が出ない。
「ミズキがさ、ヒ素の火の色が俺の目と一緒だから好きって言うんだ。可愛いだろ?」
問い掛ける形をしていながらも、2人が保身のために壊れたように頷く様を悟は見もしなかった。
そこから悟は、急に立ち上がるとすたすたと部屋を出て、襖の向こうへ姿を消す直前に振り返って2人をジロリと見下ろした。
「『俺の双子の姉でだぁいすきなミズキだよ』って見せて回ってもいいんだせ。もしくは全員火に焚べるか…困るならミズキに優しく媚びろよ」
悟が立ち去った後もしばらく、2人は息をすることが出来ないまま震えていた。
悟がミズキの部屋に顔を出すと、ミズキはパッと顔を輝かせて悟に駆け寄った。悟の手を引いて部屋の中へ導くと、ふたりはまたぴったりと寄り添って座った。
「もっと遅くなるんだと思ってたから嬉しい」
「何か家の関係で挨拶だけしなきゃならなかったからさ、メシ食って後は大人に任せてきた。俺よく分かんねーし」
「あっ今日ね、お昼ご飯がすごーく美味しかったの。悟と食べたかったなぁ」
悟は、母家の方で今頃やっと冷や汗が引いた頃だろう使用人の顔を思い浮かべた。あいつ、一応言い付けは守ったらしい。
「俺も多分同じの食べたよ。ミズキはどれが好きだった?」
ミズキが品数の多い中からあれこれと料理を思い出して並べるのを、悟は目を細めて聞きながら、隣からミズキの髪を撫でて愛でた。
今はまだ背丈も体格も大差ないけれど、いつか大人になったら、ミズキより一回りも二回りも大きな手で長い腕でその肩を抱いて、外国の映画みたいな大人のキスをするのだ。手を繋いで出掛けて、今日の料亭だってミズキと行くなら悪くない。
「茶碗蒸しも美味しかったよね。悟はどれが好き?」
「俺はミズキが好き」
「もーまた、お料理の話どこいったの」
ミズキはまたくるくると笑った。悟はその唇にかぷりと噛み付いて、やわやわと甘噛みをした。素直に目を閉じるミズキの瞼を眼前に見ながら、勇気を出して初めて舌先でミズキの唇を舐めた。蜂蜜を舐めたように甘く感じた。
ミズキは驚いて肩を跳ねさせたものの、返事をするようにぺろりと舐め返してくれ、悟は心臓がきゅぅっと掴まれたような幸せな心地がした。
そのまま、まだ理解の及ばない胸騒ぎのような大きな感情に息が上がってしまうまで、悟とミズキはお互いの唇を食んでいた。
ようやく唇を離した時にはふたりともが目をとろりとさせていて、悟は堪らず膝で立ってミズキを抱き締めた。
「好きだよ、ミズキ」
「私も大好き」
「タワムレなんかじゃない」
「うん…?」
ぎゅうぎゅうと痛いほど強く抱き締められて、ミズキは悟の胸に耳を押し当てた。とくとくと拍動が走っている。
もっとたくさん触れたいような、大好きだと叫んでしまいたいような、むず痒いこの気持ちと同じ想いをきっと相手も抱いているのだと、お互いが理解していた。