7.アルバイトの裏側で
悟は硝子から紙袋を受け取ると、機嫌良く笑って礼を述べた。
「ホント硝子は頼りになるよね、感謝してる」
「感謝すんならそもそも…あ゛ー…やっぱいい」
「そういうとこ優しいよね」
硝子は思わず口元に手を遣った。禁煙中だというのに咄嗟の仕草で煙草を求めてしまうのだ。ストレスが掛かると特に。
「…分かってると思うが効果は100%じゃない」
「勿論避妊はちゃんとするよ、僕だって真剣に考えてんの」
悟からピルの調達を頼まれた時、硝子は長い長い溜息を吐いた。とうとう来たか、という気分からである。
悟が双子の姉を溺愛していて、しかもその溺愛が家族愛だとか愛玩だとかまだ救いようのあるものではなくて、心の底からの性愛であることを知らされているのは夏油と硝子だけだ。悟から信頼に足ると見做されたことは大変光栄であった(勿論皮肉である)けれども、紹介された時点でいつか『こういう』頼み事が回ってくることは察しがついていた。つまり、避妊関係のことで。
「…頼むから緊急避妊薬を寄越せとか言い出すなよ」
「んなわけ。ミズキを妊娠なんてさせらんないからさ」
硝子は一応安堵の溜息を吐いた。倫理観が行方不明のこの男でも、近親相姦で子を成す禁忌については考えているらしい。
悟はこの場にいないミズキを思い浮かべているのか、空中を見つめてうっとりと目を細めた。
「身体の弱いミズキに、妊娠出産なんてリスクは背負わせないよ。ミズキに何かあったら僕発狂するから」
「発狂ならもうしてんだろクズ」
「えへへありがと」
ダメだこりゃ。
硝子は考えるのを辞めた。
「硝子も進学やなんかでバタバタしてるだろうけどさ、落ち着いたらミズキと遊んでやってよ。『硝子ちゃんきっと忙しいよね』ってさ、シュンとしてんの可愛過ぎてどうにかなりそう」
「まぁお前と違ってミズキは可愛いからな、お前と違って」
「僕だってカワイイだろ?」
わざとらしく上目遣いで小首を傾げた悟に、硝子は心からの軽蔑の目を向けた。勿論、この男がそんな視線などものともしない極太神経の持ち主だと把握した上で。
それよりもミズキを誘うなら進学前だと頭の中でスケジュールを繰っていると、ふと最近になって知った事柄が硝子の頭に思い浮かんだ。
「そういや、最近ミズキ仕事してるんだったか」
先日ミズキと連絡を取った時に聞いたのだ。在宅で翻訳のアルバイトをしていると言っていた。
悟はその話題について納得していない部分があるらしく、その美しい口元をブスッとひん曲げた。
「…そーだよ、そんなんしなくたって僕が養う気満々なのにさ?まぁミズキがやりたいって言うから仕方ねぇけど」
「お前がミズキに逆らえないってとこだけ1mmほど好感を抱かないでもない」
「好感度ひっっっく。まぁいーやミズキひとりにすんの嫌だから僕もう帰るね、薬代は振り込んどくから」
「色付けてな」
「了解ボス」
悟が玄関に入ると、音を察知して部屋の中からミズキの声が「おかえり」と響いた。いつもなら玄関まで出て来てくれるのにな、と訝しく思いながら悟がリビングに入ると、ミズキはダイニングテーブルでノートパソコンを触りながら振り返った。
「出迎えなくってごめんね、悟おかえり」
「ただいま…仕事してたの?」
「うん、今からテレビ会議するからちょっとだけシー、ね?」
唇の前に人差し指を立てて見せてから、ミズキは会議の画面に余計なものが映らない角度を探してパソコンや椅子の向きの調整にかかった。
悟は『シー』の仕草可愛いなと内心で身悶えつつ、折角帰ってきたのにミズキを仕事に取られている不満に唇を尖らせた。
コートを脱ぎ手を洗って、ココアでも作ろうかとキッチンに入った時にはテレビ会議が始まっていて、パソコンから男の声が聞こえていた。
悟は面白くなかった。
自分とミズキの家に要らない男の声が響くのが不快だし、アルバイトを捕まえて何を会議するんだか。テレビ会議にする必要も無いだろうに。あと「ミズキちゃん」呼びしてるけど何様のつもりだ馴れ馴れしい。
案の定、最初こそ業務連絡らしき内容だったものが、悟がココアを作り終える頃には「お部屋見たいな」とか「部屋着可愛いね」とか悟の許容範囲を軽々飛び越えてきた。
困り顔で曖昧に受け流しているミズキの傍に彼女の分のココアを置いて、悟は悠々とミズキの背後を横切った。会議の相手の声がぎくりと強張って、「ご、ご家族の方かな?」と取り繕った。
悟はにっこりと至極綺麗に笑って、堂々と画面に姿を現した。
「あースミマセン、映っちゃいました?僕のミズキがお世話になってます。部屋見たい、かぁ…僕の家でもあんだけど見る?後は部屋着?僕が買って来たやつだから気に入ったなら店教えるよ」
男は口元を引き攣らせながら「いや」とか「どうも」とか意味の薄い言葉で誤魔化し、早々に会議を切り上げたのだった。
デスクトップ画面に戻ったところで、ミズキがふーっと息を抜いた。
「悟、ありがとう。ちょっと困っちゃった」
「部屋見せろとかキショいよね。あの男いつもあんななの?」
「2回くらい仕事の電話して、お顔を見たのはさっきが初めて。電話では今日みたいに困ることは言われなかったからびっくりしちゃった」
「怖かったね?ミズキ、もう大丈夫だよ」
悟が肩を抱き寄せてこめかみにキスをすると、ミズキは擽ったそうに笑って身を捩った。その場でノートパソコンをぱたんと閉じるので、今日の仕事は終わりらしい。
「それもだけどさ、」と悟はミズキの柔い髪に頬を寄せながら切り出した。
「ミズキ、やっぱり仕事続けんの?僕がいない時にこんなことがあったら心配だなぁ」
「んんー…続けたい、だめ…?」
「んーん、ミズキの意思は尊重するよ。けどお金の心配ならしなくていいし、ミズキの欲しいものは僕が買いたいのに」
「だって悟にプレゼントするのに悟に買ってもらっちゃだめじゃない」
「え」と一言未満の声を漏らして、悟はしばしミズキの顔を凝視した。
「…もしかしてこの前誕生日にくれたのって?」
こくこくとミズキが頷くと、悟は声にならない声を上げて突然彼女を強く強く抱き締めた。腕の中からミズキが「いたいよ」と楽しげに悟の胸を叩いたけれど、彼は離してやらなかった。
「好き好き好き愛してる…何でそんなに可愛いかな、何なの僕を殺す気なの?そういう呪具?喜んで死ぬ…」
「ふふ、死んじゃだめー」
「好きって言ってお願い」
「悟、だいすき」
悟はダイニングチェアから立ち上がりながらミズキを軽々抱き上げ、広々としたソファまで丁重に運んだ。シングルベッドほどもありそうな座面にミズキを降ろすと、覆い被さってキスをした。髪を撫で、頬を撫で、何度も角度を変えて。
その内にミズキから漏れる声が艶を帯び、悟の首筋を撫でていた柔い指先がぴくぴくと震え始めた辺りで、ちゅぷっと濡れた音を立てて唇が離れた。
とろりと流れてしまいそうな目をしたミズキを組み敷いて、悟は熱っぽく息をした。
「ミズキ、トロ顔かわいー…」
「さとる…えっちするの?」
「するよ。…いい?」
「うん…悟とえっちするの好き」
「ッん、僕も好き、大好き…ミズキはなぁんにも心配しなくていいからね」
ミズキが身体を起こすよりも早く、悟が彼女を抱き上げて上機嫌に寝室へ向かった。
ダイニングテーブルの上で、畳まれたノートパソコンはひたすらに眠っていた。
「で、変わらずバイト続けてんだ?」
「うん」
硝子とミズキは3段のケーキスタンドを両側から攻略していた。尤も、ふたりの嗜好は甘いものとそうでないものにはっきり分かれているから、違う階をそれぞれが好きに食べている状態だった。
硝子はミズキがアルバイトを続けていることについて、『よく五条が許したな』と内心意外に思った。
「そのセクハラ男は?相変わらず?」
「ううん、あれ以来お話してないの。急な配置転換で遠い部署に行ったって」
アー五条、ヤッたな、と硝子は呆れ半分に納得した。『遠い部署』と書いて何と読むのかは悟本人しか知らないことだけれども、何らかの形で手を下したのは間違いない。経済力に訴えたか暴力に出たかあるいは両方か(恐らく両方だろう)、何にせよ気の毒だが自業自得である。
ミズキがアルバイトで稼ぐ額の数十倍を悟が動かしたことは明らかだけれど、それが無駄とは硝子は思わない。
補助監督への転向を決めた伊地知は既に悟にこき使われている。それが「最近五条さんが妙に機嫌が良くて、たまに親切ですらあるんです。報告書も丁寧で遅れませんし」と言っていた。
その舞台裏について硝子は悟から惚気混じりに聞かされている。「ミズキがさぁ『悟、報告書つくるの?私もバイトの残りがあるから一緒にしよ』ってココア作ってくれたんだよ、過去イチ丁寧に書いたよね。同棲最高」とのことだった。
あの特級術師の手綱を握れるのはミズキだけ、ということは、彼女は単にアルバイトで稼ぐ以上の価値を世にもたらしているということだ。