9.優しい呪い



※若干の流血表現あり


化粧を終えたミズキがリビングに顔を出すと、悟は満足げに目を細めて溜息をついた。
彼女は悟の買ってきた柔らかなセーターと細プリーツの上品なスカートを身につけている。ミズキのことを本人以上に熟知した悟の贈ったそれらは、ミズキの身体にしっとりと馴染み優しく温めていた。どことなく、豊かな冬毛を蓄えたうさぎを思わせる愛らしさがある。

「はー…食べちゃいたい、可愛い、無理、可愛い」
「大袈裟だってば」

ミズキは少し照れたように笑った。

「今日この格好で外歩くんだよな…マジで大丈夫?攫われないでね?僕以外の人間は完全に無視してね?」
「それじゃお買い物出来ないでしょ」

悟はミズキを捕まえて、盛大に頬擦りをした。揉みくちゃにされながらも、ミズキは楽しそうに笑った。
今日はミズキがひとりで出掛けることになっている。悟は怨念さえ感じる濃度の呪力を呪符に込めてミズキに持たせた。恐らく低級の呪霊ならば近付いただけで祓除されてしまうし、上級でも迂闊には近寄れまいというほどの怨念である。

「はぁぁぁー…僕も仕事が終わったらすぐ行くから。ちょっと対象の出方次第なとこあるから時間読めねぇけど、絶対行くから!そこからデートだから!」
「うん、待ってるね。怪我しないで帰って来てくれなくちゃ嫌よ」
「ア゛ー…好きぃ、離れたくない…」
「私も。でも行かなくちゃ、ね?」

ミズキは悟の胸板に頬を寄せ、背中に回した手で悟の黒い上着をきゅっと握った。
悟は彼女の柔い髪に指を通しながら、「うん、行かなくちゃなんだ」と零した。

「じゃあ名残惜しいけど僕先に行くね。終わったら連絡するから」
「ん、いってらっしゃい」

悟はミズキにキスをして彼女の唇を念入りに食み、離れるとうっとりと目を細め、口元からわずかに舌を覗かせて笑った。

「ミズキはリップ直してから出た方がいいね」

「もう」と言ってミズキは口元を手で覆った。





悟が外に出て15分後、同じ建物からひとりの女性が出てきた。コートの下には上品なセーターとスカート、ブーツの踵をこつこつと鳴らしながら歩いていく。その背後に忍び寄る影に彼女は気付かない。瞬きの間にクロロホルムの染み込んだ布が口と鼻を覆い、彼女の意識は混濁した。

冷水を頭から浴びせかけられて彼女は飛び起きた。飛び起きたとは言っても椅子の背に上体を縛り付けられ、背後で親指同士を束ねられ、足首は椅子の脚に固定されているから、動かせたのは首から上だけであった。

かび臭い、底冷えのする暗い場所に簡素な電灯がひとつ、椅子の真上にぶら下がっている。シェードの縁が光の範囲をきっぱりと区切っていて、ざらついた冷たい床に横たわる光の境界線を踏んだ靴だけが彼女から見えた。

「ミズキというのはお前の名前か」
「…は、はい。あの…これ、は、いったい、」

口を開いたことを戒めるように暗がりから冷水のバケツが振るわれて、再び刺すような冷たさが顔を打った。激しく噎せた声は涙が混じり震えていた。

「お前がすべきは」

男の暗く冷たい声が続けた。

「聞くことと、質問に答えることだけだ。分かるか」

必死に頷くその口元で奥歯がカタカタと鳴った。

「五条悟がひとりの女に骨抜きになっていると聞いた時にわかには信じられなかったが…千載一遇というやつだ。五条悟が寝入った隙に呪符で奴の呪力を封印するか、惨い死に方をするか、3秒で選べ」
「じゃあ惨い死に方にしよっかな」

場違いに呑気な第三者の声が響き、次の瞬間にはパシュッと空気の抜けるような軽い音と、その後には重い砂袋が落ちるような鈍い音がした。
椅子の上で寒さと恐怖のために震えている彼女の元に、錆鉄のような生臭いにおいが漂ってきて、足元の光の境界からじわじわと赤い水溜まりが広がるのを見て彼女は悲鳴を上げた。

「あーごめんごめん、怖がらせちゃった?」

こつ、こつ、と歩み出た明日が灯りの範囲に踏み入って、彼の胸辺りまでが照らされた。彼に向けて震える声が「さ、さと、さとっる、さ」と必死に訴えた。
悟は暗がりの中でニッコリと笑った。

「おっつー。ちゃんと言付け通りミズキだって言えて偉かったね」
「さと、る、さま、あぁ、ぁ」
「こいつ、最近僕のこと探ってた呪詛師ね。簡単にホイホイされてくれて助かったよ」
「…、はーっ、はぁっ」
「この後予定入ってるからさぁ、粘られたらイヤだなーと思ってたんだよね」
「さ、悟様…」
「んー何?」
「解いて、いた、だけない、でしょうか…?」

一拍置いて、悟は「それなんだけどさぁ」と笑みを深くした。

「お前、上の連中から言われて僕のセーフハウスの場所を非術師の探偵に探らせてたろ?」

椅子の上の女が一際大きくビクリと身体を震わせた。

「それについては別に責めるつもりはねーよ、お前にも立場があるしね。非術師を使ったところも正解。術師で僕を敵に回す人間探す方が大変だろうからさ」
「さ、さと、悟様、申し、訳っあ、りま、せっ」
「ハハッ最後まで聞いて?僕が引っかかってるポイントはね、ミズキの名前を探偵に漏らしたこと。僕の尻尾が掴めないからって、出していい情報と悪いものがあるってこと…ここまで分かる?」

女は壊れたように頷いた。水を吸ったセーターが肌に纏わりついて切るように寒い。下顎の震えが止まらなくなっている。スカートから出たふくらはぎを、氷のような空気が撫でている。

「前々から僕を探ってた呪詛師にそこからミズキの名前が漏れた。『そんなつもりじゃ無かった』で済む問題じゃねぇんだよなぁコレばっかりはさ。まぁ複数あるセーフハウスの内のひとつを今回囮にしてお掃除完了、結果オーライってとこかな。呪詛師も、お前も」
「お、お、おゆ、る、し、…っ」
「舌回ってねぇなぁ、やっぱ寒ィね。入ってくる時にスイッチ入れたからそろそろ冷えてきたな」
「す、ぃ」
「この部屋ね、冷凍車のコンテナなの。廃車予定だけど電源も生きてる。じゃ、そろそろ僕行くからドーゾごゆっくり」

ひらひらと手を振って悟はその個室を後にした。観音開きのドアを固く閉ざして鍵を掛け、冷えた手をポケットに突っ込んだ。

「ミズキに見合いさせた時に言ったのにね、次は無ぇからなって。やっぱ一回間違った奴はもうダメなんだよなぁ」





デパートのそのフロアは甘い匂いで満ちていた。エレベーターの扉が開いた途端に、ミズキは悟の嬉しそうな顔を見付けることが出来た。熟知し合っている仲なので、上がってくるルートやタイミングはお互い何となく察しがつくのである。
翌月に迫ったバレンタインデーに向けて、艶やかで色とりどりのチョコレートがショーケースに並んでいるその間を縫って、悟はすぐにミズキまで辿り着いて華奢な身体を抱き締めた。

『お待たせ』だとか『何事も無かったか』の連絡を済ませると、悟は辺りを見回して2月14日のことを思った。

「目ぼしいものはあった?」
「まだ迷ってて…硝子ちゃんと傑くんにあげたいの。ふたりともどんなのが好きかな?」
「えー硝子はともかく傑ぅ!?あと僕には?泣くよ!?」
「悟には家で作るよ。あ、でも食べてみたいのあったら教えて?」
「すみませんこの人ラッピングして僕にください…好き…」

悟は人目も憚らず、今朝自宅でしたのと同じようにミズキにぐりぐりと頬擦りをして、彼女も同じように笑った。
その後悟の助言に従って硝子には日本酒の効いたものを、夏油には無難にビターなものを買って(夏油宛てについては悟は最後まで駄菓子にしろと抵抗していた)、人で溢れかえったそのフロアを後にしたのだった。
人混みの中を歩く間、悟はずっとミズキの腰に手を置いてぴったりと自分に寄り添わせていた。エレベーターに乗り込むと、乗り合わせた人々から守るように悟はミズキを角に囲い、彼女の耳元に口を近付けた。

「ミズキ、疲れてない?身体は平気?」
「うん?午前中歩いただけだし、悟の方がお仕事して疲れてない?」
「僕はいーの。…ふふっ昨日遅くまで寝かせてあげなかったから、大丈夫かなって思った」

ミズキが白くなめらかな頬を赤くするのと同時に、声の届く範囲の客も口を居心地悪そうにもごもごとさせたり軽く赤顔して目を逸らした。そうしている内、目的の階に到着してドアが静かにスライドして、箱の中にいた大半が売り場へ散っていった。悟とミズキもその階で降りると、ミズキがその普段は優しい目元を鋭くして悟を睨み上げた。

「悟、そういうこと、他の人がいるところで言っちゃダメなのよ。硝子ちゃんが教えてくれて私知ってるんだから」
「そういうことって?」
「だから…えっと、このふたり昨日…したんだって分かるような…こと」

吊り上げていた目元がへにゃりと下がって語尾も勢いを失ってしまったミズキを見て、悟は堪えきれずに笑ってしまった。

「ハハッかぁわい、自分で言って恥ずかしくなっちゃった?ごめんね、エレベーターの中でミズキのこと見てる男がいくつかいたからさ、つい」
「悟がダメな話したから見たんでしょ?」
「違うよ、その前から。ミズキが可愛いから見てた。奴等頭の中ではね、ミズキの服の下が見たいとかキスしてみたいとか、そんなこと考えてんの」
「え…っそうなの?やだ…」

あまりにも素直に自分の(少々偏向した)教えを飲んでしまうミズキに、悟は満足気に喉を鳴らしてゾクゾクと背骨を上る愉悦に唇で弧を描いた。彼が我慢出来ずに抱き寄せると、話を聞いてにわかに周囲の男が気味悪く思えてしまったミズキは彼女の方からも、悟の腕の中にある安全地帯へ逃げ込むように擦り寄った。
悟は中毒性のある幸福感に酔った。

腕の中に逃げ込んできた愛しいひとの耳元に、彼は小さく優しく呪いを注ぎ込む。

「可愛いミズキ、僕のミズキ、僕といれば大丈夫だからね。僕が絶対守ってあげる」
「悟、私、悟としかキスしたくない。裸を見られるのも嫌」
「させないし、見せないよ。言ったろ?僕が絶対守るから大丈夫」
「うん」
「買い物の続きする?」
「ううん、帰る…。悟と家にいたい」
「ごめんね、怖がらせちゃったね」

ミズキは悟の胸に額を擦り付けるようにして首を振った。お化けから目を逸らす子どものような仕草だった。

「愛してるよ、ミズキ」
「私も悟だけ愛してる」

デパートのガラス戸から外へ踏み出すときりりと冷たい風が頬を刺した。悟は自分のマフラーをミズキの首に掛けてやって腰を抱き寄せ、努めて明るい笑顔と楽しい話題を彼女に向けた。
帰路を辿りながらミズキは徐々に悟の与える安心感に表情を緩ませ、バレンタインデーにはチョコレートをたくさん買ってチョコフォンデュをしようね、と愛らしい目を輝かせた。

その時ふたりの前方をペンギンのキャラクターが描かれた大きなトラックが横切って、悟は、あれはちゃんと凍っただろうかと明後日まで人の立ち入る予定のない倉庫のことを思った。




prevnext


×
「#オメガバース」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -