いいこ
深夜に片足突っ込んだ時間の高専は照明もまばらで、真希さんに言われなくてもミズキさんをひとりで帰らせなくて良かった。
当の本人は酔いの残りで気分良くふわふわ歩いていて、何なら鼻歌でも歌い出しそうだった。防御力のまるで無さそうな薄い部屋着で、白い手足を晒して。
俺は完璧にとはいかないが足音を殺す訓練をしてる身なので、聞こえるのは専らミズキさんの軽い足音だった。警戒心がなく懐っこい音で、ミズキさんのようだと思った。
「伏黒くん」と呼ばれたのに気付いたのは、呼ばれて一拍置いてからだった。
「今日はありがとね」
「俺は別に何も」
「なにもじゃなくって全部よ」
ミズキさんがまだ普段より緩い感じで笑っているのが、少ない照明と星の明かりでも分かった。
今、話のついでみたいな調子で五条先生との過去の経緯を聞けば、教えてもらえるのかもしれない。知りたい思いは多分にあったが、酒に緩んだ隙につけ込んでミズキさんにとって恐らく一番柔らかい心の一角を無遠慮に暴くことは、俺には出来なかった。
ミズキさんが突然立ち止まって、俺の手を取った。柔らかく温かい感触に心臓が痛いほど跳ねて、触れられている手が強張った。
「伏黒くん」
ミズキさんの手が俺の袖口に滑って、ナイフの革鞘の留め具を外し、ペンのように細い刀身をするりと抜き出した。
「ぜんぜん使ってないでしょう、これ」
ミズキさんは僅かな明かりを頼りに刃こぼれの有無を確認し、呪力を染み込ませるようにナイフの腹を指先でなぞった。
図星、だった。ミズキさんに強請ってナイフを譲り受けてから、五条先生曰く『バカみたいに切れる』切れ味を確かめたことは一度もない。汚すのが惜しくて鞘から出せないでいた。
俺は、ミズキさんの手が離れていってようやくまともに呼吸を再開した有り様で、一連のミズキさんの仕草をただ見ていることしか出来なかった。
「使う機会がないのがいちばんだけど、時々使ってね。ずーっと置いといたらナマクラになっちゃう」
「…そういうもんですか」
「そういうもんです。いつでもメンテナンスに来てね」
ミズキさんは確認を終えるとまた俺の手を取って鞘にナイフを滑り込ませた。触れた柔い手は、その間また俺の心臓を脈打たせ、呼吸もままならなくさせた。
革鞘に行儀良く収まったナイフを、ミズキさんは酒の場で玉犬にしたのと同じように、『いいこいいこ』という顔で優しく眺めていた。
手が離されてまた呼吸の再開。
手を少し触られただけ、それだけで、呼吸の主導を握られた。
勿論ミズキさんに俺の呼吸をどうこうする意図なんてある筈もない。単純に俺が、いつの間にか勝手に、それだけどっぷり惚れ込んでしまったってだけだ。
五条先生とのことや過去のことを尋ねる言葉が喉の真下まで来ていたのを飲み下した。代わりに口から出たというか、気付けば俺は「いつもの匂いがしません」と口走っていた。ミズキさんのキョトン顔に失態を悟る。
「におい?何のにおい?」
「あー…いや、すみません、忘れてください」
「なんだろ…鉄臭いとか?ごめんね」
ミズキさんは小動物めいた仕草で、自分の肩や手首に鼻を寄せてスンスンと確かめた。
「あー…悪い臭いじゃなくて、……花の」
「あぁ、ハンドクリーム?今日集まる前にお風呂入ったから、今つけてないの」
風呂、については、多分とは思っていたが知らずにいたかった。背徳感が湧き出るという意味で。道理で隣にいていつもと違ういい匂いがする筈だ。酒の場で知ってたら酔いが回っていたかもしれない。
突然ミズキさんが『いいこと思い付いた』みたいな顔をしてまた俺の手を取って走り出した。温かく柔い手は本当に心臓に悪い。
咄嗟のことで情けないが抵抗も出来ないまま手を引かれ、気付けばいつもの工房の前に至っていた。
ミズキさんは解錠して扉を開けると「はいってはいって」と楽しげに言った。入り口横のスイッチをミズキさんが通りがけに押して、いつものオレンジ色の明かりが灯る。
ミズキさんは作業台の隅のものを手に取ってから、戸口に突っ立っている俺のところまで引き返してきて、チューブから俺の手の甲にクリームを出した。チューブをポケットに落とすと、柔くて小さな指先が、俺の愛想のない手にクリームを塗り広げた。途端に広がるいつものミズキさんの匂い。
「いい匂いだし、手がすべすべになるんだよ」
「………いや俺は自分の手にすべすべは求めてません」
「そうなの?匂いがすき?」
「…ミズキさんからこの匂いがするのが好きってだけです」
にこにこ笑ったまま「いい匂いだよねぇ」と言う辺り、この人は今そこそこ酔っている。俺の遠回しで半端な告白はこうして流されることになった。
仕方ない。酔っ払いに回りくどいことを言った俺が悪い。仕方ない…溜息は出るが。
その後工房を出てミズキさんを職員寮の前まで送り届けると、ミズキさんはいつもの匂いのする手を振って建物に入っていった。
軽い足音が階段を登っていったのを聞き届けて踵を返して、来た時より暗くなった気のする帰り道に乗った。するとその時上から俺の後頭部に向かって、「ふしぐろくん」と内緒話の声色が降ってきた。
振り返って見上げると、明かりのついたベランダにミズキさんがいて手を振っていた。
「ありがとね、おやすみ」
逆光で表情はあまり見えなかったが、振り返した手からミズキさんと同じ匂いがして、工房で、真希さんの部屋で、出掛けた先で、機嫌良く笑うミズキさんの顔が鮮明に思い浮かんだ。
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