爪痕

ミズキは目を覚まして携帯のアラームを止めると起き上がって部屋をぐるりと見回し、遅れてここが任地のホテルだと思い出した。目元を軽く擦って眠気を飛ばしていると身体を支えている方の手に硬いものが当たり、見ると部屋付きの電話機だった。化粧台からベッドの上までコードが引かれ、受話器は外れたまま。ミズキは青褪めた。
急いで五条に電話を掛けて寝落ちを詫びたのだけれど、彼は思いの外上機嫌で文句のひとつも出なかった。

「お前寝落ちする前に何言ったか覚えてる?」
「え、何だろう…仔鹿見たって言いましたっけ?」
「その後イビキかいてな」
「ウソすみません」
「嘘」

はは、と五条が笑ったところで夏油の呼ぶ声が小さく入り、「今行くー。…そんじゃまたな、怪我すんなよミズキ」と、どんな優しい表情から出たものかと思うような甘い声を最後に通話は終わった。
まるで恋人に向けるような声色と、五条の徹夜明けという状況が噛み合わず、ミズキは受話器を置いてからしばらく困惑した。そして遅れて照れた。


顕現の条件を満たせば後は同行した2級術師の先輩が問題なく祓ってくれた。ただ、討伐を終え下山した時点で21時を回っていたし、2人とも連日の山歩きで疲れていたことから、追加で1泊する運びとなった。
ゆっくり風呂に浸かり、昨日と同じようにベッドに寝転んで、ミズキは五条たちのことに思いを馳せた。夏油から聞いた予定では既に星漿体の少女を高専に送り届け終えている時間帯だったけれど、特に五条は休んでいる最中だろうと思い連絡はしないでおいた。




ミズキが高専に帰りついた時、まず違和感を覚えたのは臭いだった。異臭がするというほどではないけれど、いつもと違う。少し甘い木々の香りではなく、工事現場のような硬い臭い。連なった鳥居を抜けて広場に出ると原因が明らかになった。地面が大きく抉れ、見える範囲だけでも建物が大きく損壊している。この出力の大きさは、天変地異でなければ五条しか心当たりがない。しかし、高専の結界の内側で?背中に冷たい汗が伝って、彼女は駆けた。

荷物も持ったまま2年生の教室に駆け込んだけれど無人で、それならばと寮へ走った。談話室の隅に鞄を放って男子棟を駆け上がり、五条の部屋が見えてきたところで速度を落として息を整え、ノックするか悩みながら歩いた。五条は寝ているかもしれない。
しかし、いよいよ部屋の前というところで唐突にドアが開き、声を上げる間もなくミズキは部屋に引き込まれた。
ミズキの背後でドアが閉まった時には彼女は五条にぎゅうぎゅうと痛いほど抱き締められていて、展開の速さに追い付くことが出来ないでいた。

「おかえり」
「は、はい」
「あったけー…」

五条はミズキの首筋に手のひらを押し当て、反対の手は細い腰の上辺りを抱き寄せて、彼女の華奢な身体を自分に押し付けて全身で体温と脈拍を拾っていた。
ミズキは最初こそ戸惑ったけれど、すぐに五条の様子から照れている場合ではないことを察して、とにかく彼を安心させるべく広い背中に手を回した。

「悟さん、ただいま」
「うん」
「どこか痛みますか?」
「治した。…お前は、太腿傷いってんな」
「ぅ、わ、かります、よねやっぱり」
「見せて」
「だめですよ」
「流されろよそーいう雰囲気だったろ」

「どんな雰囲気ですか」とミズキは笑った。
身体を離してふと傍らを見ると、ボロ切れのようになった制服が無造作にビニール袋に入って部屋の隅に投げられていた。手に取るまでもなく、赤黒いシミが見えた。

「…高専の入口からここまで、見ました。大変なことがあったんですね」
「まぁそこそこな」
「悟さんが生きててよかった」

五条の心臓に手を当てるようにして、ミズキが安堵に微笑んだ。五条は彼女の頬を捕らえて上向かせ、彼自身はその長身を屈めて、というところでミズキが悲鳴を上げて廊下へ逃げた。
そこへ隣室の夏油も出てきた。

「ミズキおかえり」
「げとっ夏油さんっただいまっ!」
「悲鳴が聞こえたけどどうしたの」
「おい逃げんなミズキ」

五条まで出てくるとミズキは再び悲鳴を上げて夏油の背後に隠れ、夏油は何となく察した。

「悟、怖がらせたら嫌われちゃうよ」
「コミュニケーションだろが出て来いやオラ」
「挨拶ヤクザこわい」
「ミズキ上手いこと言うね。悟は起きたら夜蛾先生が顔出すように言ってたよ」
「ハァァ?面倒クセー」

悪態を垂れつつも五条は踵を返して共用の洗面所へ向かっていった。途中一度振り返って「談話室で待ってろよ、紅芋タルト食うぞ。あと硝子に脚治してもらえ」と言い残して角を曲がっていったのだった。

夏油とふたり廊下に残されると、ミズキは彼の背後から出て頭を下げた。

「ごめんなさい、お騒がせしました」
「いいよ、どうせ悟が悪いしね」
「夏油さんも談話室行きましょ?」
「…ミズキ、」

夏油がふと表情を落としたように無くしてミズキを見た。

「任務に失敗したんだよ、私」
「…え、」

彼の目に憔悴の色を見て、ミズキは喉を見えない大きな手に掴まれたような感覚がした。
失敗。五条と夏油が。彼等以上に実力のある術師を知らないミズキは、失敗の様を上手く思い描くことが出来なかった。

「理子ちゃんはもっと皆と一緒にいたいと望んだ」
「…」
「私はそれを守れなかった。彼女は殺された」
「…」
「君の立場から、私をどう思う」

ミズキは夏油に正対して、彼の目をじぃっと見つめていた。高専敷地内の大規模な損壊は五条によるものだとしても、夏油にとっても壮絶な任務だったに違いない。
ミズキは、幼少期から五条との婚約を強いられてきた彼女の身の上のことを夏油がほんのり引き合いに出していることが分かったし、彼がどこか責められたがっているように感じた。
「私は」とミズキが微笑んだ。

「夏油さんと悟さんが生きててくれて嬉しいですよ」
「…」
「薄情ですかね?女の子が殺されたのは悲しくて痛ましくてやりきれないですけど…運命を受け入れるか抗うかは本人が決めますし、『可哀想』とか『申し訳ない』は、欲しくないです、きっと。だから、『女の子が殺されて悲しい』以上の意味だとか責任を、考えちゃだめです」
「…ミズキは強いね」
「負ってる運命の重さがだいぶ違いますけどね」
「それは測れるものじゃないって言ってくれたばかりだと思ってたけど」
「そうでした。…とにかく夏油さん、」
「うん?」
「ありがとう生きててくれて」

ミズキの華奢な手が夏油の手を取って歩き始めた。談話室へ向かっていると夏油にも分かって、彼は図体の大きな迷子のようで気恥ずかしくなったけれど、自分から手を離す気にはなれなかった。

「あのね、私もお土産買ってきたんですよ」
「うん」
「丸ごとりんごパイって見たらもう買うしかなくって」
「うん」
「お蕎麦もありますよ。夏油さんお蕎麦好きじゃなかったっけ」
「うん、好きだよ」
「みんなで食べましょうね。絶対美味しいです」
「ミズキ」
「はい」
「ありがとう、生きててくれて」

ミズキは「はい、ただいま」と笑った。
夏油は、五条が言うミズキの纏う空気の美しさというのが、この時分かったような気がした。




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