曖昧な境界

それからミズキは五条の前で、努めて以前と同じに振る舞った。
偽装婚約をどうするかは保留したまま。筋を通すなら、『悟さんにはメリットがないからもう辞めましょう』と言って、貴重品入れに仕舞ったままの豪奢な指輪を返却すべきだとは思っていたけれど。
五条はきっと命を落とすまで、家のしがらみから解放されない。婚約破棄しても勘当が精々のミズキとは立場が違うのだ。
何を返せるだろう、とミズキは考えた。ピアノを弾いてくれた音大生は「いるだけでいい」と言ってくれた。それならばせめて五条に正妻が添えられるまで、彼の高専での楽しい数年間の一部になること、それくらいしかミズキには思い付かなかった。
いつか五条が良家の娘(きっと輝くように美しい)を妻に迎えることを思うと胸がじくじくと痛んだけれど、大丈夫、まだ恋じゃない、とミズキは心内で何度も唱えた。

ある週末、また五条がミズキをケーキに誘って、彼女はその場で頷いた。

「何てお店ですか?」
「ナイショ」

五条がついとそっぽを向いた。
珍しいことだった。今までは雑誌のページやネットの情報を示しながら「ここ行こうぜ」が多かったから。あまりメディアに取り上げられていない店だろうかと色々考えを巡らせながらミズキは五条に従って移動した。電車に乗っても降りる駅さえ言わない。ある時急に「ここ降りるぞ」と手を引かれた駅は、五条家からの帰りに通ったまさにその駅で、ミズキは無意識に少し緊張した。

五条はミズキの手を引いたまま改札を通り、迷いなく歩いた。

「あのっ悟さん、さすがにそろそろ、」

「どこに行くのか…」と言う途中でミズキは喋るのを忘れた。あの時のストリートピアノの前にいた。
五条は鍵盤の蓋を上げ、椅子を引くと回り込まずに跨いで座った。

「座れば」
「え…え?」
「ほら」

腕を引かれてミズキは長椅子に並んで座った。あの時はピアノに背を向けていたけれど、今回は鍵盤に向かって。
五条はその大きな手を鍵盤に乗せ、最初にポーンと一音確かめてから、流れるように指先で奏で始めた。
彼の大きく美しい両手は身体に染み込ませたステップを辿るように軽やかに鍵盤を滑り、明るい音を響かせた。手が生き物みたいだとミズキは思った。
十指でいくつもの鍵盤を同時に押さえたり跳躍したりと複雑に繊細に動かしていながら、ミズキがちらと盗み見た五条の横顔は至って平坦な表情をしていた。
美しい曲を間近に浴びて音を追い続けて、最後の余韻が消えるとミズキはあの日よりも大きな拍手をした。

「すごい…ピアノ、弾けたんですね」
「…1週間前初めて触った」
「え?」
「お前とここで会った次の日」
「え…1週間で?どこで練習…」
「高専の倉庫にピアノあるだろ」
「呪物ですよあれ!?」
「俺に効くかよ雑魚呪いが」

ミズキは感動するよりもむしろ感服してしまった。どう考えても今の熟達した演奏は、1週間前にこどもバイエル(上)を手にした人のそれではない。五条がその初心者向けの譜面で練習し始めたかは定かでないけれども。
天才って本当にいるんだ…とミズキは途方もない気分になった。
五条ががしがしと頭を掻いて、「で、」と言った。

「お前これで元気出んの」
「え?」

ミズキが驚いて五条の横顔を見ている間に、彼はピアノの蓋を降ろした。続いて彼は決まり悪さを誤魔化すように、降ろした蓋の上に手を置いて指でたんたんと打った。先程美しい音楽を奏でた指使いとは打って変わって、少し八つ当たりの気配のする打ち方だった。

ミズキがいつまでも黙っているのでとうとう五条は痺れを切らして、彼女の顔を横目で盗み見て驚き狼狽えた。ミズキの目からポロポロ涙が落ちていた。

「お…っ、泣くのかよ!?俺が泣かしたみたいじゃねーか!」

彼は急ぎハンカチを引っ張り出してミズキの目元に当てた。ミズキはきゅぅっと涙腺を押し閉じるのをイメージしながら、目頭にハンカチを押し当てて涙を止めた。そして顔を上げると少し瞼を震わせながら笑った。

「元気出ました…悟さんありがと」

ミズキの笑顔を確認すると五条はまたがしがしと後ろ頭を掻いた。

「…別にぃ?俺天才だから大した手間じゃねーし」
「すごいなぁ、動画撮るからもう一回弾いてほしいなぁ」
「二度とやんねぇ、ケーキ行くぞ!この駅あんま好きじゃねぇんだよ」

言うと五条は立ち上がって、改札の方へ歩き始めた。椅子を仕舞ってからミズキはそれを追って、少し迷った末に五条の腰辺りのシャツを小さく握った。
五条は驚いて自分の脇腹辺りを見て腕を半端に浮かしたり落ち着かない仕草を見せた後、結局ミズキの手をそのままにさせた。「…はぐれんなよ面倒くせぇから」というのはつまり、言い訳だった。

「硝子さんに会いたいな」
「ア?今かよ、帰りゃ寮にいんだろ」
「今日も一緒にお風呂に入るんです」
「フーーーン興味ねぇけどォ?」
「あ、羨ましいでしょ。硝子さんね、とってもスタイルいいんですよ」
「ハァー…お前がアホってことだけ分かった」

五条の悪態も気にせずミズキは笑った。彼女は硝子に会いたかった。会って、やっぱり恋みたいです、と打ち明けたかった。




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