翔さんが怒る理由

「すずちゃん、これ……」
「……っ」

 翔さんと手が触れた瞬間、全身が痺れたように熱くなって渡されたカップを落としてしまった。

「ご、ごめんなさい!」
「……いや、大丈夫だけど」

 慌てて割れたカップの破片を拾う。一緒にしゃがんでくれた翔さんが私の腕を掴んだ。

「んんっ」

 甘い声が出て慌てて口を押さえた。どうしよう。何だか、身体がおかしい。翔さんに触れられただけでビクビクと震える。身体が熱くて仕方ない。

「……すずちゃん、何か口に入れた?」
「え……」

 何か……何か……あ。さっき、最近常連になった男の人が奢りだと言って紅茶をくれた。後で飲みますと言ったのだけれど、今飲まないと美味しくなくなると言われ一口だけ飲んだ。

「ま、まさか……」
「媚薬だろうね。すずちゃんおいで」

 カウンターの向こうで、あのお客さんがニヤニヤと笑っていた。

「鍵閉めて絶対に開けちゃダメだよ。悠介呼んで病院連れてってもらうから」

 翔さんは私の目をしっかりと見て、言い聞かせるように言う。ガクガクと膝が震えて立つのも辛くなる。でも営業中のお店でいつまでも翔さんを引き止めておくわけにはいかない。必死で頷いて大丈夫だと伝える。はぁ、はぁ、と呼吸が荒くなる。目の前にいる翔さんに抱きつきたくて仕方ない。キスしてほしくて仕方ない。

「っ、か、けるさん、好き」
「……すずちゃん」
「ほんとうに、だいすき」

 キスだけでいい。首に腕を回して、唇を重ねる。腰を抱いてくれる翔さんの手が嬉しくて気持ちいい。翔さんの口内に舌を入れて深く求める。舌を絡めて、吸って。ああ、気持ちいい。

「翔さん……」

 翔さんの全部が愛しい。シャツを肌蹴させ、現れた引き締まった体にキスを落としていく。媚薬だけじゃない。翔さんが、欲しい。

「……すずちゃん、ごめん俺仕事中」
「……っ」

 そうだ。翔さんは今、仕事中で。でも、苦しい。縋るように翔さんを見てしまう。

「ごめ、なさ、私、今日は帰り、ます」
「変な薬かもしれないから病院行かないと。悠介呼んだから……」

 冷たいなんて、思っちゃダメだ。翔さんは仕事中なんだから、翔さんに頼っちゃいけない。

「っ、やだ」
「……」
「翔さん以外の人と、二人になりたくない……っ」

 翔さんじゃなきゃやだ。今の自分はどうなるか分からなくて怖い。翔さんに一緒にいてほしいのに。どうして分かってくれないの……?

「もう、大丈夫ですから、帰ります」
「すずちゃん」

 翔さんが私の腕を掴む。それだけで膝から崩れ落ちてしまった。

「そんな状況で一人で帰るつもり?襲ってって言ってるようなものだよ」
「っ、だって、だって翔さんがそばにいるのに触れちゃいけないなんて、」

 翔さんが怒ってる。細められた瞳には初めて見る激しい苛立ち。ゴクッと息を呑んだ。

「……すずちゃん、病院」
「っ、やだ」
「悠介なら信頼できる。すずちゃんがおかしくなっても絶対に手出さない。だから、お願い。悠介と病院行って」
「……っ、帰るっ」

 ダンっと床に乱暴に押し倒された。そして震える体を翔さんが押さえ付ける。

「……本当に困った子だな。どうして俺の言うことが聞けないの?」

 私を見下ろす翔さんの目が、声が冷たい。

「翔さんなんて、きらい」
「……勝手にしなよ」

 わがままだと分かっていても、翔さんにそばにいてほしかった。
 その後すぐに悠介さんが来て、悠介さんに抱えられて病院に行った。お店を出る時に翔さんと悠介さんが話していたけれど、内容は全く聞こえなかった。薬は体に有毒なものではなかったらしい。点滴をされ、睡眠薬で強制的に眠らされた。排泄により体から薬が出切ったのは朝になってからだった。

「悠介さん、すみませんでした……」
「すずちゃんは被害者なんだから謝んな。楽になってよかったな」

 一晩中ついていてくれた悠介さんに謝ると、くしゃっと頭を撫でてくれた。
 翔さんはその日も、次の日も病院に来なかった。怒っているのかな。もしかして、嫌われたかも。そう考えると不安だったけれど、どうしても翔さんに一緒にいてほしかった気持ちが消えない。わがままだと分かっていても。
 悠介さんは何も言わなかった。その代わり、監視するように見守るように、ずっと私のそばにいた。

 退院すると、悠介さんが送ると言ってくれた。私の家に送ってくれるのだろうか、翔さんの家じゃなかったらどうしよう、もしかしたら翔さんはあの時、悠介さんにもう私のことを嫌いになったと言ったかもしれないと思うと不安で潰れそうだった。けれど悠介さんはCafe fleurの近くに車を停めた。そしてお店に向かっていつもの細い路地を歩いていく。

「あ、あの、お店に行くんですか……?」
「ああ、翔が店にいる」

 会うのが怖い。立ち止まってしまった私を悠介さんは振り返って、苦笑いする。

「心配しなくてもアイツ、すずちゃんには怒ってねーよ」
「え……」
「もしすずちゃんが俺と浮気してもアイツはすずちゃんに怒らねーだろうなー」

 軽い口調で言った悠介さんに、少しだけ気持ちが軽くなって重い足を動かした。
 お店に行くと、翔さんがテーブルに突っ伏して眠っていた。気まずくて動けない私を置いて、悠介さんは翔さんの頭を叩く。ハッとして起き上がった翔さんは私を見て、安心したように微笑んだ。

「元気になってよかった」
「……はい」

 目を伏せてしまう。翔さんの優しい笑顔が痛い。
 悠介さんはすぐにお店を出て行った。二人になった店内に沈黙が走る。しばらく何も言えずにいると、翔さんが立ち上がった。

「……すずちゃん、ごめんね。病院行けなくて」
「……」
「心配してたんだけど、やらないといけないことがあって。店離れられなかったんだ」
「……平気です。悠介さんがいてくれたんで」

 ああ、また可愛くないことを。翔さんは目の前にいるのに、触れちゃいけないような気がして。キスしたって体を重ねたって、一つになんてなれない。

「……すずちゃん、俺のこと嫌いになった?」
「……っ」

 嫌いだなんて、心にもないことを言って翔さんを傷付けた。切なげに眉を下げる翔さんは、私をまっすぐに見つめている。

「……一緒に、いてほしかったんです」
「……うん」
「抱いてくれなくてもいいから、ただそばにいてほしかった」
「……」
「わがままだって、わかってたけど。やっぱり辛い時に一緒にいてほしいのは、翔さんだから」

 翔さんは恐る恐るといったように私に手を伸ばした。そして、少し冷たい指が頬に触れる。

「……ごめん。そうだね。前に俺が媚薬飲まされた時すずちゃんは一緒にいてくれたもんね。一緒にいられなかったのは……、俺が弱かったせいだ」
「え……?」
「店中にカメラが仕掛けられてた。あと、すずちゃんの服に盗聴器」

 翔さんの話に言葉を失った。犯人はあの、私に媚薬入りの紅茶を飲ませたお客さん。私に好意を持っていたらしく、それが行き過ぎてそんな行為に出たのだと。

「更衣室に入ってすぐに気付いた。すずちゃんの可愛い顔も声も、アイツに知られたくなかった。だからここでは絶対に抱けないって、そう思った」
「……」
「必死だった。俺はいつもすずちゃんを抱きたいと思ってるし、キスした時は流されてもいいかと思った。……でも、ダメだ。あんなクズに見せたくなかった」

 警察を呼んで、徹底的にカメラや盗聴器を探してもらったらしい。それでお店を離れられなかったのだと、翔さんは言った。

「すずちゃんがそんな目に遭ったのに、何もできない自分にイライラした。それに、冷たくしないとすずちゃんを止められないと思った」
「……」
「嫌いって言われたのは辛かったけど、でもよかったんだ。それで。結果的にすずちゃんを無事に病院まで連れて行けたから」

 何も知らずに、私は翔さんを傷付けた。本当に、自分のことしか考えていなかった。

「ごめんなさい」
「ううん」
「ごめんなさい。本当は翔さんのことが大好きです」

 私に触れるのを躊躇う翔さんの胸に頬を寄せた。こうやって翔さんはいつだって私のことを一番に思ってくれているのに、何を不安がっていたのだろう。優しく抱き締めてくれる翔さんの心音は心地よくて。大好きだと、何度も囁いた。

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