緩衝材のつもりなのかマヨネーズで埋め尽くされたスーツケースの中。そこに埠頭に来なかった人がいた。彼はまるで母親の腹の中にいる胎児のように体を丸めてケースの中に突っ込まれていた。臍帯の代わりに刀を抱え込んでいる。
「ひ、土方さん!?」
「やっと出られた。総悟の野郎……」
やたらめったら重いし大きいなって思ったら、まさかこんな事があるなんて。
狭いケースから抜け出して体のあちこちの関節をグリグリ回して体をほぐす土方さんとは反対に、私は素っ頓狂な声を上げて腰を抜かしてしまった。我ながら情けない有様だけど、仕方がないと思うのだ。なんせ来ないな、やっぱり戦えない私には用なんてないんじゃないかって思ったら、こんなところに放り込まれているんだもの。そりゃあビックリするに決まってる。
なんてコト。土方さんの口ぶりから察するに、沖田さんのせいみたいだ。何してるんだあの人。
「土方さん、どうしてこんなところに」
「多分昼飯に一服盛られてたな。眠いと思って目を閉じて、次に目ェ開けたら、ンな狭いところに閉じ込められてた」
「それはそれは……」
お気の毒さまに、としか言えない。女としても小柄な私とは反対に、土方さんは男性の中でも体が大きい。ひと一人は入りそうなスーツケースでも苦しかった事だろう。
それにしても、重量検査とかX線検査とか、そのへんの検査をよくくぐり抜けられたな。土方さんの体重的にこの船の荷物の重量を超えているのは明白なのに。国内線って事でそのへんが緩いのだろうか。
「どうやって検査をすり抜けたんですか?」
「知らね。総悟に聞け」
「そういえば、運賃支払いました?」
「払ってるわけねーだろ。今の俺は貨物だぞ」
「これ、見つかったら私まで無賃乗船の共犯になりますよね」
土方さんは「そうだな」とあっさり肯定した。他人事だと思ってます!?
「どーするんですか!」
「どうもこうもねー。誰にも見つからないように残り17時間を過ごす。それしかないだろ」
今更申し出るのもなんか身内の恥を晒すようでできない。それであれば、もう一度トランクに入る方を選ぶ。それが土方さんの結論みたいだ。
「ご飯どうしましょう。売店でなにか買ってきましょうか?」
「いや、マヨネーズがある」
土方さんはチューペットかなにかでも飲むようなノリで、トランクに入っていたマヨネーズの封を開けてすすりだした。初めてコレを見た時にも思ったけど、この人やばいな。確かに財布の中身がピンチの時にはマヨネーズをすするといいって誰かが言ってたけど。
「美味しいんですかソレ」
「美味いに決まってんだろ。お前もいるか?」
「じゃ、給湯室からお湯貰ってきます」
「チリトマトか。マヨネーズによく合うと思うぞ」
「くれぐれも部屋から出ないでくださいねー」
「オイコラ無視すんな」
廊下に人がいない事を確認して、滑り出る。足早に給湯室に向かい、お湯を注ぎ、そして戻る。近くに売店があったので、自分の分と土方さんの分のビールとつまみを購入した。ちょっとした寄り道だけど、カップ麺が伸びるほどじゃない。
帰りは海が見えたらいいなと思ってラウンジを通ったけれど、暗い海よりもきになるものがあった。とある一角だけ、人気がない場所があったのだ。ちらりと覗くと、おっかないのがいた。真選組も顔がいかつい人が多いけれど、それとはなんか別種なような。彼らも荒くれ者だけど、温かい人達だった。でもこの人達は……まあいいや。この旅では道連れとなる人達について悪く考えるのはよそう。
部屋の近くで不審にならない程度に周囲を見渡す。廊下に人気はない。ドアを開けても大丈夫だ。
「ただいま戻りました」
「おう」
「ビールとおつまみも買ってきました」
「気が利くじゃねーか。いくらだ?」
「沖田さんのせいとはいえ、上陸までは土方さんにはご不便を強いるのでいいんです」
「そうもいかねェ」
「お代なら後で沖田さんに請求しますので、気になさらないでください」
「……分かった。悪ィな」
土方さんはつまみに買ってきた名産の直火あんこうをついばみながら、ビールを飲んでいる。ロング缶一本ポッキリだけど、この酔い方を見るに、それで十分かな。それ以上与えて騒ぎになると困る。
それにしても、この人本当に酔うの早いな。たった一本で顔が赤い。
「見送りに来れなくてすまなかったな」
「いいえ。この中に閉じ込められていたのなら、仕方がないです」
「でも、お前の門出だろ。出来るなら、ちゃんと見送ってやりたかった」
「門出」
ああ。この人は、こんな形の出発でも、門出だと言ってくれるのか。この人にとって、私が別天地に向かう事は、決して悪い事ではないと思っていてくれたのか。
「追い出したのは土方さんじゃないですか」
「そりゃあ、今のお前じゃ最前線で活動は無理だ。それに、江戸には俺達を恨む連中がわんさといる。俺達はお前の安全を保証できねェ。なら、他の場所に行かせた方が安全だろ」
「私がいらないから、じゃなかったんですか」
「記憶がなくなってもその辺は変わらないんだな……」
その辺もなにも、アンタそう言っただろ。ツッコミは声にならなかった。
土方さんは呆れたような顔でこっちを見ている。お酒が入って気だるげな表情。そこで流し目めいた視線が窓に向けられている。ゾクリとするような色気に黙らされたのだ。
「……そうだな。お前がいらないっつーよりは、怖くなった」
「え?」
「自分の過去も忘れて、俺達の事も忘れて、戦えないお前が別物に見えて、怖かった」
気のせいでなければ、この人の口から、この人らしからぬ言葉が漏れなかったか。私にとってはビールなんて水みたいなものなのだけど、この人にとっては効果てきめんだったのか。いや、これ、よく見たらアルコール濃度馬鹿みたいに高いわ。なにこの60パーセント超えって。アル中御用達か?これは弱い人にはきついだろうな。
「怖い?土方さんにも怖いものがあるのですか」
「いや、言葉の綾だ」
「でも怖いって」
「俺がそんな事言うわきゃねーだろ」
「あっハイ」
「それで、あー、何だっけか。お前が余計な横槍入れたせいで忘れちまった」
「私が別物に見えて怖いってところまでです。何に見えたんですか」
土方さんは缶の縁をなぞった。そして思いついたようにタバコを取り出したので、禁煙のプレートを胸の前に構えて喫煙を阻止した。このやり取りも既視感がある。土方さんにとっても覚えがある光景だったのか、黙って薄く笑った。
土方さんは何かを噛み締めるような間を置いて、ようやく口を開いた。
「お前が一瞬、昔の知り合いとダブった」
「知り合い?」
「……ああ。ソイツと同じように、置いていかれるような気がした」
「はあ」
かなり抽象的だ。ただ、この人が置いていかれたというのは居住地的な意味合いではなく、もっと別の、あの世的なものではないか。不意にそう思った。
「またこぼれ落ちるなら、他所にやっちまった方がいい。俺ァそう考えた。……だから、お前が要らなくなって捨てたとかそんなんじゃねーよ」
「土方さん」
「だが、
沖田にはバレてたんだな。それで、アイツにはそれが心底気に食わなかった。だから、無理矢理乗せられたんだろう」
「本当にやりたかった事からは逃げられねーもんだ」
土方さんは旦那と同じような事を言った。私が本当にやりたい事はなんだと、あの間抜け面はそう言っていた。
「昨日、坂田さんに言われました。本当に忘れたい事からは逃げられやしないって……私が本当に忘れたい事ってなんですか」
「俺の口から聞きたいか?」
「いいえ」
きっと自分が思い出すべきことのはずだ。だから、今は耐え忍ぶしかない。土方さんはそれでいいと言うように少し笑った。
「でも、一つだけ聞いてもいいですか」
「なんだ?」
「私は目覚めた時、自分には価値がない。そう思っていました」
「……」
「これは、忘れたい事に関係しているのですか」
「俺だってお前の内面を全部知ってるわけじゃねー。知ってるのは総悟の方だ。でもな――」
「――少なくとも記憶があった頃のお前は、それを覚えていなければならねーと定義していたぜ」
自分を壊したくなるほどの記憶なのに、覚えていなければならない。矛盾している。
「忘れたいのに、忘れたくないのですか」
「忘れたくないっつーよりは、義務だろうな」
「義務」
「それしかお前の手元に残らなかったんだよ」
土方さんはまた抽象的な物言いをする。たった1週間の付き合いだったけれど、分かる。普段の土方さんはこんな物言いをしない。もっとキッパリ言う。
なのにどうしてこうも奥歯に物が挟まったような言い方なのか。多分、これは私自身が見つけないといけない答えだからだ。
土方さんは私の顔を見て、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「行き先はとんでもねー田舎だが、時間は山ほどある。ゆっくり考えろ。俺達はお前をいつでも待っている」
……どうしていらないから捨てられたなんて考えられたのか。この人はこんなにも優しい人なのに。お礼を言おうとして、顔を上げたら、土方さんは大あくびをしていた。アルコールが眠気を呼び寄せたらしい。
「飲みすぎて眠くなっちまった。寝るにはちと早いが、寝るか」
お礼、言い損ねた。仕方がない。別れ際に取っておこう。
シャワーを使い、顔の化粧を落とした。土方さんは酔っ払いなので酒が抜けるまではシャワーを控えていただいた。狭いケースに押し込まれていたせいで汗だくだったのに、と不満そうだったので、清拭をしてあげたけれど、この人それでいいんだろうか。
そんなすったもんだの末に、さて寝るかと部屋を見回してはたと気づいた。そういえば、貸し切りだからベッドメイクは一人分しかしてない。ベッドを展開しても布団がないから誰かが寒い思いをすることになる。緊急時に部屋に踏み込まれた際に無賃乗船がバレる可能性があるから、もう一つのベッドの展開は不可だ。
となれば、ベッドは1台しか使えない。
「じゃあ私が床で――」
「女を床に転がして、男がベッドで悠々と寝られるか!俺が床で寝る」
「ダメです!土方さんは酔っ払ってるんだから、床なんかで寝たら風邪引いちゃいます!」
「そりゃお前だって同じだろうが!」
「下戸の土方さんと違ってこのくらいじゃ酔ったうちには入りませんー」
「なんだとォ、俺だってなァ、ちゃんと飯食ってりゃこんなには――」
気がついたら取っ組み合いになって、ベッドの押し付け合いになっていた。
そういえば、前にもこんな事をしたような。頭に別の情景もちらつく。自分が座り込んだ暗がりへ伸ばされた手。それは今自分の衿を掴んでいる手と同じだったような。
「昔もこんな事しませんでした?」
「……ああ。前はスイートのベッドを押し付けあった」
「取り合ったんじゃなくて、押し付けあったんですか?」
「ああ。未成年のガキを床に置いて呑気に寝られるかっつー俺と、恩人を床で寝かせられるかって譲らねえお前とな」
「あの時は、どうしたんですか?」
「あの時は――、」
「こうした」という言葉の後に、ベッドに突き飛ばされた。そして、土方さんは私を壁際に寄せると、自分もベッドに横たわった。自分の顔のすぐ横に土方さんの端正な顔がある。冷たい美貌が私の心臓を無駄に早く動かす。客観的に考えて、とてもまずい状況な気がする。
「こうしたんですか」
「ああ。あっち向いてホイもあみだくじも、両方が納得できる結果にならなかったからな」
「え、つまりは」
「何勘違いしてんだ。俺ァガキにゃ興味ねーよ。同衾しただけだ」
この人の理性は鋼か何かか?一般的に性交可能な年齢とされる女子が隣で無防備に眠っているって、普通に考えたら据え膳だと思うんだけど。っていうか、土方さんと出会ったのが3年前らしいけど、まあその頃は17の小娘だったからヨシとして、今の自分は成人した女だ。
「じゃあ、今の私は子供ですか?」
「……記憶なくした女を手篭めにするほど俺ァ腐ってねェ」
「ふーん」
「何だその目は」
「寝ます。おやすみなさい」
土方さんは私の反応が不服だったみたいで、しばらく私の背中に声をかけていた。しかし、答えがないので寝たものだと思ったらしい。ごろりと寝返りを打った振動。そして、背中に背中が当たった。
硬くて熱い背中だ。触れた手も同じように熱かった。前にもこんな熱い人に触れたような。思い出せそうで、思い出せない。とても大事な出来事だったはずなのに。
「すみれ」
一瞬反応しそうになった。でも、敢えて狸寝入りを決め込む。
「寝たのか」
土方さんはまたも寝返りを打ったらしい。多分、私の背中を見るような体勢だ。そして、私の頭を撫でている。なんだか犬猫を撫でているような手付き。不思議と心地良い。
「稽古はサボるな」
「飯は食えよ」
「酒は飲みすぎるな」
「寒くなるから暖かくしろよ」
「あとは……そうだな。お前は男も女も見る目がねェ。どんな恋愛しようが自由だが、相手はよくよく選べ」
「それと――元気でやれ」
全てが暖かな激励の言葉だった。どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。私はこんなにしてもらうような人間ではないのに。
元気でやれという言葉を最後に、土方さんは三度寝返りを打って、やがて寝息が聞こえてきた。知らず涙が溢れてくる。
「土方さん――」
思い出せなくて、ごめんなさい。そう続けられるはずだった言葉は、横に揺さぶられるような振動に遮られた。
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