船体が激しく動揺しているのか、ベッドから振り落とされる。電灯が明滅するおまけ付き。あまりにも唐突なトラブルに涙も引っ込んだ。
「うわわ……」
「喋るな。舌を噛むぞ」
言われた通りに口を閉じた。狭い船室の中でピンボールの玉のようにあっちこっちに振り回される。右に左に振られてめまいがしてきそうだ。
しばらく遊園地のアトラクションのように揺れた船は少しずつ振れ幅が小さくなり、やがて止まった。やっと一息つける。
「な、なんだったんですかね」
「分からねェ」
思った事をそのまま口にすれば、冷静な回答がなされた。その声が思ったよりも近くだったので、声が聞こえた方を見上げると、真上に限りなく近い位置に土方さんの顔があった。視線を下ろすと、土方さんの立派な胸板があった。私の体に、土方さんの筋肉質な腕が回されている。そして、私の体は彼の足の間にある。
要は、抱きしめられている。意図は理解できた。船室でパチンコ玉みたくなっていたから、中の家具に少しでもぶつからないように守ってくれていたんだと思う。
意図を理解していても恥ずかしいのがどうにかなるかっていえば、ならない訳で。顔に熱が集まるのを感じる。心臓が早鐘を打っているのは、突然の揺れのせいだけじゃない。
「ええ、あ」
「静かにしろ」
程なくして、館内放送が流れた。
さっきの振動は海が荒れている事が原因であり、お客様が心配するような事はなにもない。しかし、安全のために各自の船室で待機していてほしい、と。
出港する時に聞いた船長の声だ。落ち着いた声になんとなく安心して胸をなでおろす。だけど、土方さんは険しい顔のままだ。
「どうにもくせェな」
「へ?」
「気が付かなかったのか?さっきの声、震えていただろ」
「すみません、気が付きませんでした」
「お前なぁ……まァいい。俺が見てくる。お前はここにいろ」
「分かりました」
「電気は消せ。俺以外が来ても出るんじゃねーぞ」
「はい」
土方さんは片時も手放せない妖刀を携えて、慎重に廊下に滑り出た。
自分一人になって、客室が一気に広く、そして静かに感じられた。船はさっきまでの揺れが嘘だったかのように落ち着いている。多分、土方さんの懸念も杞憂に終わる。私は努めて楽観的な考え方をしようとした。でも、落ち着かなかった。
待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね。文豪だったかそれともトラブルメーカーだったか、そんな感じの人が知己を待たせた挙げ句にそのような事を宣ったのを思い出した。でも、この逸話を聞いたのはいつだったか。それは茫洋として思い出せない。
何が言いたいのか自分でも分かりにくくなってきた。要約すると、この状況でただ待つだけなのはどうしようもなく苦しいのだ。
苦しさを紛らわせようとここ1週間の出来事を順繰りに思い出して、そして、白髪天パが言っていた事を思い出した。
――本当にやりたい事ってのは、脚を潰されようが、土手っ腹撃たれようが、記憶を失くそうがやらなきゃならねェ。人生ってのはそういうもんなの。
「自分が本当にしたい事」
ギチギチと頭が痛む。まるで考える事を拒否するなというように。
気を紛らわせようとテレビを付ける。一番最初に出てきた画面によると、この船は太平洋沖を航行中らしい。沿岸との距離からすると、この船のてっぺんに立って背伸びしたって陸は見えないだろう。そしてこの時間の海は多分真っ暗だ。
でも、私は、それでもカーテンを開けるために窓辺に立った。
「――?」
まばゆい光がカーテンを右から左へゆっくりと滑っている。何かを探すような動きだ。
光が通り過ぎるのを待って、そっとカーテンを開けた。別にやましい事なんてないのだから堂々と見ればいいのだろうけど、頭の奥底が見つかってはいけないと叫んでいる気がした。
暗い海に一艘の船が浮かんでいた。この船と比べたら小さなその船は、煌々と輝く探照灯を船頭から船尾に向かって滑らせていた。さっきカーテンを照らした光はこれか。
一体何の船だろう。見たところ、幕軍や真選組の船ではなさそう。かといって、漁船とかそんな空気でもない。
どうにも嫌な予感がして、カーテンを閉めた。あれは、きっと、よくないものだ。理屈では表せない。けれど、震える手が、あの船は危険だと、そう告げている。
あれが危険な船だとして、なんであんなものがフェリーの隣を並走しているのだろう。
今度は楽観的な考えをひねり出す事ができなかった。最悪の想定が、背筋を震わせる。
「お、お茶、飲もう……」
きっと、考えすぎだ。土方さんがあんな険しい顔をしているから、怖い考えに至ってしまうんだ。きっとさっきの船はやっぱりただの漁船で、たまたま航路が一緒になっただけで……。
でもあれが安全な船、ただの漁船だとして、探照灯をこちらに向ける理由は?なんで何かを探すような動きをしていたの?
それに、船内放送では海が荒れていたというけれど、窓辺から見えた海はそこまで荒れているようには見えなかった。なんであんな事を言う必要があったんだろう。
答えあぐねていた時、思考を遮る破裂音が船内に響いた。
花火?いや違う。あれは、自分がよく知っているものだ。あれで何人も傷ついた。死んだ。私には分かる。さっきのあれは銃声だ。
「やっぱり何かが起きてる」
もはや希望的観測が害にしかならなくなった状況で、追い打ちをかけるように銃声が連続した。雨あられのように降り注ぐ銃弾という脅威。私は、アレを知っている。
銃声。静寂。銃声。
それらを何度か繰り返して、またアナウンスがあった。
しかし、さっきのそれとは違って、今度のは厳しい男の声だった。
この船は攘夷の尖兵たる我々全国共闘会議が占拠した。諸君らは人質なので丁重に扱うが、抵抗しようと思わない事。現在は抵抗者の処分のために戦闘を行っているので決して外に出ない事。外に出たものは敵とみなし、問答無用で射殺する。
男はそれだけを言って放送を打ち切った。
土方さんの懸念は当たったみたいだ。
ふとラウンジで見かけた連中を思い出す。もしかして、あの人達。
どうしよう。今土方さんはいない。彼らの言う抵抗者として追い回されているのだと思う。ただ、少なくとも銃声が続いているうちは土方さんは生きているって事なのかな。
「どうしよう」
戦う?この期に及んでも記憶もない覚悟もない私が?
でも、この船の左舷を並走する船舶の存在は、浪士たちが複数いる事を示している。そんな連中相手に土方さん一人なんて、大丈夫なんだろうか。
不意に、想像してしまった。血溜まりの中に、土方さんの体が横たわっているところを。あの暖かな手が、力強い腕が、胴が、脚が、赤くて生臭い池の中で微動だにしない場面を。
快適な気温の部屋が、冷え切った打ちっぱなしのコンクリートの狭い階段とオーバーラップする。自分が見下ろしているのは――。
見下ろしていた人影の正体に行き着く前に、私は、剣を抜いていた。
鋼に映る自分の顔は、いつかと同じ、やっぱり不安げなものだった。怯えてる、とも言うのかな。
「でも、自分が本当にしたい事、それは――」
――土方さんを、彼の大切なものを護る事!!
記憶があってもなくても、結局やりたい事は変わらなかったらしい。単純な結論に至るまでにだいぶん遠回りしちゃうなんて、馬鹿だな、私。でも、馬鹿なりにやれる事があるはずだ。
まずは、準備だ。
私の本来の手荷物の片隅。山崎さんの字で『万が一のときのために』と書いてある袋を引っ張り出した。その中の拳銃を肩からぶら下げて、その他いくつかの道具も追加し、立ち上がる。
そして自分への呆れを置いて、代わりに刀を携えて部屋を飛び出した。
*
銃弾が狭い廊下を飛び回る。俺はその雨の影で、この船に乗る前のやり取りを思い出していた。戦場で物思いなんざ、死と同義だが、そうさせるものがこの船に乗っている。
――あたしは、何があっても、最期まで貴方だけの味方だからです。
俺を見据えてそう宣った女。それがこの船の客室にいる。
いや、いくら殻が同じでも、桜ノ宮すみれ自身が願いを自分の碇として定義したのなら、今のあの女は別物だ。俺と俺の中にいるもう一つの人格が似て非なるものであるのと同じように。
――真選組を辞めさせてください。
あの女にそう言われて押し問答をした時、記憶が失われ願いを忘れたあの女が別物だって事を思い出した。
頭に冷や水をぶっかけられたようだった。
記憶を失くした桜ノ宮は――。
それに気付いちまったら、話は早かった。俺はいつかのように、こっぴどく女を突き放していた。
追って辞令を渡すと言った後、一人で屯所に戻ってきた。
屯所の玄関で総悟と出くわした。アイツはこれからサボりにいくらしい。いい気なもんだ。
「土方さん、すみれさんはどうしたんですかィ」
「知らね」
「は?」
「もう思い出す気はないってよ。よかったな総悟。お前の思い通りになって」
総悟は俺の言葉に眉をひそめた。そして露骨に不快そうな顔で俺に詰め寄った。
「なんでィそりゃあ。アンタがそんなんじゃあ、アンタに付き合って今日一日歩き回ったすみれさんが可哀想だろォ」
「……お前が女に可哀想って言う日がくるたァな。明日は血の雨か?」
「土方さんの血なら明日と言わず今日降らせてやりますよ」
「言ってろ。とにかく、アイツは異動だ。あんなの俺達の足を引っ張るだけだからな」
「で、本音は」
「さっき言ったろ」
「本当に?」
「――あの女、てめーで積み上げたモンを、てめーでぶち壊しやがった」
「過保護ここに極まれりですねィ。で、そんだけですか」
「ああ、そんだけだ」
ちらりと見た面に、もういない女を重ねた。今ばっかりは故人と面差しが似たこの男と顔を合わせるのは勘弁したい。俺は総悟に背中を向けた。が、足を止めた。
「丁度いい。どうせお前仕事サボるんだろ。岩尾のジジイのところ行ってこい」
「人を顎で使うなんざ偉くなったつもりですかィ死ね土方」
「副長だからな。実際偉いんだよ」
「今に逆転してやりまさァ」
今度こそ自分の部屋に戻った。障子を閉じるその間際、「いい歳こいた男のツンデレとかキモい死ね!」という罵声が飛び込んできたが、知ったこっちゃねーんだよ。
「今のアイツはな、お前の姉貴と一緒なんだよ、総悟」
剣なんて握れず、か弱い女。今のアイツはそんな普通の女だ。それが、討ち入りで、道端で、斬られて死ぬ。そんな事があっていいわけがねえ。手の中から滑り落ちるくらいなら、遠くにやっちまった方がいい。
俺だって考える事は総悟と同じだ。もう俺の手元に戻らないのなら、笑って暮らせる方がいいだろ。俺ァ元々、アイツが剣を握るのに反対だったんだからな。
自分に言い聞かせたはいいが、何故だか書類が進まねェ。手が止まる。誤字が多い。修正しようとして墨汁を書類にぶちまけた。最悪だ。
憤りをため息で散らしたがうまく行かねェ。……こんな時は稽古に限るな。
雑念を払うために竹刀を振り回しても、脳裏をちらつくのは突き放した瞬間のすみれの顔だ。あの一瞬、確かにアイツは傷ついた顔をしていた。悲しげに伏せられた目を見た瞬間に、全てを撤回しそうになった。自分の事ながら絆されすぎだろ。これで鬼の副長だってのはな。
結局、剣をもってしても雑念が追いすがってくるのを止められなかった。
「土方さん」
「総悟。飯はどうだった」
「岩尾のじーさんでした。つか雑念乗っかりすぎじゃないですかィ。今すぐ雑念とおさらばさせてやりましょうか」
「……うるせーよ。で、どうだったんだ」
「なにが」
「だからアイツだよ」
「岩尾のじーさんならあらァ百まで生きますねィ」
「ちげーよ女の方だよ」
「芝崎さんならいつも通りの未亡人でさァ」
「そっかー芝崎さん元気かー……って俺が聞きたいのはそっちの女じゃなくてだな」
「すみれさん落ち込んでましたぜ。なんで俺に乗り換えねーかってコナかけてきました」
「分かってんなら最初っから言えってんだ。で、アイツはなんて答えたんだ」
てっきり総悟になびくかと思って聞いたんだが、違ったらしい。総悟の顔が曇った。
「『それはないですね』だってよ。伊東の時とまるで同じ回答だ」
「……偶然だろ」
「反応はありやしたぜ」
「なんだよ。アイツにはそのままでいいつっといて、結局お前も思い出させたいのかよ」
「土方さんと一緒にしないでくだせェ」
まあ何にせよ俺はもう決めた。アイツとはおさらばだ。
出向先はあっさり見つかった。蝦夷の病院だ。医者の数が少ない分、大変だろうがいい経験になるだろう。出発は6日後。辞令を渡した時にもアイツは悄然としていた。
それからはずっと俺とすみれは顔を合わせる事なく、出発の日になっちまった。あの女ときたら、ちょっと遠くに見えたなと思ったら瞬きの後には姿がなかった。よっぽど顔を合わせたくなかったらしい。その方が未練もなくていいか。
だが、出港の時にはそうもいかねェ。俺はアイツの上司だ。上司として、そして拾い主として、アイツの門出を祝わなければ。
しかし、俺は野郎の策略にまんまとハマり、無賃乗船させられた。最悪だ。
しかもしょげるすみれに絆されてあっさりゲロっちまったしな……。いや、アレは酒のせいだ。俺の精神衛生のためにもそうしておこう。
あれくらい、漏れたところで大したこたァねー。もっとまずいものは漏らさなかった。
積み重ねたものが、アイツの中から残らず消えていた事、それを直視できなかったなんざ、アイツに言う事じゃねーだろ。
記憶をたどって今現在に追いついた俺は、銃弾の雨の切れ目を待っている。もうじき弾倉の中身が尽きるはずだ。俺はその隙に連中を斬る。何人斬りゃいいかなんざわかりゃしねーが、すみれを無事に向こうに届けられれば、俺の勝ちだ。
――これでいいんだよな。
もういない女。永遠に変わらぬ思い出に問いかけたが、ソイツはいつもと変わらぬ笑みを浮かべるだけだった。
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