病院のベッドで目覚めた時、自分は何もわからなかった。名前も職業も、自分の顔でさえも。
ただ、自分は、誰かに何かを与えてもらうような価値のある人間ではない。大切にされるような人間ではない。そうであってはいけない。自分は、疎まれ、蔑まれ、憎まれるものだ。そんな異様な確信があった。正直に言って、私は頭がおかしいんだと思う。
そんな私の前に、彼らは現れた。
真選組。
初めてその名称を『見た』時に言葉にできない違和感を覚えた。けれど、彼らは至って普通の、あいや、普通よりもちょっと荒っぽいけど、とてもいい人達だった。
近藤さんは戻るまでゆっくりしてていいって言ってくれた。
沖田さんは戻らなくてもいい、今の私のままでいいって言ってくれた。
他の隊士の人も、大なり小なり私の事を気にしてくれていたように思う。
土方さんは、私の事をどう思っていたのだろう。
それは、彼と出会ってから一日以上が経っても理解できなかった。
真選組のみんなの他にも、色々な人と出会ったけれど、土方さんはいっとう不思議な人だった。
怒鳴ったり人を殴ったりバズーカを発射したりと、真選組の中でもかなり荒っぽい。なのに、繊細だ。私が何か始めての物を見て反応する度に、彼はちょっと傷ついたような顔をしていた。その癖、私にそれを悟られまいと気を遣っていて。彼の内面は複雑に入り組んでいる。
それだけじゃない。時々自分を見下ろす目が、何かを孕んでいる気がした。なのに、あの人の中に渦巻いているものは分からない。
分からないものが、きっと自分にとって不相応なものな気がして。そう思うと、自分の居場所がどこにもないように思えて。気がついたら、真選組からの離脱を申し出ていた。
真選組は士道に背いたものには切腹させる。
自分は士道に沿って歩けない。
士道に沿って歩けない自分は、真選組にはいらない。
いらないものは、消えるしかない。私は、この人の邪魔にはなりたくない。
そう思って、申し出た。そうだ。これは自分が望んだ結果。なのに、どうしてだろう。全てのつながりが無くなってしまったような、どこにも行けずに宙ぶらりんになってしまったような、そんな感覚は、どうしてなんだろう。
ぼんやりと街を歩いている内に、岩尾先生のお家にたどり着いたようだ。今日のこと、先生になんて話せばいいんだろう。
「事実上、クビだよね」
言ってて辛くなってきた。今の自分からすれば、真選組衛生隊長というポストは他人事みたいなものだ。でもいざそれを追われてみると、堪えるものがある。それは、自分とすれ違った隊士の方々が、口々に自分の事を心配していたせいだろうか。
これでよかったんだ。きっと。
何度か自分の胸の中でつぶやいて。それでも離れない、間違っていると叫ぶ自分自身。二つの対極に引っ張られて、心がちぎれてしまいそうだ。
仮に自分が間違っているとして。じゃあ、私はどうすればよかった?
つま先を睨みつけても、答えは出ない。
「――さん、すみれさん」
「あ、えっと」
「沖田でさァ」
「ごめんなさい、お名前が分からなかったのではなく、その、いかがなさいました?」
「アンタが家に入らずずっと俯いてたから声かけただけ」
「……あ、ごめんなさい。お邪魔でしたね。すぐ入りますから」
「俺もお邪魔させてくだせェ」
さっき同じ制服を着た人と喧嘩別れした形に近い身の上としては、沖田さんの要望は受け入れたくない。でも、断るのも角が立ちそうだ。いったいどうしたものか。
「土方と喧嘩したんだろ」
言葉が出なかった。この人、知ってた上で岩尾先生の家に上がり込もうとしていたのか。
「飯出してくれたら、アイツへの嫌がらせの案くらいは出しますぜ」
「嫌がらせはちょっと……。あと今日のご飯は岩尾先生です」
「なんでィつまんねーの。まあ嫌がらせは別にして、話くらいは聞かせてくだせェ」
沖田さんはあたしの手をグイグイと引っ張って家に入っていく。どっちがこの家の住人かわからない。
「おじゃまします」と靴を脱いで階段を上がっていく。ちらりと沖田さんがこっちを見た気がするけど、どうしてだろう。
「おかえりすみれちゃん。……あれ、トシはどうした?」
「喧嘩別れでさァ」
「……そうか。悪い事聞いちまったな」
「いえ、私が悪いんです」
それっきり、居間の空気が悪くなってしまった。やっぱり、私はここにいちゃダメなんだ。
「いたらいけねェ人間なんざ、よほどの大悪党以外存在しやせんぜ」
「そんなに分かりやすいですか私」
「俺とアンタはちょっとした特殊ケースでさァ」
「特殊」
「俺とアンタ、前に魂とっかえしちまった事がありましてねィ、そん時に色々見ちまったんでさァ」
何気にヤバい事に巻き込まれてないか私。何魂とっかえって。お腹に残ってる銃創といい、割と災難体質なんじゃないか私。そこまで悪い事をしたんですか私は。
ご飯が一気に重たくなった。折角のアジのたたきが。
「あのヤローがアンタを出向させようとしてるのも、互いに頭を冷やすためでしょ。だからその捨てられた犬猫みたいなツラ止めてくだせーよ」
「折角の飯が不味くなっちまうわァ」と沖田さんは宣った。……もしかして、励ましてくれているんだろうか。
そう思うとちょっとだけご飯が美味しくなった。我ながら単純なものだ。
「沖田さんって、意外と優しいんですね」
「今更ですねィ。土方から乗り換えますか。アンタなら特別に許してやらァ」
「それはないですね」
「……土方にしなかったらよかったって泣きついても知らねえからな」
脳裏をかすめた何かに、ピタリと箸が止まった。
前にもこんなやり取りをした。妄想でもなんでもなく、実際に。その時も割と深刻な空気だった気がする。その時もどうしたらいいのか分からなくて、行き詰まっていたはずだ。
「沖田さん、今の」
「かすりもしないって訳でもないみたいですねィ」
「みたいだなァ」
それがいい事なのか、悪い事なのか。自分には測りかねたけれど、沖田さんも岩尾先生も芝崎さんも嬉しそうにしている。それが少しだけ嬉しくも、悲しかった。
記憶のない自分は、彼らにとって不要なのだと思い知らされたようで、悲しかった。
*
皆さんの期待とは裏腹に、私の記憶は戻らなかった。その内に辞令が渡されて、どこぞの田舎に飛ばされる事になってしまった。
今日は異動の前日。事故に遭って記憶をなくしてから6日が経っていた。あの日から土方さんとは顔を合わせづらくて、意図的に避けていた。ついさっきも土方さんと出くわしそうになって、逃げるようにこの飲み屋に入ったのだ。
「お、すみれちゃんじゃん」
「坂田さん」
「……お、いい酒だねェ。俺にも一杯」
「いいですけど、酔って問題起こさないでくださいよ」
図々しくも隣の席に座り、人がキープしていた酒瓶を強請る卑しん坊のコップになみなみ注いでやる。この酒は焼酎だ。キープの期限が近いから、出港までに飲みきってしまいたかった事だし、丁度いいか。
「しっかしもったいないねェ」
「何がですか」
「こんなに旨い酒飲んでるのに、しかめっ面なんざ。そんなところも土方君の真似すんの?」
「今土方さんの名前を出すのやめてくれませんか」
「いやいや、そうやって逃げたってなんにも変わらねーよ?」
「坂田さんってお酒が入ると説教したくなる人だったんですか」
「土方君も沖田君も優しいから言ってないんだろうけど、銀さんは大人だから社会の厳しさをビシッと教えないといけねーだろ?」
「年下に酒を集る卑しい大人がなんですか」
「……そういうところは記憶を失っても変わってないのね」
無言でグラスを突き出され、片頬を引きつらせながらお代わりを注いだ。しれっと同じ伝票で頼まれたつまみまでやってくる。
「本当に忘れたい事からは、どうやっても逃げられやしねーよ」
ズキリと頭が痛む。不意に、自分が暗がりを見下ろしているような、そんな錯覚。
「それと同時に、本当にやりたい事ってのは、脚を潰されようが、土手っ腹撃たれようが、記憶を失くそうがやらなきゃならねェ。人生ってのはそういうもんなの」
「経験者は語る、ですか」
「そ。愚者は経験から学ぶしかねーだろ?」
「どうしてこんな事を」
酒のためにしては随分と真摯だ。そう感じたので、聞いてみたのだけど、坂田さんは何でもない顔だ。
「そりゃあ、俺達ゃ万事屋だからさ」
「それがあなたのやりたい事なんですか」
「ああ、そうさ。金さえ積まれりゃ何だってやる。犬の散歩から小娘のお悩み相談までな」
「じゃあ支払いはこの子だから」と、年長者とはとても思えない台詞を残して坂田さんは去っていった。
さて、本当にやりたい事、忘れたい事とは何だっただろうか。その日は命題を抱え込んだまま、とりあえず寝た。そして翌日、準備をしながら半日考えたけれど、結局何も分からなかった。
私はフェリー『向日葵 富良野』で新天地に旅立つ。空を飛ぶのではなく海の上を航行する船なのでターミナルからの発着ではなく、江戸から少し離れた港から出発する。電灯に照らされたコンクリートの埠頭には、岩尾先生と芝崎さん、そして沖田さんと近藤さんがいた。みんな少し悲しげな顔だった。
「大丈夫だ。記憶がなくたって診察にゃあ問題ねェ」
「はい、頑張ります」
ゆっくりと船が近付いてきた。まとめた荷物を持ち上げる。この船に乗ってしまえば、任期が終わるまでは面と向かって話ができなくなる。たった1週間の付き合いだったけれど、この人達がとても優しい事だけは理解できた。その彼らと離れ離れになるのは寂しいけれど、元はと言えば、自分のせいだ。仕方がない。
「元気でね!俺の事忘れないでね!」
「大丈夫でさァ。近藤さんも大概キャラ濃いから」
「濃い!?ケツ毛が!?」
「いや、キャラって言ったじゃないですか」
乗船を受け付ける旨を伝えるアナウンスがただっ広い埠頭に響いた。もう一度振り返って、足りない人の影を探し出そうとしたけれど、どこにもいなかった。江戸から下道で100キロの港町だ。忙しいあの人が来ないのも無理はない。
「今までお世話になりました。皆さんお元気で」
頭を下げて、ステーションに入りブリッジを歩く。窓からちらりと見えた彼らは、誰も彼もが泣き出しそうな目。私は見なかったふりをして、船内に足を踏み入れた。
諸々の手続きやら出港の見送りやら何やらを終えて、客室で椅子に腰掛けて大きく伸びを一つ。船に乗るだけなのに随分と忙しかったような。やっぱり未だにテロリストが暗躍している分、安全対策には敏感なのだろうか。
それにしても、いい部屋を取ってもらえたな。てっきり一番安い三等客室で雑魚寝だと思っていたのだけど。ちょっとしたビジネスホテルくらいの部屋を貸し切りにしてもらえるとは、流石公務員。知らない人と雑魚寝とか相部屋はちょっと怖かったので助かる。しかも窓がある親切。
さて、船に乗っているのは17時間程度だ。今は夜だから、寝る前にちょっと食べてお風呂に入って眠って暇をつぶして、朝ごはんを食べて、お昼前には目的地だ。
船内の食堂は高い。移動中の経費で落ちる金額を大幅に超えている。
「持ち込んだ食料で我慢するか、自腹を切るか……」
この先何かとお金が入用になるのは明白。となれば今は温存が最善かな。
「そういえば、今の今までスルーしていたけど、この荷物なんだろう」
客室には見覚えのない大きなスーツケースが持ち込まれていた。船員さんに渡されたけど、かなり大きい。人間一人くらいなら軽く入ってしまいそうだ。自分の荷物の一部は事前に宅配便で送ったはずだし、変だな。
心当たりのない荷物。海を行く客船。物騒なアイディアが脳裏を過ぎった。
「まさか、爆弾テロ!?」
係員さんに知らせるべきか。そう思って客室を飛び出そうとした矢先、ガタガタとくだんのスーツケースが揺れた。まるで中に何か生き物が入っていて、出せと暴れているような、そんな揺れ方をしている。
「えっ何?何?」
とりあえず爆弾ではないようだ。もしかすると危険生物かもしれないけれど。この1週間一度も抜いた事のない刀をお守り代わりにそばに置く。そもそも抜刀できるかさえ怪しいけれど、ないよりはきっといいはずだ。そうしている間にもスーツケースは地面を跳ねたり転がったり忙しい。中の何かはスーツケースを壊さんばかりに暴れまわっているみたいだ。
「あ、あの、今出しますから!大人しくして!」
言葉が通じたのか、スーツケースは大人しくなった。言語が通じる程度の知能がある中身なのかな……。恐る恐る、スーツケースを地面に横たえ、ロックを解除した。
中に入っていたものに、思わず声が上がった。
それは、この船にあってはいけないものであり、一目見たいようで見たくないものだった。
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