アン・シャーリーの憂鬱






コツ、コツとヒールが小気味良い音を爪弾く。
「リリー、おはよう!」
「あら、ハドリー夫人!ごきげんよう!」

太陽が真上に登るころ、私、リリー・マーガレット・ピーターソンは買い物に出かける。
これはアイリーンとの同居を始めた頃にルーチン化した行動で、アイリーンの余りにも悪い生活習慣、食習慣の改善の為に始めたことだ。最初こそ右も左も分からない状況であったけれど、私達の探偵事務所も中に入っているアパートの管理をしているハドリー夫人に良くしてもらっていて、何とか生活出来ていた。

「いつもご苦労さま。今日も買い物?」
「ええ!アイリーンがチョコを欲しがっていたし、バゲットもきれてしまって…」
「チョコ?…あぁ、それはね…」
アイリーンが欲しがっていたのは麻薬のチョコだったなんて、そういった隠語に疎い私は気づけなかったから、お仕返しにとてつもなく甘いハイミルクチョコレートをアイリーンのお金で買った。

一通り買い物を終え、帰路につこうとしたところで喫茶店でアイリーンが初老の紳士と喋っているのが見えた。恰幅が良く赤ら顔で、燃え盛る様に赤い髪が印象深い。ぼーっと彼らを見つめていると、その視線に気づいたアイリーンがこちらに近づいて、ズルズルと喫茶店まで引きずり込まれてしまった。

「いやはや、実にいいタイミングだよ、ワトソンくん」アイリーンはにこやかな顔でそう言った。
「もしかしてお仕事中だった?」
「その通り、勤務中だ。」
「なら私は先に事務所にいってるね」これもあるし、と私はチョコレートとバゲットと少し高めのソーセージが入った紙袋を掲げた。
「まあまあ、待ちたまえ…。ワシントンさん、この方は私のパートナーです。彼女とは…数多の…と言っては多いかも知れませんが…数々の事件を共に解決してきました。私の助手としての優秀さはピカイチです。貴方の場合にも、彼女が大いに役に立つことは間違いありませんよ」

ワシントンさん、と呼ばれた紳士は軽く腰を上げただけで、申し訳程度の会釈といった感じだ。脂肪に囲まれて小さくなったつぶらな瞳が、私の事を疑わしげに見るのであった。

「ささ、かけたまえ。」とアイリーンは喫茶店の椅子をひいた。私は渋々、といった形で席についた。肉類は早め早めに冷蔵庫に入れなければならないとハドリー夫人から教わっていたので、恐らくソーセージもその類いだろうと危ぶんだからである。アイリーン自らも椅子に戻ると、銀色の蓬髪を指で弄び始めた。これが考えに耽ける時のアイリーンの癖だというのは最近になってわかった事だ。
「そう、ワトソンくん。君は私の好みに同じで、突拍子も無いこと、退屈で普遍的な日々の生活の埒外にあるものが好きだ。君の熱心さを見ればわかることだ。なんせ、一々事件の記録をつけるくらいだからね。私に言わせてもらえば、今回の事件はうんと興味深いものになりそうだ。君無しじゃあ始まらないだろう?」
「ええ!ええ!それもそうよね!」
ザ・相棒みたいな一言に、私はつい嬉しくなって、ソーセージやらチョコレートやらが入った紙袋を置いた。

「ところで、ここにいらっしゃるチャールズ・ワシントン氏が今朝、訳アリで私に依頼しにいらしたのだが、そのお話によると、この事件は近頃の難事件の中でも頭ひとつ抜きん出たものになるという確信がある。
常日頃言うように、不思議かつ独創的な事件というのは、巨大な犯罪には現れてこない。逆に小さな事件にその姿を現す。また時折、本当に犯罪が行われたのかどうか、それすらも釈然としないところにさえ現れる。
話をうかがった限りでは、目下の事件が犯罪として扱える、とは明言出来ない。しかし今回の事件の経緯は、その他の事件とは一線を画すと言えるだろう。恐縮ですがワシントンさん、もう一度お話をお聞かせ願えないでしょうか。といいますのも、友人であるリリーが最初の辺りを聞いていませんし、事件が事件ですから、事細やかな部分まで貴方の口から可能な限り伺って起きたいと思うからです。
平生ならば、事件の成り行きをほんの少し聞くだけで構いません。私の記憶の中から、似たような何千もの事件の例を引き出し、捜査を正しい方向へ導けます。しかし本件の場合、私の見たところでも、比較材料のない事件と言わざるをえません。」

依頼人は誇らしげにぷよぷよとした胸を張った。汚れてしわくちゃになった新聞を厚地のコートの内ポケットから取り出した。机の上に広げ、シワを伸ばしている。
首を差し伸べ、広告欄に目を落とした。
私は恰幅の良い男の挙動を観察し、わがパートナーのやり方に倣って、男の服装や態度からどんな人柄や職業なのかを読み取ろうと努めた。

だが、いくら観察しても何も見えてこなかった。どこをどう見ても一般的な商人である。でっぷりと太っていて、もったいぶったような鈍い動作。少しダブついたグレーのシェパードチェックのズボン、草臥れた感じの黒いトレンチコートを着て、コート前のボタンを外していた。淡い褐色のベストからは太い真鍮製のアルバート型時計鎖がぶらぶらとぶら下がっており、先には四角く穴の空いた金属片が装飾品として付いていた。擦り切れたシルクハットにシワだらけのビロードの襟が付いたくすんだ褐色のオーバーが、傍にある椅子の上に置かれていた。少しだけ古めかしい風体だ。
そういった風に観察しても、結局解るのは、男の燃え盛るような赤い髪と、酷く悔しそうな、不満そうな表情だけだった。

アイリーンの梟の様な鋭い眼に、私が企んでいることは見抜かれている様だった。私の疑問に満ちた一瞥に気づくと、笑いながらかぶりを振るのであった。
「いや何、わからない。この方が過去、手先を使う仕事にしばらく従事していらっしゃったこと。嗅ぎ煙草を愛用していらっしゃること。フリーメイソンの一員でいらっしゃること。中国にもいらっしゃったこと。近頃、相当な量の書きものをなさったこと…これだけははっきりとわかるのだが、後はまったくわからないな。」
チャールズ・ワシントン氏はカピバラを彷彿とさせる眼を見開いて、椅子からすっくと立ち、視線をアイリーンの方へ向けた。
「ど、どうやって、どのようにしてそのことをご存じなんですか、バイオレットさん」ワシントン氏は驚きのあまり、言葉を口に出す。誰だって、いきなり自分がどんな事をしてきたか言い当てられたら動揺するだろう。私だって瞠目する。

「その…ええと、ほら、私が手先を使う仕事をしていたことを?ずばり間違いありませんよ。わしは船大工からたたき上げたんですから。」
「手です、あなたの。あなたの右手、左手より一回り大きいでしょう? 右手を使って仕事をしていらっしゃったんですから、その結果、その部分の筋肉が発達してしまったのです。」

「ほぉぉ、なるほど。なら、嗅ぎ煙草……フリーメイソンであることは?」
「どうやって見抜いたのか、それは詳しく申さないことにしておきましょう。あなたのように賢い人には無礼に当たりますから。それにとりわけ、フリーメイソンの厳格な規律に背いて、身分を表す円弧とコンパスのブローチをつけていらっしゃいる。」

「あ、本当ですな。うっかりしてました。しかし、書きものに関しては……」
「右の袖口に五インチほどのテカリがあります。左も然りで、ちょうど机に当たる肘の辺り。つるつるして変色した部分があれば、これは書きもの以外に何で説明づけましょうか?」

「ふむ、では中国のことは?」
「魚の刺青が、右手首のすぐ上に彫ってあります。これは中国へ行かなければ彫れないものです。私は刺青の絵柄についてほんのささやかな研究をしたことがありまして、その方面には論文を書いて寄稿したこともあります。このほのかなピンク色の魚鱗、中国のものにしかない特徴です。それに今、中国の硬貨を時計鎖から下げていらっしゃる。これで理由は明らかでしょう?」

チャールズ・ワシントン氏は大笑いし、「いやはや、こんなの初めてだ!」と言った。
「わしは初め、あんたが何かうまい方法でも使ったのかと思っとった。だが、結局は何でもないことなんですな。
「覚えておこう、ワトソン君。」
アイリーンは私の方を向いた。
「細々と説明するのは損だ、とね。『未知なるものはすべて偉大なりと思われる。』
…私の評判もあまり大したものでもないが、あまり正直にしゃべっていると…認めたくはないが…やがては地に落ちてしまう。ところでワシントンさん、広告は見つけられましたか?」

「ええ、見つけましたとも。」
ワシントン氏は太く赤い指を中ほどの欄に下ろした。
「これです。これが事の始まりだったのです。自分自身でご覧になって下さい、バイオレットさん。」

 私は新聞を受け取り、次のように読み上げた。

赤毛連盟に告ぐ――アメリカ州デロニカの故キャロル・ガターリッジ氏の遺志に基づき、今、ただ名目上の尽力をするだけで週四ポンド支給される権利を持つ連盟員に、欠員が生じたことを通知する。赤髪にして心身ともに健全な二十一歳以上の男性は誰でも資格あり。月曜日、十一時、ツウェリ街、スケープ・ゴート七番地、当連盟事務所内のペーター・レッドメインに直接申し込まれたし。

 私は、この奇怪極まりない広告を二度読み返した。
「……意味がさっぱりわからないわ!」
口をついて出たのは、こんな叫びだった。

アイリーンはヘラヘラと笑い、椅子に座ったまま身体を揺すった。これはアイリーンが機嫌が良い時に良くする仕草だ。
「これはこれは…少々常軌を逸した話だなぁ。フム…」とアイリーンは呟いた。

「ではではワシントンさん、早速取りかかりましょうか。あなたと家族のこと、そして広告に従った結果、生活にどのような影響があったのかを教えてください。ワトソン君は新聞の名前、日付を書き留めてくれないか」
「一九XX年五月二十七日、マグノリア・クロイツ紙。きっちり二ヶ月前だわ」
「どうもありがとう。ではワシントンさん、どうぞ」
「えっと、それは先程アイリーン・バイオレットさんに申し上げた通りで…」ワシントン氏は額に浮かび上がった玉のような汗を拭い、話を続けた。

「わしは中心区あたりのクローバー・スクエアで小さな質屋業を営んでおります…と言っても、手広くやっているわけでもなく、最近はどうもさっぱりで、ようやく1人分、食っていけるという有様です。昔は店員を二人雇うことが出来たんですが、今は一人しかございません。本来なら払うのも難しいところなんですが、本人が見習いでいいからと他の半分の給料で来てくれとるんです。」
「その見上げた青年の名前は?」アイリーン・バイオレットは尋ねた。

「名をクリス・ウィドーソンと言うんですが、青年というほどじゃあありません。
あれは年齢の見当がつかんのです。だが、店員としては頗る利口なやつでさぁ、バイオレットさん。他で働きゃあ今の倍は稼げる腕があると、わしゃ踏んどるんです。でもまぁ、あれが満足してるんだから、入れ知恵する必要もありますまい。」
「確かに。あなたも運のいい方です。相場以下で従業員を雇えるとは。今のご時世、なかなかそううまくはいかないものですから。変わりものという点では、その従業員と広告、甲乙付けがたいと言えます。」
「いや、実は、あれには欠点もありまして……」ワシントン氏は苦い顔をした。「あれほど写真の世界につかりきった男はそこいらにおりますかな? あれは見習い修業もせなならんのに、カメラを持ち出して、パシャパシャとやっては、モグラが穴にはいるように地下室へ潜り込んで、写真を現像しよるんです。それがあれの粗なのですが、大まかに見りゃあ、いい仕事をしとります。悪いやつでもありゃしません。」
「察するに…彼はまだ店にいると?」
「ええ、そうですとも。あれと十四になる娘っ子がおります。これが簡単なまかないと掃除をしてくれとるんですわ。わしの家はこれだけです。わしは男やもめでして、家族もありません。わしらは三人でひっそりと暮らしているんですよ。たいしたこたぁできませんがね、一つ屋根の下で雨風をしのぎ、借金を返すくらいのことはしております。
 そこへこの広告ですよ。この広告が面倒の始まりだったんでさぁ。ウィドーソン、あれがちょうど八週間前、まさにこの新聞を手に持って、二階から降りてきて言うんですよ、
『ワシントンの旦那、あっしも髪が赤かったらなぁ。』って、そこでわしは聞き返しましたよ。


『そいつはどうして?』って。
 するとあれは言うんです。『なぜって、ここに赤毛連盟の欠員があるんですよ。ここに入ればどんなやつでもちょっとした金持ちになれるんですよ。何でも、連盟の欠員を埋める人間が足りないらしくて、遺産管財人が宙に浮いた金をどうしていいか途方に暮れているらしいそうですぜ。あっしの髪の色が変えられたら、連盟に入って金をくすねてやったのに。』
 だからわしは、『何、そいつぁ一体何の話だ?』と聞いてやりましたよ。ほら、バイオレットさん。わしは職業柄、出不精なんですよ。こっちから行くんじゃなくて、向こうから来てくれますからね。だから何週もドアマットをまたがないこともめずらしくないんで。……そんなわけで、世間のことにはてんで疎いもんで、ちょっとしたニュースでも聞くと、気になってしまって。
 するとあれはね、『赤毛連盟のことをご存じないんですか?』と、眼を丸くしやがるんですよ。
『ないなぁ。』とわしが答えると、
『ふぅん、そいつは不思議だ。旦那は空席にぴったりの資格を持っているっていうのに。』
『それは、どんないいことなんだい?』とわしは詳細を聞こうとしたんですわ。
『まぁ、たった一年に二百ポンドってところですが、仕事はわずかなもんですから、他の仕事の妨げにはなりませんぜ。』
 ってな訳でしてね、わしが耳寄りな話だと思ったのも無理ないことでしょう。ここ数年は商売がうまくいってなかったもので、一年に二百ものあぶく銭がありゃあ、とてもありがたいですから。
『詳しく聞かせてくれないか?』とわしはとうとう本腰になってきました。
『ええ。』と、あれはそう言って、あの広告をわしに見せるんです。『旦那、ほらここに空席があるでしょう、問い合わせ先だって載ってますぜ。なんでも、その連盟ってのは百万長者の米国人、キャロル・ガターリッジっていう変人が設立したらしくて、そいつ自身が赤毛だったもんだから、同じ赤毛の人間に大きく共感するらしいんです。てなもんで、死んだときに莫大な遺産を管財人に預けて、その利子を使って、自分と同じ色の髪を持つ男が楽に暮らせるように金を分配してくれ、と死に遺したらしいんです。話によると、給料の気前はいいくせして、することはほとんどないときたもんだ。』
 わしはそこで少し不安になりました。
『だが……志願してくる赤毛の男など、世間には五万とおるだろう?』
だがあれはこう言うんです。
『旦那が思うほど多くおりませんぜ。ロンドン市民限定で、立派な大人じゃなくちゃなりません。何でもその米国人は若いときロンドンから身を立てたみたいで、この懐かしい街に何か恩返しがしたいんだとさ。それに赤毛といっても、薄いのや黒っぽいのはダメで、本当にきらきら燃えるような赤毛じゃなくちゃなりません。ほらほらワシントンの旦那、申し込みたいんだったら、ちょこっとそこに顔を出しゃいいんですが……旦那がたかが二、三百ポンドの金で出向かれることもないですよね。』
 そこまで言われてですね、事実、わしゃこの通り髪はまったくすばらしいほどの赤い色合いをしておりますので、このことで競うなら今まであったどんなやつにだって負ける気すらせんのですわ。クリス・ウィドーソンは連盟のことに詳しくて、役に立つかもしれんので、その日は店を閉めて、ついてくるように言いつけましたよ。あれも今日一日が休みになるのを喜びましてね、わしらは仕事を切り上げて、広告に示してある住所へと向かったんですわ。
あんな光景は願っても二度と見られませんよ、バイオレットさん。北から南から、東から西から、髪の毛の赤いという男がだれも彼も、広告を見て中心区へてくてくと行進して行くんでさ。ツウェリ街は窒息しそうなほど赤毛の人並みであふれていて、ポプリ・コートはオレンジ売りの手押し車のようでした。ただ一つの広告が国中からこんなにも大勢かき集めるとは、想像もつかんことですよ。わら色、レモン色、オレンジ色、レンガ色、アイリッシュ・セッターみたいな色、レバー色、粘土色、ありとあらゆる色合いの赤毛がおりました。だがウィドーソンの言ったとおり、本当に鮮やかな炎色はおらんのです。こんなに多くの人が順番を待って並んでいるのを見ると、もう選ばれるわけがないとあきらめていたのですが、ウィドーソンが聞き入れないので同じように並んでいました。そのときどうしたかおぼつかんのですが、あれはわしを押したり引っ張ったりして、人混みを抜けるまでいろんなものに当たりながら、事務所に続く階段の前まで連れてったんですわ。そこには、希望を持って階段を上る人の列と、意気消沈して降りてくる人の列、その二つの人の流れがあってねぇ、わしらは何とかして列に無理矢理割り込み、ついに事務所の中に入ったんです……」
「それはそれは。何とも面白い経験をなされましたね」アイリーンは言った。
ちょうど依頼人が話を中断し、嗅ぎ煙草を多めにつかんで、記憶を新たにしようとしているところだった。
「興味を惹かれる話です。どうぞ、そのまま続けてください」
「その事務所は二脚の木の椅子と松材の机の他には何もなく、その後ろにわしよりも赤い髪の小男が腰を下ろしていました。そいつは人が入ってくると、志願者それぞれに二言、三言かつぶやいて、何とか粗を見つけては、不適の烙印
を押しつけとるのです。これでは資格を得るのはやはり、簡単とは言えそうにありませんでした。ところが、わしらの番が回ってきたとき、小男は他のやつよりひどく好意的な目をわしに向けたんですわ。わしらが入ると、秘密の話をしようと扉を閉めたのです。
『チャールズ・ワシントンと申されます。』と、まごついていたわしを、ウィドーソンは横から口添えをしてくれました。『連盟の欠員を補いたいと希望されています。』
相手はあれの言葉を聞くと、こう答えたんです。『まさに適任だ。この方なら全ての条件を満たしている。こんなにも燃えさかるような赤は……見たことがない。』って、それから、その男は一歩後ずさり、首を傾げて、こっちが恥ずかしくなるほど髪をじっくり見るのです。すると突然、つかつかと歩いてきて、両手を硬く握りしめてですね、合格おめでとうと熱烈に言うんですよ。

それからその相手はですね、『ここで躊躇しては、申し訳が立ちません。』と何やら言い出しましてね、『見え透いたことでも、確かめるまで念には念を入れて……失礼します。』と……!

 男はわしの髪を両手でつかんで、ぎゅう、と引っ張りおったんですわ。
わしは思わず、あっ、と叫んでしまいましたよ。
すると男はですね、『ん、涙が出ましたね。』とか言って手を離したんですよ。
『これで問題ないわけですな。だが、我々は気を付けなければならんのです。今まで、かつらで二度、染色で一度騙されたことがあるんです。靴の縫糸用のロウ、そういったものを使った話もあるくらいで、人間の浅ましさにはあきれるばかりです。』と弁解めいた言葉を言いながら男は窓の所へ歩いて行って、大きな声で、合格者は決まったぞ、のようなことを怒鳴ったんですわ。
そうしたら、がっかりした人たちのため息とかざわめきとかが下から聞こえてきて、人並みはぞろぞろっと散らばっていってですね、赤毛の人間といやぁ、わしとその審査員みたいなやつだけになっちまったんですよ。

 そこで男は改めて、『私の名は、ペーター・レッドメインと申します。』と名乗ったわけでして。それから、こう言ったんです。
『我々の気高い慈善者はわたしたちに基金を遺してくれましたが、私もその恩給を受けている者の一人です。ワシントンさん、あなた、配偶者はおありですか?家族はおありですか?』
 そんなふうに聞かれたもんですから、わしは、どちらもいない、と答えたんですよ。
 すると男の顔がみるみる変わっていくんですわ。
『ああ、困った。』ってシリアスな顔をしてですね、『実に深刻な問題だ。とても残念です。いやね、この基金というのは赤毛の一族を繁栄させ、種の保存をしていくことが目的なのです。残念なことに……あなたが独身だとはね……』
 こんな言葉を聞いてですね、わしもがっかりしちまいましたよ、バイオレットさん。やっぱり、そうやすやすと連盟員になんてなれるわけないってね。
でも、でもですよ、男はしばらく考えてから、まぁいいでしょう、って言ったんですよ。
男はそれからこう言うんです。
『他の人なら、この点は致命的になりかねないのですが、このような素晴らしい髪を持った方のこと。ここは妥協して規則を曲げなければなりませんね。では、いつ頃からこちらの仕事につけるのでしょうか?』
 そこで、わしはこう言ったんです。
『…はぁ、ちょっと都合が悪いのです。店の方も…ありますもので。』
 するとですね、クリス・ウィドーソンが出てきてこう言ったんですわ。
『え、ワシントンの旦那、そんなこと気にするこたぁありませんよ。店の面倒はあっしにだって出来ますから。』
 ですから、わしは次にこう聞きました。『勤務時間というのは、どのくらいのもんなんですかね?』
『十時から二時までです。』
 ところで、バイオレットさん、質屋業ってのは大抵夕方が中心でさぁ、忙しいっていっても給料日前の木曜と金曜の夕方くらいなもんです。ですから、朝にちょっと稼ぎがあるだなんて願ってもないことだし、その上、うちの店員はよくやってくれますからね、店をまかしておいても大丈夫ってわけです。
『それは好都合です。』って言いまして、次にこう聞いたんです。『で、給料の方は?』
『週給で、四ポンドです。』
『それなら、仕事の方は?』
『ほんの名ばかりのことですよ。』
『いやだから、その名ばかりの仕事というのは?』
『ああそうでしたね、時間内は事務所…いや、せめてこの建物の中にいてもらわなければなりません。もし持ち場を離れましたら、あなたは永久にその資格を剥奪されることになりますぞ。遺言状にもその点ははっきりと明文化されています。勤務時間中に一歩でも外にお出でになられたのなら、そこで即、資格剥奪ということになります。』
『一日四時間なんでしょう? 外に出ようなんて滅相もない。』
と言ったらですね、ペーター・レッドメインさんはびしっと言ってのけるんです。
『いかなる理由も許しませんぞ。病気でも、用事があったも、また他のどんな理由であってもいけません。ここに必ずいてください、さもないとクビですぞ。』
『それで、仕事といいますのは…?』
『大英百科事典を書き写すのです。第一巻はそこの本棚にあります。インクとペン、それに吸い取り紙は自前でお願いしたいのですが、机と椅子は用意してあります。明日から…よろしいでしょうか?』と言いますから、わしは『承知しました。』と答えたんです。
そうすると、『では、今日の所はさようなら、チャールズ・ワシントンさん。あなたが幸運にもこの得難き地位につかれましたことを、謹んでもう一度お祝い申し上げます。』と、男はわしを部屋の外へ送り出しましてね、わしもあれをつれて店へ引き返したんですよ。
ですがね、帰ってからも、何を言って、何をしてよいのやらさっぱりわからなくなりまして…それほどわしは自分の幸運に酔いしれてたんでさぁ。
で、一日中そのことばかりを考えていたんですがね、日が暮れるとその酔いもさめてしまったんですわ。というのも、わしは…これはみんな詐欺か悪ふざけにちがいない、目的はよくわからんが、きっとそうにちがいない、と考えるようになったんです。だいたい、どこのどいつがそんな遺言を書いて、大英百科事典を書き写す、そんなつまらない仕事にこんな金を払うんでしょうか。信じられないんですよ。クリス・ウィドーソンはね、わしを乗り気にしようとはやし立てるんですが、もう寝る時分になると考えるのをやめにしました。
でも……朝になると、まぁとにかく一度行ってみるくらいはしてみようと、そう決心しましてね、インクの小瓶とペン、フールスキャップ判の紙を七枚買って、ポプリ・コートへ出向いたんです。
えぇ、驚きましたし、喜びもしました。まったく話の通りだったんですからね。机が私専用に置いてあって、ペーター・レッドメインさんがわしがちゃんと仕事に取りかかるか、見届けに来ていたんです。レッドメインさんはわしにAのところから書かせ始めると、部屋を出ていったんですが、ときどきちゃんとやってるかを見に来ていました。

二時になると、もう帰っていいってことになってですね、わしの仕事ぶりをえらく褒めてくれましてね、そうしてわしが部屋から出ると、事務所のドアに鍵をかけてしまいました。
来る日も来る日も仕事をしたんです。で、バイオレットさん、土曜日になるとレッドメインさんがやって来て、一週間分の給料としてエヴリン金貨を四枚くれたんです。次の週も、その次の週も同じでした。毎日十時にそこへ行って、午後二時にそこを出ます。
次第にペーター・レッドメインさんは朝に一度しか来ないようになって、そのうちさっぱり顔を見せないようになってしまいました。でも、もちろんわしはその部屋を一歩も出ませんでしたよ。
いつ来るかもしれませんから。それにこんなによくてですね、わしにぴったりな仕事をそうやすやすと手放す気にはなれないってもんです。

そんなこんなで八週間が過ぎました。わしは……Abbots, Archery, Armour, Architecture, Attica……と写していってですね、もうちょっとやりゃぁ、そろそろBのところにも取りかかれるかな、と思っていたんです。
フールスキャップの代金も相当かさんできてましたからね。わしの書いたものも、棚一段、満杯になろうとしていたんですよ。

ですがね、…急に、仕事がふいに…なってしまったんです。」
「ふいに?」
「そうですとも。それもつい今朝のことですよ。いつものようにね、十時に仕事へ向かったんです。でも、扉が閉まって開かんのですわ。すると、扉のパネルの真ん中あたりに、小さな四角いボール紙が鋲で止めてあったんです。それがこれですよ。ご自分でご覧になってください。」

ワシントン氏は一片の白いボール紙を差し出した。メモ帳くらいの大きさだった。そこにはこう書かれていた。

赤毛連盟は解散する。
一九XX年七月九日



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