きみはそのままで良いのに






「おかえり」

アーティが事務所に帰った時、そこにはニコラスが居た。ニコラスはその手に持った紙袋をそっと持ち上げる。アーティは紙袋とニコラスを数度見たあと、そうっと微笑んだ。

「来ていたんですね!」
「まあ、今」
「お仕事、お疲れ様です」
「どうも」

居心地が悪そうにニコラスはアーティから目を逸らす。目を逸らしたところで視界に入るのは、テディベアの置かれたキャビネットだ。青年に対し柔らかく微笑んだままの少女は椅子へと手で案内するが、相手は席に着くことなく机に紙袋を置き、中身を取り出し始めた。
アーティは一瞬余計なお世話だったであろうか、と勘繰った。しかし当の本人は、まだ可愛らしい椅子に座る勇気が無いだけである。傍にある木製のチェアには、大人しい色のクッションが添えられている。ニコラスは色彩の名称に詳しくないが、自分の知る限りではペールピンクに近いだろうか。兎にも角にも、このこじんまりとした事務所は女性らしいといえる内装なのである。

「いくつか持ってきた」
緊張を誤魔化すようにニコラスが紙袋から取り出したのは、ナッツのベーグルと、シナモンロール。塩パン、マフィン。それからバタークロワッサン。
「こんなに…」
「嫌いなものは?」
「いいえ!特には」
「それじゃあ全部食べるといいよ、紙袋は置いていくから」

アーティは目を見張った。ニコラスなりの気遣いなのだろうと言うのは理解していたので、その薄い唇が否定の言葉を零すことはなかった。しかし、申し訳ないと言う気持ちが胸に纏わりつくので、へにゃりと眉が下がった。だからアーティはわざと笑顔を浮かべた。「ありがとうございます」

相手が気を悪くしないようにと急いでクロワッサンに手を伸ばしたアーティは、それを啄むように一口噛んで、また見せるように笑った。ニコラスがとりわけ大切そうに取りだしたのを知っての事だった。
そうすれば、それを見たニコラスも落ち着いたように眉間の皺を緩くするので、アーティはひとまず安心することが出来たのである。

二人が探偵とワトソン_DWの関係になってから、まだ1ヶ月とちょっとしか経っていない。お互いの性質により立ち込める居心地の悪い空気は、二人の関係の進展を阻んでいる。彼らはあからさまに他人であった。



*




つい数日前の事だ。この辺りの区域に探偵事務所を構えている探偵たちが、中心街の警察署に集められた。カメリア対策会議と称されたそれは、ここ数ヶ月に渡り、デロニカを騒がせている犯罪についての会議である。
事件の担当をしているらしい警官が、女性であったことに珍しさを覚えた。几帳面に整ったスーツの、知的な緑眼の女性だった。
配られた資料、それから警官の話によると事件にはとある共通点があると言う。些細なことだ。エンターテインメントのように現場に花を残すのである。
その花の名はカメリア。聞き慣れない花の名であったが、原産は日本と言う島国であるらしく簡単に入手出来る花では無いらしい。ニコラスは花にさほど興味が無い為に、あまり真面目に話を聞くことは無かった。対してアーティは、花の話を興味深そうに聞いていたのを覚えている。

カメリアの花が置かれた事件においての犯行の手口、また犯人に共通点は一切ない。共通しているのは、カメリアの花が象徴であるかのようにそこに置かれていることだけだ。
つまり、実に素朴な話であるが「カメリアの花が置いてあるという共通点があるため、これは何か目論まれている」というのが警察の見解である。
そうしてカメリアが関わる事件の情報を纏め、次事件が起こると予想される区域の探偵達が集められた、という訳である。



しかし、まあ、ニコラスは自分とアーティが関わることは無いだろうと踏んでいた。何故ならアーティの探偵事務所には依頼らしい依頼が来たことが無いからである。
アーティはニコラスと出会うまでに探偵をしていた経歴があるが、デロニカに探偵事務所を構えてからは探偵としての業務をした覚えがない。

犯罪都市という、不名誉な名称で呼ばれるデロニカ。
デロニカは広い都市であるが、煌びやかな中心街とは対極に中心から離れれば離れるほどに廃れていく。犯罪の多さも中心街から離れる程に増えていく。
そんなデロニカは探偵の始まりの土地としても名を馳せているが(犯罪が多いことから)、いくら依頼が欲しいからと言っても、デロニカの片隅に事務所を建てるなんてことをしてはいけない。流石に命知らずである。そんなことをした日には空き巣が入り放題なのだ。いくら鍵を変えても、犯罪者たちは犯罪のスペシャリストばかりだ。探偵なんてしていられないほど事務所はすぐめちゃくちゃになる。
だから新米探偵が探偵事務所を建てるのは、中心街に近い位置に限るのだ。

それに習ってアーティも中心街に出来るだけ近く、金銭的にも厳しくない位置に事務所を構えた。その結果が、「アーティの探偵事務所には依頼らしい依頼が来たことが無い」ということである。

まず、周囲の家に住むのはしわくちゃの高齢者ばかりであった。彼らはとても温和でアーティ、ニコラス、どちらにも暖かく接する。そして依頼もしてくる。だが、その依頼が問題なのである。
彼らの依頼する内容といえば「庭の雑草を抜いて欲しい」だの、「洗濯物を取り込む手伝いをして欲しい」だの、「夕食を買ってきて欲しい」…といった依頼ばかりなのである。老人たちは自分らを便利屋と勘違いしているに違いない。ニコラスはそう思った。
それでも依頼が無ければ探偵事務所を継続することが出来ないのは確かであるし、何事も経験を積むべきであるという考えもある。(しかし、果たして、この経験は役に立つだろうか?)という訳でアーティはそれらの依頼を受けて日々を過ごしていた。

事務所に来る依頼など限られているのだ。つまり、カメリアの事件と出会う事などないだろう。




その日もニコラスは仕事終わりにアーティの事務所へ出向いた。ニコラスが事務所に行く時は、必ず赤いリボンが取っ手の紙袋を持っている。両親のせいだった。事務所へ行くと言えばすぐに差し入れだのと騒ぐので、余っているパンと時にはドリンクも紙袋に入れる。それを手にニコラスは事務所へ向かっていた。

目的地まで残り6分、といった所で住宅街の角を曲がれば、ココ最近で漸く視界に馴染んだ姿が目に入った。亜麻色の少女が芝生の上にしゃがみこんでいる。
「君」
思わず声をかければ、少女は振り向いた。髪が束になって揺れたのは、ひとつに括っているからであろう。
「ニコラスさん、こんにちは」
「こんな所で、何を?」
「芝生の手入れを」
「依頼か」
問いたニコラスに対し、アーティは頷いてから「はい」と返事をした。その場に立ち上がって、雑草の詰まったビニール袋の口を結ぶ。「丁度良かったです、今終わったところだったから」そう言って陽だまりのような微笑みを向けるアーティに、頷いたニコラスは家の方へと目を逸らした。

「次の依頼は?」
「今日はもうありません」
「ならあとは帰るだけか、…それ、貸して」
「ー、いえ!雑草しか入っていませんから」
「そう」
「はい。その、今日も持ってきてくださったんですね」
「マア、うん。…ああ、そうだ。この間君が」

ニコラスはアーティに向けて話を続けようとした。しかし、次の瞬間二人に向けて大きな何かが突っ込んでくる。一瞬驚いて硬直した二人だったが、間も無くニコラスはアーティの手を掴んで乱暴に引く。そうして背後を風と共に通り過ぎて行ったのは、カラスのように真っ黒な自転車だった。

「っおい、」ニコラスが自転車の方へ刺すような鋭い視線を向ければ、自転車はその場で止まった。鳥を締めたかのようなブレーキ音は、耳を劈くようだった。アーティは肩を強張らせる。自転車に乗っていた少年は気だるそうに振り返った。
「何ですか?」
「態とだろ」
「いえ、別に」
「嘘を吐くな」
「人の家の敷地に入る人が悪いのではないですか?」
明らかに悪意を持って突っ込んできたのであろう自転車の主は、アーティよりも幾らか歳が下に見える。見るからに生意気な少年だった。苛立って顔を顰めるニコラス、嫌な顔で口角を上げる少年。アーティは止めなければと思いつつも、たじろいた。

「ああ、もしかして祖父が依頼した雑用さんですか」
「…」
「失敬!雑用さんではなく、雑務しか出来ない探偵さんでしたね」
ひくりと息が詰まる。アーティはぱっと頭が真っ白になるのを感じた。探偵という存在への悪意を感じ、冷えゆく指先をきゅっと握りしめる。ニコラスは言葉に酷く顔を顰めたが、特に反論をすることはなかった。もし探偵がアーティでなければ、自身も実に稚拙な失言をしていたかもしれないと思ったからだ。

「ハ、若い探偵は大変だ!探偵に生まれなくて…」
少年はそこまで続けて、ぱっと顔色を変えた。振り返っていた体を正面に戻し、自転車のペダルに足を置く。
ニコラスとアーティの背後から人が現れたのだ。
その人物が「コラ!」と大声をあげると、脱兎のごとく少年は逃げ出してしまう。
「探偵さん、失礼いたしました」
そこにいたのは頭と髭が白く、武張った姿の老人だ。表情が険しく、勇ましい見た目をしている。一目で少年が逃げ出した理由が分かる。

「いえ」
「試験が近付いているようでして、何かにつけて当たっているようです。とはいえとんだご無礼を…叱っておきますので」
「僕は構いませんので」
「感謝します。こちら、報酬の」
「はい、…確かに」
「それでは探偵のお嬢さん、雑草はお預かりしましょう」
彫りの深い顔の、猛禽類のような鋭い瞳がアーティを見つめた。ニコラスが軽く肩をたたけば、アーティは今しがた眠りから覚めたかのように慌てて頭を下げたのであった。




「彼は?」
「トムさんです、トム・ガーディナーさん。普段から依頼してくれる方で」
「じゃあ、子供は」
「エヴァン君…?だったかな。話には聞いたことがあったけれど、初めて会ったので…」
「そう」
日が傾き出し、空に薄紫がかかる。周囲の家々に燦爛と灯がともり、冷えた風が頬を撫でた。隣を歩く少女の白皙の肌に、茜色が柔らかく乗っている。
二人はとてつもなく気まずさを感じている。
アーティは間違いなく落ち込んでいるし、ニコラスはその少女に対しどうすべきかを考えていた。ニコラスがこの世で一番得意でないものは、間違いなく自身の兄である。然し二番目に探偵、三番目に探偵を愛する人間たちと来る。そんなニコラスが探偵のアーティにかけられる言葉など、簡単には思い付かなかった。探偵を思いやったことがないからである。探偵の気持ちが分からないからである。
事務所まであと4分ほどある。早くたどり着いて机に紙袋を置いて、いつも通り逃げるように帰ることをニコラスは想像した。流石に良くないことだろうが。

「ニコラスさんは、この活動をどうお思いですか」
「この活動っては」
「依頼です」
「仕方がないんじゃないか」
「そうですよね…」
アーティは肩を落とした。
「どうせ今すぐに解決できるようなことじゃないだろう」
「ええ、…はい」

思い付きのように事務所の位置を移動するようなことは、金銭的に厳しいだろう。それに、今の位置で十分だとも思う。アーティのような華奢な少女にはこの街はあまりにも危険だ。あまりにも若い探偵であるアーティへの風当たりは厳しいだろうが、それでも身体への危険がなく、今の平和なままで過ごせるならそれに越したことはないだろう。ニコラスはそう思った。
それは、アーティという少女をあまり探偵として見ていない故に生じた考えである。その人間がどんな性格をしていようとも、根本的にはdetectiveであり、深層では謎を解くことを求めている。ニコラスはそれを知らない。

アーティという少女は探偵という肩書きを持ってはいるが、実際こんなにも探偵らしくないのだ。隣を歩いていれば大人しく隣を歩くし、トラブルを見つけた途端解決せねばと走り出すことも無い。しっかりと人の意思を配慮した上で発言することが出来るし、もう、いっそアーティは探偵ではないのかもしれない。
「…直に転機が訪れるさ、食事に困ったら差し入れもしてあげるよ」
だからニコラスは、"一般人の少女"に向けるように優しい言葉をかけてやった。おどけるように肩を竦めて、小首を傾げる。紙袋をいつものように一度持ち上げれば、アーティはそれを見てじんわりと頬を緩めた。自分を元気付けようとしているのだろうとすぐに分かった。

ニコラスがカメリアの事件の対策会議で、探偵に対して酷く悪態をついていたのが記憶にある。アーティはニコラスが探偵を好んでいないことにすぐ気が付いた。含む感情は違えど、探偵を見る鋭い瞳が両親に似ていたからだ。だから今回のことを通して不安になった。自身(探偵)と一括りに馬鹿にされてしまったから、彼が離れていってしまうのではないかと。
然しニコラスは冗談めかしてアーティを元気づけた。だからアーティは少しだけ安心した。それが探偵に向けた言葉でないことに気付かずに、探偵、アーティ・ルイスに向けられた言葉であると勘違いして安心したのだった。


*



_と、まあ。二人の機嫌も落ち着き、事務所に辿り着く。このままいつも通り差し入れを出して軽く依頼確認をして本日を終える。その筈だった。軽く精神的に疲弊した二人にとっては、それでよかった。

しかし、突然の来客者によってニコラスの気分は急降下することとなる。



「君、誰か来ている」
ニコラスはカーテンの隙間から外を見て言った。アーティはそれにぱちりと瞬きをした後に、同じく窓から覗く。長身で細身の男性が事務所へ一直線に歩いているのが見えた。年齢としては、この事務所近辺に住んでいる高齢者とそこまで差異は無いように見える。しかし、胸元で艷めくループタイや、見るからにハイブランドそうな腕時計から、ここらに住んでいる平々凡々な高齢者ではないことが伺えた。

「なんの用事だろう…」
「ここらであんなに見せびらかすような格好をしているやつは、どうせろくな奴じゃない」
「ハハ、確かにあまり見ないですね」
「席に着こう」

アーティは定位置につき、ニコラスは棚の奥から綺麗なティーカップとソーサーを取り出す。
二度ノックの音が響けば、ドアのベルが調子良く鳴り出した。ドアの向こうから現れたのは、先程ガラス越しに見た男性だ。ニコラスと比べてもいくらか背が高い。「失礼、アーティさんの探偵事務所は此方で宜しいでしょうか?」
「はい、私がアーティです。どうぞ此方へ」

ニコラスは客人の側まで行って、帽子と上着を受け取る。薄い素材ではあったが、どうもしっかりしている。やはりこの辺に住んでいるような人物ではないだろう。そっとポールハンガーに掛けた。
「やあ、失礼致します。すてきな事務所ですね」
客人は事務所を一度見回してから席に着いた。裏のない朗らかな笑顔である。アーティは緊張していたが、その言葉に嬉しそうに頬を緩めた。

「どうも。御依頼ですか?」
「ええ、ええ、その通りで御座います。私はセドリック・キプリングと申します。アンガス学寮をご存知ですか」
「勿論です、デロニカでは有名な…」
「ええ!ありがとうございます。私はその学寮で講師を務めております」
「それで、どうなさったのですか?」
「その学寮で非常に困った事件が起こったのです。ーああ、お気遣いありがとうございます。非常に香りが良いですね、珈琲をいれるのがお上手ですな」

ニコラスはセドリックとアーティの前にそれぞれコーヒーを出したが、その言葉に手を止める。足元から嫌な予感が這い上がってくるのを感じた。
「…いえ、どうも」
事件に関わり、アーティがただの少女でなく、探偵になる事に対してでもあっただろう。しかし、何故新人探偵に、小さな事務所にわざわざ依頼に来たのだろうか。
疑念が募り、ニコラスは書類を片付けるふりをしながら話を聞いた。

「依頼の内容を教えて頂いても宜しいでしょうか」
「勿論で御座います!興味を持って頂けて良かった!」
極めて明るい表情をしたセドリックであったが、次にはそうっと目を細めて笑った。
「然しこの事件は大騒ぎにならない事が最も重要なのです、どうか警察には内密に宜しくお願いします」
「それは、」
アーティは言葉に詰まる。なるほど、とニコラスは思う。
つまりセドリックは探偵がアーティだからこそ、この事務所に依頼に来たのであろう。逆にアーティでなければこの依頼はしなかった。

アーティはヒメリンゴの蕾のような、愛らしい少女である。すらりとした華奢な手足に指通りの良さそうな細い髪の毛。探偵と呼ぶにしてはあまりにも若々しく、更に一般人と差異のない穏やかな少女だ。そう、探偵に見えないという言葉かピタリとあてはまるだろう。ニコラスがアーティと初めて出会った時もそうだった。自身のワトソンとしての勘を疑うほどに、アーティは探偵らしくない。

探偵といえば、それぞれが酷く個性的であり、時に専横的だ。一般人からしてみれば、扱いきれないという印象が強いのでは無いだろうか。然しアーティはどうだ、探偵らしさは欠けているし、大人しく言われた事を素直に聞く。セドリックはそんなアーティであれば「警察には内密に事件を解決してくれる」と、踏んでこの事務所に訪ねてきたに違いない。
それに裏打ちするかのようにセドリックはまくし立てた。

「学寮の名誉の為です。お願い出来ませんか、アーティさん」
「私共の事を救えるのはただ貴方だけです」
「悪い話では無い筈です、貴方は普段から依頼の内容に困っている。私が事件を依頼し、貴方はその代わり警察には内密にしておく。どうでしょうか?」
少し前のめりに話すセドリックに、アーティは段々と表情を曇らせた。見かねたニコラスはそっとセドリックの側へ寄り、肩を叩く。
「セドリックさん」
「おや、失礼致しました」

すん、とセドリックは落ち着いて座り直す。
「彼女の事は、何処から知ったのですか」
「トムという男性からですよ」
「トムさん?」
「ええ、彼は貴方にいつもたわい無い依頼をして申し訳ないと言っておりました」
「成程、それで」
「それで?」
「いえ」

依頼の内容に困っていることや、彼女がこのような少女であることはきっとトムから聞いたに違いない。ニコラスはアーティに目を向けたが、アーティは悩んでいる様子であった。
先日カメリアの会議をしたばかりである。もしカメリアが関わっているとして、それ警察には秘密にするなど新人探偵としてすべき事では無い。
「事件現場の様子についてひとつ尋ねても?」
ニコラスは探りを入れることにした。セドリックは小首を傾げてニコラスを見る。
「おや、受けて頂けますかな」
「いえ、そうでなく。現場に植物はありますか?」
「植物ですか?…いえ…。特に花を飾っている訳でもありませんし」
「花が落ちているとかは」
「無いですな、なぜそのようなことを?」
「…少々花粉に弱くて」
「ははあ、成程」

適当な理由をつけたが、セドリックは疑う様子は無く素直に反応を示した。とりあえずカメリアが関係していないと感じたアーティは、ひとつ頷いてセドリックの方を見た。
「ひとまず分かりました、まずは話を聞かせてください。できる限りご協力すると約束します」
「そう言ってくださると思っていました!感謝致します!」



セドリックは事件のことを語り始めた。

「まず、明後日は学寮で奨学金試験があります。私はその試験の試験官の一人であり、ギリシャ語の担当をしております。試験用紙の最初には志願者の読んだことがない、長い訳文の一節が含まれています。これを解くことが出来ればかなり有利になるでしょう。という訳で、私は試験用紙が外部に漏れることが無いように用心しておりました

今日の三時頃、この試験用紙の校正刷りが印刷所から届きました。課題はある物語の半章で成り立っていますので、文章が正確でなければなりません。つまり私は、それを慎重に読む必要がありました。四時半になってもその仕事は終わっていませんでした。しかし私は友人の部屋でお茶を飲む約束がありましたので、校正刷りを机の上に置いて出掛けました。

私達の寮の扉は、二重になっております。内側が布張りの扉で、外は木製です。そして私が出掛けてから一時間ほどたって寮に帰ってきた時、なんと外側の扉に鍵が刺さっていたのです!
私は自身が鍵を抜き忘れたのではないかと思いましたが、ポケットにしっかりと鍵があるのを確認しました。私のでないのならば、それは使用人の鍵なのです。私の知る限りでは使用人しか合鍵を持っておりませんので。

使用人の名はザカリーと言います。彼は私の部屋を十年間にわたってしっかりと管理してきた男で、とても誠実な男です。その鍵はザカリーのものだと分かりました。
彼は私にお茶を飲みたいか確認する為に部屋に入っていましたが、うかつにも出ていく時に扉から鍵を抜くのを忘れていたのです。彼が私の部屋に来たのは、私が友人の元へと出掛けて数分後のことだったでしょう。

鍵の抜き忘れが他の日であれば、殆ど問題にはならなかったでしょう。しかし、アーティさん。
最初にも申し上げましたが、明後日は試験があるのです。つまりこの日であった為にそれは最悪の事態を巻き起こしました」


アーティは暫くコーヒーの水面を見つめながら話を聞いていたが、その言葉を聞くなりセドリックと目を合わせるように顔を上げた。事件の予感を感じたのだろうか。とても真剣な顔付きであった。暗くなりつつある部屋の中では、その瞳が、燃えるように鋭く輝いているように見える。

ニコラスは、その少女が酷く探偵らしく見えた。探偵らしいと言うより、それが探偵の本質なのだろうけれど。探偵とは自分にとって憎い存在であったはずだが、ニコラスは何故だかアーティの傍に立っていなければならない、という気持ちであった。これがDWの結び付きから生まれる感情なら、なんてひどい結び付きなのだろう。胸に蟠りが生まれるような感じがする。納得出来ないと何処かで抗議しつつも、彼女の傍に居ねばならないという気持ちがせめぎ合う。

セドリックはそれまで少女を侮っていたが、その瞳を見て少しだけたじろいた。


「ーああ、失礼。続けます。…慌てて部屋に戻り机を見ると、そこは明らかに何者かによって荒らされておりました。書類が引っ掻き回されていたのです。校正刷りは三枚あり、それをまとめて置いた筈でしたが、その時一枚は床に、また一枚は窓辺のサイドテーブルに、そして最後の一枚は私が最初に置いてあった場所にありました」

「…それは、床にあった紙が最初のページで、窓辺が次のページ。元の位置にあったものが三枚目ですか?」

「まさか。その通りです、何故?」

「いえ、続けて下さい」

「はあ。私は初めにザカリーが書類を散らかしたのかと疑ったのですが、彼はそれを必死に否定しました。それはもう血眼になる勢いでしたので、私は彼がやった訳では無いと確信しました。もとより彼は私に忠実であり、誠実な男です。そこまで否定されてしまえば信用する他ありません。そうなると残るは通りかかった誰かが、扉に鍵が刺さっているのを見て私が外出していることを知り、試験用紙を見るために入って来たということになります。

奨学金は非常に高額なものですので、他のものより有利な立場に立つためなら、と危険を冒す可能性は十分にあるでしょう。ザカリーはこの事件で非常に動揺し、書類が間違いなく触られたとわかった時、気絶せんばかりでした。彼が完全に意気消沈している間に、私は入念に部屋を調べました。そうすれば、すぐに侵入者の痕跡を見つけることが出来たのです。

それは窓辺のサイドテーブルにありました。サイドテーブルには、いくつも鉛筆を削った屑があったのです。更にそこには折れた芯も落ちていたのです」


「成程、侵入者は試験用紙を書き写したのですね」
非常に気持ちよく納得したような様子でアーティは言った。確かに、それが自然な考察だろうとニコラスも思う。

「ええ、その通りです。慌てて書き写した故に鉛筆の芯を折り、先を尖らせるために削ったのでしょう
それだけではありません。私の机は綺麗な表面の革張りの机でした。私はその机を気に入っておりましたので、机には傷も汚れもありません。ザカリーも証明してくれるでしょう。しかし、そんな机に切り傷を見つけました。8cm近い長さの綺麗な切り口です。更に、机の上には小さな黒いかたまりが落ちており、その中にぽつぽつとおが屑のように見えるものが混ざっておりました。

私はそれらが侵入者の残した痕跡であると確信を持っています。しかしながら、人物を特定出来る痕跡はありません。私はすっかり困窮しましたが、そこでトムに聞いたアーティさんのことを思い出したのです。だから私はこの事務所へと真っ直ぐ向かってきました。

どうかご協力下さい、アーティさん。窮地なのです。犯人を見つけることが出来なければ、私は試験の問題を改めて準備せねばなりません。そうすれば自体を説明せねばならない状況になるでしょうし、きっと恐ろしい不祥事としてスキャンダルとなるでしょう。ですので、何事にも増して内密に、表沙汰にならぬようご配慮の上解決して頂きたいのです」


そこまで聞いたアーティは、丸い瞳を何度か瞬かせた。そして首元に手をやって、少しの間カップの中身を見つめていた。
「難しい問題だとは承知の上です。どうか、どうかご助力を」
最後のひと押しをするようにセドリックは頭を下げた。
アーティは手を膝の上へ戻す。自身を落ち着かせるような仕草で小さく呼吸をすれば、頷いた。爛々と煌めく赤い瞳は、まるでガーネットのような力強さを秘めていた。

「引き受けましょう」

斯くして、アーティ・ルイスという探偵の、デロニカでの初仕事が幕を開けたのである。



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