寒々に雨圖






いいかい、助手くん。人の性格っていうのは、良く顔に出るものだ。勿論、全ての人間に言えることという訳ではないけれど、性格は顔に大いに影響を及ぼすんだよ。人は見た目で判断してはいけないとも言うけれど、見た目も重視するべきだ。君は_マア、人畜無害そうとでも言っておこうかな!
それはさておき、さっき訪ねてきた女性のことを思い出そう。彼女はこう言った。

「あの男が悪いのよ。私は彼を思って毎日欠かすことなく家で朝食と夕食を3年間作り続けていたのに、献身的に奉仕し続けたのに、彼はそんな私を影で笑っていたんだわ。彼は私を裏切った。仕事と言いながら、白昼堂々知らない女と寝ていたのよ!その上指摘すれば逆上して私のことを殺そうとしてきたの。ねえ、お願い探偵さん。あいつを何とかしなければ、私は殺されてしまうわ…」

彼女はとても悲痛そうな顔をして僕らに縋る。お人好しの君は、さめざめと泣く彼女に優しく手を差し伸べたね。同情してしまって。しかし。

「なるほど。それでは質問だけど、献身的の意味は分かる?」
「?はあ、ええ、わかりますとも…」
「それじゃあ僕が分かるように説明して欲しいな」
「…心身ともに他人に捧げること、尽くすことでしょう?その言葉通り、私は毎日彼の世話を笑顔で、丁寧に、細心に行っていたわ」
「ふむふむ、なるほど?おかしいな…それは僕の知っている献身的と同じ意味合いだけれど、あなたは彼に対して随分と高圧的な態度で奉仕していたんだね」

僕がこの言葉を投げかけた時の彼女の表情の変わりようと言ったら、笑ってしまうくらい凄かったね。キツネみたいにツンと目を釣りあげて、口を思い切りへの字にまげてさ。「失礼な!」と。でも僕は思うんだよね。失礼なのは僕じゃなくて僕にそんな依頼を持ってきた自分だよね、って。君もあの人の方が失礼だったと思わない?

「失礼も何も、ありもしない事件の依頼を受けようとは思わないさ」
それを聞くなり彼女は颯爽と出ていってしまったね。どこからどう見ても稚拙な虚構話だったけれど、バレない自信でもあったのかな。

それじゃあ彼女の顔の話をするけど、あれは紛れもなく下衆な性格が表れた顔だったね。
一番分かりやすかったのは口元。閉じた時の口角がへの字のように垂れ下がっていたし、逆に作り笑いした時に口元にひどくシワが寄っていた。口元って言うのは動きが多くて脂肪が多いから、シワができやすいんだよ。と言ってもあれは異常だね、シワがとても深かったものだから、どう考えても普段から暗い顔ばかりしているのだろう。
目付きだって悪かった。ナイフみたいに尖っていて、キツネみたいに細っこい。常に見下すように顎を少し上げて会話する。きっと常に誰に対してもそんな態度をしているんだろうさ。笑顔にも違和感があった、目尻の下がらない下手な作り笑顔だった。

ちなみに言うと、彼女は顔の歪みがあって顔の左右の歪みが気になる顔をしていただろう。あれはね、彼女が基本的には直感で行動する、悪くいえば考えて行動することを基本としない右脳派だからだよ。彼女の左目が大きかったのはまず右脳派の特徴だろう。右脳というのは直感や知覚、感情を司るものさ。逆に言えば左脳は理性や思考、といったものを司っている。だから右脳派の彼女の顔の左側は、彼女が直感的に行動して周りに酷い態度をとっていたのだろうと想像出来る表情がくっきりと刻まれていたんだ。笑顔を作った時に歪になる左側は、笑顔に慣れていないのが顕著に現れていたのさ。鋭い目、垂れ下がる口角、下がらない目尻、と言った特徴とも相まってね。
言葉と顔の様子が全く合わないものだから、思わず笑ってしまいそうだったよ!目は口ほどに物を言うと言うが、目どころか顔全体で物語っていたね。

凡そ、有り得たとしても献身的な態度だったのは彼女の彼の方だろうし、彼女はいつも彼を見下していたに違いないさ。依頼内容については僕らの預かり知らないことだよ。痴情のもつれほど面倒くさいことは無い。全く、よく探偵に頼ろうと思ったね。他の探偵のことは知らないけれど、こんな依頼を受けようとする探偵なんていないだろう。警察には既に断られただろうね。きっと僕じゃなくても断るし、流石に助手君も断るよね?…もういいや、ところでさ。


__一頻り語ったサミュエルはその会話の興味を失い、細い枝を折るかのような勢いで次の話題へと移行した。それに対しマーリンは数度瞬きをして驚いたような様子を見せたが、直ぐに次の話題の対応をした。手元には空になったティーカップ。それにまた紅茶を注げば、白魚のように細く白い手がひょろりと伸びてきた。ティーカップを攫い、元の位置へと戻っていく。

「この前ペリー…、ペイリー?ペンリー?さんから貰ったって言ってたアールグレイは?」
「ペイリーさんだね。あるよ、それをいれようか」
「ペイリーさんか。うん、それがいい」

マーリンが脳裏に浮かべたのは、赫灼とした老婦の姿である。ペイリーという人物は、長毛猫のような柔らかい白髪頭の女性だ。自宅の近所でよく見かける人物であり、その度に人懐っこく話しかけてくれる愛らしい老婦なのだ。
そしてそのペイリーから贈られたアールグレイと言うのが、マーリンが手助けをした際のお礼という形で受け取った茶葉だった。
その小さな体には大きすぎる程の荷物を1人で抱えているペイリーを見た時、思わずマーリンは瞠目した。直ぐに駆け寄り大きな箱を支える。そのまま家まで運ぶのを手伝った後に、必死に礼をされながら渡されたものが茶葉だったのだ。

因みに後に聞いた話によると、その時運んでいたのは孫への贈り物だったらしい。とびきり大きなテディベアを愛孫に贈るのだ、とペイリーは頬を弛めた。なだらかなカーブの優しい目尻がきゅっと細まり、元より弧を描いていた柔らかい口角がふんわりと持ち上がる。春陽のような笑顔だった。

マーリンはその笑顔に少しだけ自分の記憶を重ねてしまったので、その出来事は酷く印象に残った。
その次の日事務所でサミュエルとの閑談にその話題を出してしまったのは、それが原因だろう。強く印象に残ったからふと思い出して話した。ただそれだけ。

そんな中身のない(サミュエルにとって)どうでも良い話であった筈のペイリーのことを、サミュエルが覚えていたのはある意味予想外であった。彼は自由気まま、興味の向くままに行動する性格である。その上、気が向かなければとことんどうでも良い男であった。何の変哲もない話題であったのに、どこかにサミュエルの気の引かれる要素でもあったのだろうか。マーリンはその要素について少し考えたが、すぐにやめた。マーリンの想定できる話では無いからである。探偵とは、この世の全てとそもそもが違う、それで全て片付いてしまう。だからマーリンは直ぐに考えるのをやめて、手元に集中することにした。

コンロのスイッチを回して点火すれば、水を入れたケトルをそこに置いた。新しく取り出したポットとカップを温めた後に、茶葉をポットに入れる。細かい茶葉をティースプーンに掬って、中盛りくらいでポットの底へと落とした。そうして上からとケトルを覗き込めば、丁度沸騰しているのが見える。湿った熱い空気を顔に浴びて髪の毛の毛先が頬に張り付く。それを剥がす為に顔に触れればぺたぺたと指先が肌に張り付くので、少しだけ嫌な気持ちになった。しかしまあ、リーフティをいれるのも慣れたものである。元よりとても下手という訳ではなかったものの、サミュエルの助手として依頼者に茶を出す、またサミュエルに茶を出す事によって随分と技術が磨かれた気がする。今なら紅茶のゴールデンルールも完璧なのでは無いだろうか。

そうして茶葉を蒸らす段階まで来た時、手元に暇が出来たマーリンはふと、気付けば大人しくなった探偵を見た。
デスクの上で何かを弄んでいる。目を凝らせば、木彫りの熊の置き物らしかった。精巧に彫られた模様のある背中がゆらゆらと傾いて、デスクの上に置かれる。また、掴まれる。サミュエル自身といえば、お人形遊びのように置き物を弄びつつもその行動に特に意味など無さそうだった。目線はデスクの上に散らばった書類に向いているのか、はたまた置き物を見つめているのか分からないほどに適当な仕草をしていたからだ。何を考えているのだろうか。何も考えていないのだろうか。

こう見詰めていると、そもそも、そこに居る彼自身がお人形になってしまったかのようだ。
人を寄せつけないベルベットの滑らかな髪。ひとつにまとめて括られた部分は、少し動く度に柔らかく波打って揺れた。うっとりする程に長い睫毛は蝶が羽を畳むようにしなやかに伏せられ、冷えた硝子玉のように瞳が煌めく。背を折り曲げて猫背にしていようとも、それを含め彼がひとつの作品であり、そこに新たな世界観をひとつ展開しているかのようだった。もしサミュエルが本当にドールであるのならば、きっと世界が傾く程に値の張るドールなのだろう。あくまで客観的な話だが。

「リンリン、その茶葉は随分と蒸らす必要があるんだねえ」
「…茶葉が大きかったからね、もう出来るよ」
「ふうん。あと、見詰められすぎて穴が空いちゃうと思ったな」
「別にいいじゃん、穴の一つや二つくらい」
「ええ、よくないよ」
少し蒸らしすぎたポットの蓋をあけて、スプーンで中身をひと混ぜした。涼しいベルガモットの香りがする。茶漉しで茶殻をこしながら、マーリンは続けた。
「エル。キミが他人のことを、何気ない会話の中の人物を覚えているのが珍しいと思ったんだ」
「ああ」
サミュエルはわざとらしく片眉を上げて見せたが、その胸の内が明かされること無く会話は終了した。マーリンはそれを気まぐれなのだろうと推測したけれど、その実、サミュエルはマーリンがそれを珍しい表情で語っていた事だったから、ほんの少し記憶の片隅に置いていたのだ。まあ、ほんの少しだけだけど。


*



次の夜のことだ。
窓の向こう、帳が降りるように黒く湿った空が雨の予感を示していた。これでもかという程に憂鬱を詰め込んだような空に、窓の下、街ゆく人々の表情は暗い。街頭の光すらも元気を無くして、普段のデロニカなど見る影もなかった。
それを窓から眺めていたマーリンは、これから帰宅する予定であったが、外に出る気がすっかり削がれてしまう。内心頭を抱えて、誤魔化すように事務所の内装を眺めた。
シャビーテイストなアイアンラック、シンプルだが時計の針がやけに眩い壁掛け時計。足元にあると言うのに存在感を放つ絨毯は、落ち着いた色と柄のもの。部屋の家具自体は高級感に溢れて統一性がある。が、そこら中に点在する雑貨は部屋の雰囲気と混ざり、異様な世界観を縁どっていた。
ラックの上に並ぶ木彫りの置物たちは、たまになにかの民族のような特有の色をしている。形容しがたい壁飾り、馴染みのない言語の本の山。軽い現実逃避のために目を向けただけであったが、そのまま見つめていると別の世界へ誘われてしまいそうだ。

そうこうしている内に空は遂に泣き出した。窓ガラスを軽くぱちぱちと叩き、段々と勢いを増していく。
「雨降って来たね」
「うん、どんどん強くなってるみたいだ」
「しばらくここに居たら?」
「じゃあお言葉に甘えて」
マーリンはその通りにする事にした。最近はつけることが無かったのに、急に冷え込んだせいで暖炉に火が灯っていた。暖炉の前でサミュエルはロッキングチェアで揺れている。それを見て、マーリンも遠慮することなく暖炉の傍の椅子に腰をかけた。冷えた指先にじわりと熱が広がる。

外で風に吹かれてなにかが転がったのか、戛然と硬い響きが聞こえる。かつん、かつん、かつん、それが段々と大きく響いて聞こえて、そこでようやく気付く。来客である。マンションの廊下を歩く、硬い靴裏の足音だったのだ。
マーリンはすぐに準備を始めた。薄手のタオルを取りに行き、玄関ホールの照明をオンにした。ケトルに水を入れて火にかける。そうして扉が控えめなノックの後に開かれた時、靴音の主が現れた。

「し、失礼します、こんばんは。探偵さんはいますか」
気が弱そうな細身の男。アクアスキュータムの防水コートを身にまとい、玄関のマットに水を垂らしながら問うた。
「やあ!こんばんは。如何にも、僕が探偵のシャムロックさ。何の用事かな」
サミュエルのその言葉に、男は少し顔を顰めた。不快感を覚えたような表情ではない。物寂しそうな顰めっ面だった。おや、とサミュエルは首をかたむけたが、一方マーリンはこの男に見覚えがあった。
「刑事さん、ですよね。会議の時に端に居た…」
「ああ!仰る通りです。自己紹介が遅れてしまい申し訳ありません…、私はウィズリーと申します」
「会議?…、あ!そういえば窓の傍に立っていたね。これは失礼」
思っていないにも程がある、とウィズリーは乾いた笑いを零した。マーリンはウィズリーのコートと帽子を受け取る。サミュエルの案内により暖炉前の椅子に座ったウィズリーは、緊張したように肩を竦めた。調度品、家具、雑貨、全てが高級品だと言うのは見て取れる。今自分が座っている椅子だって相当の物の筈だ、と。

「ええと、今回は依頼したい内容があって来ました」
「なるほど、こんな天気の中で来たのだからよっぽどの事なんだろうね」
「ええ、その通りです。私は昼前から捜査をしていましたが、七時に調査を終えてから真っ直ぐここへ来ました」
「ということは、君はその事件を解決し切れなかった訳だ」
「はい、全くお手上げです。最初は非常に単純で、上手く行かないはずはないように思えたのですが、現時点ではかなりややこしい事件となってしまいました」
ウィズリーはすっかり困窮した様子で言った。俯いた深緑の瞳の下に、うっすらと隈が出来ている。

「ウィズリーさん。今回僕らの所へ来たと言うことはつまり、カメリアに関係のある話なんですか?」
「確証はありません…。しかし、会議以降カメリアの事件の発生率が高くなっています。上層部は今回の事件もカメリアに関係していると踏んでいるようで、警察の意向としてはこの事件を、カメリアに関するものとして捜査したいようです」
「現場に花があったのを見つけた訳では無いんだ」
「申し訳ないことに、そうなのです…」
マーリンは暖炉の前の二人にマグカップを渡した。ウィズリーは、飴色の水面に映る自分の瞳を虚ろに眺める。
「まあ、とりあえず事件の概要を教えてよ」
「わかりました。…それでは順を追ってご説明します」



「先程申し上げた通り、ややこしい事件なのです。それは殺人事件でした。しかし動機がつかめません。ここに殺された男がいる、それは間違いありません。しかし、調査した限りでは誰かがこの男に危害を加えたいと思う理由がないのです。

事件の状況はこうです。数年前、オフィリア・パレスという邸宅を一人の老人が入手しました。デロニカの中心街に近い、北の住宅街にある邸宅です。購入者はハドリー教授と名乗っています。
教授は病気に臥せっていました。一日の半分は寝たきりで、残りの半分は家の周りを杖を突いて散歩するか、車椅子に座って庭の中を庭師に押してもらうかです。その為に余り人付き合いは盛んではありませんでした。それでも数人の住民とは良好な関係を築いており、家を訪問する近所の人間はごくわずかですが、会った人たちは教授に好感を持っていました。学者としても優れていたので、彼は近辺では非常に博識な人物という評判でした。

家に住み込んでいるのは、年配の家政婦のクリスティーナ夫人と、メイドのローズ・スタレットでした。二人は教授が来た時以来ずっと一緒に暮らしています。どちらも、素晴らしく人のいい人物のようです。

教授は学術書を執筆していて、一年程前に秘書を雇うことにしました。一人目、二人目の人物は、あまり役にたちませんでした。…すぐに解雇されましたので。
しかし三人目のジョッシュ・プール氏は、大学を卒業したばかりで非常に若いにも関わらず、教授の望みどおりの人物だったようです。彼の仕事の内容は、午前中は教授の口述筆記で、夜はたいてい、次の日の仕事に関係する参考文献や用例を探すのに時間を費やしていました。
ジョッシュ・プールは昔から礼儀正しく物静かで勤勉な人物のようです。問題点は全くありません。それなのにこの人物が、教授の書斎で今朝、殺されたとしか思えない状況下で死を迎えたのです」

ウィズリーは、たどたどしく、もたつきながらも手元の紙を見ながら話した。マーリンは二人から離れた位置でポットを片付けていたが、ちらりとウィズリーの手元を覗く。紙面には気弱そうな文字が並んでいる。重要な部分を掻い摘んでメモしてあるらしく、単語や千切れた文言がパズルのように散りばめられていた。単純にメモをするのが下手なのかもしれない、とも感じた。

「あれ以上自己充足的で、外部と隔絶した家庭は見つからないでしょう。誰も家の門をくぐらないまま、何週間も経っていたという事さえ有り得ます。
教授は仕事に打ち込んでおり、ジョッシュ青年は近所に知り合いがおらず、教授と似たような生活をしています。
二人の女性が家の外に出る用事は何もありませんでした。
普段車椅子を押している庭師のデリック・マクファーレンは、かつては戦争に参加していた老人で、素晴らしい性格の人物です。彼は屋敷の中には住んでおらず、庭の反対側にある小屋で生活しています。
オフィリア・パレスの敷地の中にはこれだけの人間しかいません。しかし、庭の門は掛け金を外せば開きますので、誰でも見咎められることなく入る事ができます」


近くに地下鉄がありますので、本当に、誰でも。と、ウィズリーは補足した。


「ここで、メイドのローズの証言をお話します。この事件ではっきりした証言ができるのは彼女だけです。
午前十一時から十二時にかけてのことでした。彼女は上の階の正面の寝室でカーテンをかけていました。教授はまだベッドの中です。家政婦は家の裏で何か仕事に没頭していました。ジョッシュ青年は自分の寝室にいました。彼はそこを居間として使っていました。しかしメイドはその時、すぐ真下の廊下を通って彼が書斎に下りていく音を耳にしました。
彼女はその姿を見ていませんが、彼の早足でしっかりした足取りは聞き違えるはずがないと言っています。

彼女は書斎の扉が閉まる音は聞いていませんでしたが、一分くらいして下の部屋から叫び声がしました。荒いしわがれた叫びで、男の声とも女の声ともつかないものでした。同時に、重いドサッという音も聞こえました。そしてその後、完全に静かになりました。メイドはしばらく固まっていましたが、勇気を出して彼女は階下に走って行きました。

書斎の扉は閉まっていて彼女がそれを開けました。中でジョッシュ青年が床に横たわっていました。重い音の原因は恐らくそれだろうとすぐに気付きます。彼を起こそうとした時、首の後ろから血が吹き出ているのが見えました。
…それは小さいが非常に深い刺し傷で、検査の結果頚動脈が切断されていたのです。その傷をつけた凶器が彼の側のカーペットの上に落ちていました。それは小さなペーパーナイフで、鈍い刃と象牙の持ち手がついた、昔風の書き物机によく置いてあるものです。それは教授の机の調度品の一つでした」

ウィズリーは、それを語りながら顔を青くさせた。暖炉の前で寒そうに指先を擦って、目をぱしぱしと瞬かせる。今人差し指でつつけば気絶しそうだ。殺人事件には慣れていないのだろう。


「最初、メイドはジョッシュ青年が既に死んでいると思いました。しかしメイドが驚きで声を上げると、彼は一瞬目を開けました。『教授』彼はつぶやきました。『……あれは彼女でした』メイドは間違いなくこれが正確な言葉だと言っています。彼は必死に何か他の事を言おうとして、右手を宙に上げました。…その後、彼はのけぞって息絶えました。

その間に家政婦も現場に来ていました。しかし彼女は青年の最期の言葉には間に合いませんでした。ローズを死体の側に残して、彼女は教授の部屋に急ぎました。教授はそれまでの物音で、何か恐ろしいことが起きたと確信しており、物凄く興奮してベッドの上に起き上がっていました。
クリスティーナ夫人は間違いなく、教授はまだ夜着のままだったと言っています。そして実際、デリックの手助けなしに服を着るのは、教授には不可能でした。

彼は普段十二時に来るように言われていました。教授は遠くで叫び声を聞いたと言っていましたが、彼はそれ以上の事は知りませんでした。彼は青年の最期の言葉、『教授 あれは彼女でした』に対して何も説明が出来ませんが、それはうわ言だと考えているようです。
彼はジョッシュ青年にまったく一人の敵もいないと信じており、犯行の原因に心当たりはありません。彼が最初にとった行動は、庭師のデリックを地元警察に送ることでした。しばらくして、警察署長から私に出動要請がありました。私がそこに到着するまで、何も動かされていませんでした。そして誰も家に向かう道の上を歩かないようにと厳しく命令されていました。
シャムロックさん。本当に何一つ欠けているものはありませんでした」

「概要はわかった、それじゃあ捜査について聞かせてくれる?」
「はい、まずはこの見取り図をご覧頂きたいです。これで教授の書斎の大体の位置と、事件の様々な点が分かるはずです。この図が捜査を理解する手助けになると思います」

彼は少し皺のついたメモを広げてサミュエルの方へと差し出す。サミュエルはそれを膝の上に置いた。マーリンはそれを見るためにサミュエルの後ろへと周り、そっとメモを覗き込んだ。



「私の書いたものではありませんが、簡略図です。必要だと思った点だけしか記しておりません。これ以外の事は全部、後ほど御二方に御自身の目で確認して頂きたいと思っております。

それでは最初に、殺人犯が家に入ったと仮定して、彼または彼女はどのように侵入したのか。間違いなく庭の道を通って裏口からです。そこからなら書斎へ直接行けるからです。それ以外の道ははるかに困難ですから…。脱出も同じくこの道を通ったに違いありません。
部屋から出る別の二つの道のうち、一つはメイドが階段を駆け下りて来たのでふさがっていました。もう一つは真っ直ぐ教授の寝室に繋がっています。このため私達はすぐに庭の道に注意を向けました。ここ最近の天候の悪さで、地面はぬかるんでおり、間違いなく何らかの足跡が残っているはずだったからです。

…調査して分かった事は、用心深い熟達した犯罪者だということです。道には足跡がありませんでした。しかし誰かが道に沿った草の縁の上を通っていた事、そして足跡を残さないために犯人がそうした事は疑いはありませんでした。はっきりした足跡の形は一つも見つけることができませんでしたが、草は踏まれていて、間違いなく誰かが通っていました。それは殺人犯でしかありえません。庭師も他の人間もその朝その場所には来なかったので」

「、ちょっと待って。その道はどこに続いてるの?」
ウィズリーはやや緊張したように返答を続けた。
「通りです」
「道の長さは?」
「…百ヤードくらいです」
「道が門をくぐる地点には、足跡があったんじゃないの?」
「確か…、いや、確かにそこで道はタイル貼りになっていました」
「そう、それじゃ通りの上には?」
「ありません、沢山の足跡で何が何だか…」
「それじゃ、草の上の足跡は、入る方向か、出る方向か?」
「なんとも言えません。もう足跡の形ですら無くて」
「ふうん。大きかったか小さかったか、すらも?」
「見分けが、つきませんでした…」

サミュエルは目を細めてウィズリーを見た。ウィズリーは視線でざくざくと胸を刺され、どうしようもない気持ちになる。へろりと視線を落として、しどろもどろに「ええと」と呟いた。
「まあ、今見たところでこの天気じゃもう確認できないでしょうね…」
助け舟を出すようにマーリンがそれを口に出せば、サミュエルはふう、と息を吐いて細い指先を組んだ。
「どうしようもないし、いっか。それで何一つ確認できないということを確認した後で、君はどうしたわけ?」

「すみません…。私はその他に、いろいろな事を確認しました。誰かが慎重に外部から家に侵入したことは分かりましたので、私は次に廊下を調べました。そこは絨毯が敷かれていたので、足跡はまったくつきません。これを進むと書斎の中まで行きます。

そこはほとんど家具のない部屋です。主な家具は据付けの引き出しつきの大きな書き物机です。棚には二列の引出しがあり、その間に小さな戸棚があります。引出しは開いていましたが、戸棚には鍵がかけられていました。引出しはどうやら、いつも開いていたようです。
そして貴重品は何も置かれていませんでした。戸棚には重要な書類があったようですが、これが触られた様子はありませんでした。そして教授は無くなった物がないと私にはっきりと証言しています。窃盗行為がなかったことは間違いありません。

私はここで青年の死体のところに行きました。棚の近くでした。メモの…図に印をつけたようにちょうど左側です。刺し傷は首の右側で後ろから前に刺されていました。ですから自分で傷をつけるというのはほとんど不可能です」

「ナイフの上に倒れたのでない限りね」
サミュエルが言った。
「その通りです。しかしナイフは死体から何フィートか離れたところで見つかっていますので、…厳しいようです。もちろん、それに加えて青年の死に際の言葉があります。
そして最後に、この非常に重要な証拠品があります。これは死体が右手に握っていたものです」

ウィズリーはおもむろにポケットに手を入れる。そして慎重に引っ張り出したのは、小さな紙包みだった。ウィズリーはそれを広げ、金縁の鼻眼鏡を取り出す。黒い二本の絹紐の切れ端が、両端からぶら下がっていた。
「ジョッシュ・プール青年は目は非常によかったので、これが犯人の顔からひったくったものであることは間違いないと思います」

サミュエルは眼鏡を手に取り、細心の注意を払って興味深そうに調べた。照明の光を受けてちかちかと縁が艷めく。眼鏡を鼻の上に置き、レンズ越しにメモの字を読もうとした。それからロッキングチェアから立って窓のところに行き、窓の外をじっと見た。そしてランプの明かりの下で眼鏡を外して、非常に丹念に観察する。最後に、サミュエルは含み笑いをしながらテーブルの前でマーリンを手招きする。椅子を引いて、座るよう案内した。

「さて、助手くん。今から僕の言うことをこの紙に記してくれる?」
「いいけど、出来る限りゆっくりね」

「はいはい。…まず、眼鏡の持ち主は愛想のよい女性だ。さらに、淑女風の服装。この眼鏡が女性用だという事は、繊細な作りから分かることだね。もちろん、青年の最期の言葉からも推理できる。女性が立派な服を着た人物だということに関しては、眼鏡は贅沢にも純金の眼鏡枠を使っているからさ。

そして、そんな眼鏡をかけている者が、他の部分がだらしない訳が無いよね。この鼻当ては広すぎて君の鼻にも、僕の鼻にも合わない。これは女性の鼻の付け根が非常に広いことを示している。そういう鼻は大抵短くて大きいけれど、例外もかなり多い。だから人相を特定する上で、そうだと固執することも、断定することも出来ない。

僕の顔は細いけど、それでも僕は自分の目を、この眼鏡の中心どころか中心の近くにさえも持ってこれない。したがってこの女性の目は非常に鼻の側面に近い。君も分かるだろう、ウォーカー。この眼鏡は凹レンズで異常に度が強い。生まれてずっとこんなに極端な近視だった女性は、間違いなく肉体に視力の影響が現れるだろう。つまり、彼女は目を凝らすような表情でいて、額にしわがあり、おそらく猫背。

最後に、ここ数ヶ月で少なくとも二度、眼鏡技師に相談に行った形跡がある。眼鏡の度は極端に強い。眼鏡屋はそれほど多くないから、彼女を突き止めるのにそう困難はないね」

マーリンは感心しながらも、内容を掻い摘んでメモに記した。愛想のよい女性、淑女風の服装。鼻の付け根が太く、目は鼻の側面に近い。目を凝らすような表情、額にしわ、猫背。それから。
「素晴らしい!探偵とは、やはり凄いお方ばかりですね。その推理はどれもよく分かります。…けれど、眼鏡屋のもとを二度訪れたということに関してがよく分かりません。何故分かったのですか?」
「これを見て」
サミュエルは、今度はウィズリーを手招きする。親鳥に続く雛のように慌てて駆け寄ったウィズリーは、その手の中にある鼻眼鏡を見た。
「この鼻当ては、鼻に当たる圧力を和らげるために細いコルクテープで裏打ちしてある。片方は変色してほんの少し磨り減っているけど、もう片方は新しい。明らかに片方が剥がれ落ちて貼りなおしたんだろう。僕の見たところ、古い方も数ヶ月以上は経っていない。二つのコルクは完全に同じ材質のものだ。だから僕は、彼女は二度目も同じ店に行ったと思ったんだよ」

「信じられない!凄い!」
ウィズリーはぱっと顔を明るくして叫んだ。それから、ハッとしたように口を噤む。失礼、と一言呟いてから次の言葉を続けた。
「そう考えれば、私は全ての証拠を手中にしていながら、分からなかったのですね…。とはいえ、デロニカの眼鏡技師を順に巡らなくてはならないとは思いましたが」
「勿論そうすべきだろうね。その前に、この事件に関して他に説明しておく事はない?」
「ありません、シャムロックさん。私たちはあの辺の道路や鉄道の駅で見知らぬ人間が見られなかったか聞き込みをしましたが、何もありませんでした。どうにもわからないのは犯罪の目的全体がまったく欠けていることです。動機の影すら、誰一人思いつかないんですから…」

犯人の特徴が記されたメモを書き終えたのを見計らって、サミュエルはそれをウィズリーに渡すように促す。それを受け取ったウィズリーは、何度か頷きながら会釈をして、紙を四つ折りにした。そして、服の内側へとしまい込む。

「その点については、君を助けることはできないな。でも、君は明日僕たちに現場に来てもらうつもりなんだよね?」
「はい、その、無理なお願いでなければ。朝七時の地下鉄で向かいたいのです」
「じゃあそれに乗ろうかな。君の事件には確かにいくつか非常におもしろい特徴があるし、喜んで調べるとしよう。助手君、明日は早起きだね」

「そうだね。まあ、起こすのは俺だけど…」
マーリンは、肩を竦めて苦笑いをした。




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